国際交流
ネパール氷河調査隊ハージュン基地建設
はじめに
調査許可書の申請と取得(To→Of→For)
私が参加した1960年代から1970年代初めまでの氷河調査隊の英名はGlaciological Expedition to Nepalだった。直訳すると、ネパールへの氷河遠征隊。「遠征」という名前も時代がかった感じ(アレキサンダー大遠征ならいざしらず)だが、当時の調査隊はじめ登山隊も遠征隊の名前を使っていた。しかし、1973年のわれわれの氷河調査隊の時代になると、その題名ではカトマンズのネパール外務省への2カ月ちかい交渉でも調査許可がもらえなかったのは、外国(日本)から来たよそ者によるネパールへの氷河調査隊というニュアンスが強すぎたためだったかもしれない。調査許可の交渉のためネパール外務省に日参しているうちに、ネパール人とのつきあいも深くなり、それにつれてネパール語が話せるようになると、私の考え方も変わり、ネパール人との共同調査の性格をより強く示すGlaciological Expedition of Nepalの題名にしてようやく許可を取ることができたのである。さらに1980年代になると、氷河湖の決壊による洪水被害が頻発するようになり、共同研究も現地住民の生活安全・安心を考慮したGlaciological Expedition for Nepalの意識が強くなり現在に至っている。このように「to Nepal」というよそ者の時代から現地のニーズをくみとりながら双方向的に課題解決を目指す「of Nepal」および「for Nepal」の時代に変化してきた実体験から、私は退学定年後、新しい任地であるネパールの国際山岳博物館でも「for Nepal (Himalaya)」の観点で学芸員の仕事をしてきた。そこでの成果はこのウェッブ・サイトやブログで報告していきたい。
山岳博物館構想
そもそも1974年に、ネパールに「山岳博物館」を設立することを私たちは構想し、亡くなられたビレンドラ国王の親族クマール・カドガ・ビクラム・シャー殿下に提案していた。驚いたことに、それから30年後にそのクマール・カドガ殿下の1万坪ほどもある広大な土地に、国際山岳博物館は建てられたのである。私はネパール・ブータン・インドやモンゴルなどの内陸アジアで水資源課題を中心にした環境研究を40年間ほどしてくるなかで、環境課題の解決には住民の環境意識の向上が基本であることを実感している。そこで、住民の環境意識の向上のためには現場でのエコ・ツアーによる環境教育が必要ですが、滋賀県の琵琶湖博物館などを参考にしながら、ネパール語の会話能力を生かした子供・青少年たちへの日常の啓蒙活動も国際山岳博物館ではできるだけ取り組んでいきたいと思っている。
住民参加型
氷河湖決壊洪水の災害で危機感を訴えているクンブの住民たちは、実際にはGLOFを引き起こした上氷河湖やその危険性が叫ばれているイムジャ氷河湖などを見ていない人が多く、自分で判断できないため、必要以上にこれまでの調査隊の「危険」情報に惑わされているのではないか。そこで、住民と一緒に、これまでにGLOFを引き起こした氷河湖やそのモレーン構造の問題点を現地で見ながら、GLOFの要因について話し合っていくことが、住民に安心感をもってもらうために必要だと考える。彼らの指摘する「対策」とは単にハードな土木工事だけではなく、ソフトな住民の心のケアーも必要な段階にきていることを強く感じている。
地球環境との関連
地球環境問題には多様な側面があるが、アジアでは、大河川の水源地であるヒマラヤの氷河が地球温暖化で融解し、そして氷河湖の決壊・洪水および氷河の消滅などの水資源の不安定化が重要な緊急課題になっている。想定される水資源の不安定化による南アジアの環境難民問題などの重要課題解決のためは、おおもとのヒマラヤの環境変動が基礎になる、と考えている。そこで国際山岳博物館を舞台にした環境教育・研究活動によって、アジアの大河川の水源地であるヒマラヤなどの内陸アジアの自然環境変動と水資源課題の解明・対策を現地住民とともに検討するなかで、人口増加が進行する南アジアなどの水資源・環境問題に警鐘を鳴らす「炭鉱のカナリヤ」の役割を果たしたい、と希望している。
2009年の再訪
1973~1978年に氷河観測の拠点になっていたハージュン基地が地元の人によって夏の放牧小屋(カルカ)として再利用されているのを知り、うれしく思ったものだ。
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