2012年12月30日日曜日

海外調査と国際協力-ヒマラヤとモンゴルの経験から-


回想記
海外調査と国際協力-ヒマラヤとモンゴルの経験から-


1)はじめに

アジアの大河はヒマラヤやチベット・モンゴル高原などの内陸アジアにその源を発する.黄河・長江・メコン川・ガンジス川・インダス川・オビ川・エニセイ川・レナ川・アムール川などである(図1).人工衛星から眺めれば,内陸アジアにはたくさんの湖沼が分布するのを見てとれる.たとえばチベットはあたかも湖の高原の感がする.目を閉じて広大なアジアを思いうかべると,内陸アジアのチベットやモンゴル高原およびヒマラヤなどから黄河やガンジス川などのアジアの大河が沿岸部の大都市へと流れ下っているのを想像することができる.急激な人口増加が見こまれるアジアの大河下流域の大都市周辺にも多くの湖沼があり,それぞれ湖沼は大河川とともに,住民の生活と深くかかわっている.
モンスーン地域の冬の乾季にもアジアの大河の水量が維持されているのは,内陸アジアの山岳や高原に分布する氷河と永久凍土からの溶け水があることが大きな要因である.そのため,現在のような地球温暖化の初期には氷河と永久凍土が急速に融けることによって,内陸アジアの河川水量および湖水量は急速に増加する.しかし,温暖化がさらに進行すると予測される21世紀後半には,氷河と永久凍土層が縮小してしまうので,水資源が乏しくなっていくと解釈できる.従って,今世紀中にはモンスーン地域の乾季の水資源量は少なくなり,アジア全域に深刻な水資源・環境問題をひきおこすことが危惧される.アジアの水資源動向の重要な鍵の1つが水源となる氷河や永久凍土現象にあるのである.
さらに,温暖化によって海水準が上昇すると,海岸低地部の地下水層中に塩水楔(Salt Wedge)現象が起こるであろう.なぜならば,河川水位の減少に対して,海水位の上昇で,海水が河川の河口部に浸入するとともに,地下水層にも貫入するからである.すると,人口増加が世界的にも著しいアジア各大河の河口部大都市では,河川水量の減少にくわえて地下水の塩水化で淡水資源の欠乏問題が深刻になるであろう.水資源の枯渇問題は,さまざまな大都市化に起因する環境諸問題ともからみ,早かれ遅かれ,緊急なEnvironmental Issueを投げかけてくるのは必定と言わねばなるまい.
もとより内陸アジアは広大であるので,現地研究者との共同体制を組まねばならないが,さらに地元住民との連携も重要である.そこで,今号の特集テーマに関連する環境・文化に関る国際協力の視点から,21世紀の水資源問題について大きな影響をあたえる内陸アジアの氷河と永久凍土現象の共同研究の歴史を,ヒマラヤとモンゴルの経験からふり返ってみたい.

図 1  東アジアの河川系

2)ヒマラヤの経験

1973年から1978年まで続いたネパール・ヒマラヤ氷河学術調査隊の正式名称は Glaciological Expedition of Nepal であった.直訳すると,ネパールの氷河調査隊,英語の略称は,GEN.Expedition (遠征)の名称には前時代的な響きもあるが,当時の調査隊はおしなべて,アレキサンダー大王の感もするExpeditionの名称を使っていた.とにかく,略称のGENはゲンと読めるので,験(げん)が良くなることを調査隊の誕生にあたり期待したのである.
しかし,GENの略称だけでは見えないが,GEとNのあいだに”of”が入っている.メンバーが日本からきている隊なので,GE”to”N(ネパールへの氷河調査隊)であって,GE”of”Nでは英語の表現としておかしいという意見も当初はあった.と言うのは,当時の日本から出て行く調査隊の英文名は,通常(・・・Expedition to・・・)だったからである.
先遣隊メンバーとしてネパールの首都カトマズ入りしたぼくは,ネパール外務省と調査許可を得るための交渉をすることになった.そこで,従来方式でGE”to”Nの計画書を作ったのであるが,その計画書ではネパール外務省への2カ月ちかい交渉でも調査許可がもらえなかったのである.外国(日本)からやってきたネパールへの氷河調査隊というニュアンスが強すぎたのだろうか.調査許可の交渉のためネパール外務省に日参しているうちに,ネパール人とのつきあいも深くなり,それにつれてネパール語もいけるようになると,ぼくたちの考えかたもだんだん変わってきた.時は1973年春,ぼくは大学院の学生だった.
(よし,できるだけ現地主義でいこう.)
ぼくたち貧乏学生調査隊は,食料や薪などの衣食住をはじめとして,現地のひとびとの協力なしにはやっていけないのだから,好むと好まざるとにかかわらず,かなりの部分を現地主義でいかざるをえなかった.たとえば薪についても地元の理解が必要で,シェルパの人たちが住むヒマラヤでは,モンスーンの雨期の期間は「宗教上の理由で煙をだしてはいけない」との申し出があったときも,それでは生活ができなくなるので,地元の村の人びとと何回にもおよぶ協議をおこなったうえで,やっとわたしたちが火をたくことを許可してくれたのである.

                                    写真1 ヒマラヤのハージュン観測所

だから,英語の表現が少しくらいおかしくとも,GE”of”Nだと,現地主義の感じがでているではないか.GE”to”Nでは,いかにも,よそ者がやっている感じがする.(それなら,さらにすすめてGE”for”Nのほうがよかったかな,と考えないでもなかったが).ところで,GE”of”Nの計画書にしてしばらくすると,ネパール外務省は調査許可証をついに発行してくれたのである.そこで,地元の人たちの協力を得ながら,世界最高峰チョモランマ(8850m)のふもとのハージュンと呼ばれる牧草地に観測基地(写真1)を建設した.地元の人によると,地名のハージュンとはシェルパ語で,幸福をもたらす神のすむ平らな土地という意味があるとのことであるので,ますます(験,GEN)がよくなりますようにと願ったのである.こうして,1973年春,学生たちだけの1年間のネパール・ヒマラヤ氷河調査隊(GEN)はスタートした.
ネパール・ヒマラヤ氷河調査隊の目的はヒマラヤの氷河の実態を明らかにすることで,そのため氷河形成にかかわる気象や地形・地質調査を行った.わたしたちは学生であるから,当然のごとく1年間の調査をする金がなかった.そのため,1960年代半ばに滞在したことのある北極海の氷島へでかけ,1973年の沖縄海洋博用に長さ30m,直径30cmの氷柱を展示するというある企業のアルバイトをするはめになった.お陰で,数百万円ほどの軍資金をかせぎ,通算10人ほどの学生たちが通年調査をすることができた.この年のぼくは,半年のヒマラヤの調査で15キロの減量に成功したものの,その直後の北極海の贅沢なアルバイト生活でふたたび体重が元に戻るという大変化を経験したのも今となっては懐かしい思い出である.この学生隊が発端となって,翌年からはネパールのトリブバン大学の研究者との共同研究体制を組み,1978年までつづいた旧文部省の長期海外学術調査へと発展していったのである.

                                      写真2 氷河湖決壊による洪水被害の村

1960年代までのネパール・ヒマラヤの氷河調査隊は,GE"to"Nの時代であった.山登りなどの外国隊と同様,いわゆるよそ者の調査時代といえよう.そして1970年代になると,ぼくたちのGE"of"Nの観点がめばえたが,1977年,ぼくたちが現地に滞在していた時に発生した氷河湖の決壊による洪水災害(写真2)を契機として(この調査はブータンでも現在行われている),1980年代からは自然災害対策を目的としたGE"for"N(ネパールのための氷河調査隊)の段階に変化し,ネパールの気象・水文や水資源部局の行政担当者たちとの共同研究体制も組まれるようになっている.また.GE"for"Nの時代になるのと併行して,調査を手伝ってくれていた現地の若者の奨学金募集を行い,大学卒業後に地元の学校教師なった彼をさらに援助するとともに,現地の大学や研究機関との共同研究によって,ネパール人研究者をも育ててきているのである.

                                         写真3 ヒマラヤの県大第1期生

1997年の夏,ぼくは県立大学の第1期の学生たちとネパール・ヒマラヤのフィ-ルドワークを行い(写真3),全員で標高4500mの氷河地域にまで行くことができた.その内容は,その年の湖風祭のとき,各学生がそれぞれのテーマをまとめて発表したのである.できれば将来は,このような学生たちの外国のフィ-ルド・ワークが一種の「特別実習」になれば良いのだが,と考えている.外国での新しい経験は必ずや学生たちの将来の糧となり,学生たち自身が育っていくことであろう.これはいわゆる総合学習である.国際教育到達度評価学会の学力試験で,理数系の暗記教科の点数が低かったというので,文科省などから総合学習削減の方向性が出されているが,学力を知識量で測るよりも,学生個人の知恵の豊かさのほうがより重要なではあるまいか.というのは,その学力試験の結果に明らかな「考え学ぶ力」が衰退していることの方が深刻だと考えるからである.
ところで,学生たちとのヒマラヤの旅はぼくにとってもかけがえのないものとなったので,サンライズ出版の”Duet”8巻5号に次のように記したのであった.「滋賀県立大学のフィールド・ワーク・クラブの部員と,ヒマラヤの環境問題を調査した.調査内容は,ネパールの首都カトマンズの水・大気・ゴミ問題など,および,カトマンズ北方のランタン・ヒマラヤの村々までの自然・社会環境の実態と課題を踏査することであった.ランタン・ヒマラヤは,私にとって21年ぶり.ヒマラヤへの旅は,カトマンズから離れるにしたがって近代化の影響がしだいに少なくなるので,あたかも歴史をさかのぼるタイム・トンネルをくぐるかのようだ.およそ2昔前のヒマラヤの面影を重ねあわしながら,同時に,かつての日本の姿をみいだす旅ともなった.」
「人と自然の共生をめざして」という看板が犬上川の河川改修現場に立っている.しかし,河辺林であるタブ林からみれば“人は助けてくれてはいない”ので,「共生」とは決していえない.今まさに心配なのは,人為的影響をあたえすぎてしまったために,タブ林の維持にとって必要な持続的な形成条件を失ってしまったのではなかろうか,ということである.そのために,タブの後継木が育ってくれたらと願うのみである.私たちにできるのは自然をできるだけ残して,せめて「共存」していくことなのであるまいか.後世の人たちに「タブの木は残った」といえるような自然環境との共存関係を実現したいものだ.そもそも1980年代から「地球全体のことを考えて,地域で行動せよ ( Think globally, act locally. )という標語が登場しているが,地元のわれわれにとっては,まず( Act locally, think globally. )なのではないか,と考える.
以上のように,ヒマラヤ調査の基本的な姿勢がGE"to"NからGE"of"NをへてGE"for"Nに,調査隊自身も変化してきたのは,国際協力における海外調査の進化ととらえることができるのではなかろうか.その過程で,地元研究者との共同体制の確立や,現地住民との連携および県立大学の学生たちとの環境教育的な活動へと展開してきたのである.このことはとりもなおさず,滋賀県立大学環境科学部のフィ-ルドワーク(FW)も,FW1の課題発見,FW2の解析・分析,FW3の課題解決にいたるプロセスと対比できる,と思う.課題解決にいたる最終的プロセスには,現在のぼくたちが取り組んでいる「GE"for"N」と共通する視点があるからである.われわれは現在「犬上川を豊にする会」で地元住民と行政関係者とともに河川改修の進む犬上川の具体的な環境改善活動を行っているが,ネパールに関しても,2004年に開設された国際山岳博物館に対して,われわれのこれまでの成果を生かしながら,環境教育的な支援が将来はできないものかと計画しているところである.

3)モンゴルの経験

バイカル湖に近いモンゴル北西部に位置するフブスグル湖(写真4)の課題は水位上昇である.この20年ほどで60cmも上昇したという.1年平均で3cmにもなる.そこで,私たちの調査テーマ「フブスグル湖の経年的水位上昇」の要因としては,まず地球温暖化による永久凍土の融解が影響しているのではないかと仮説的に考え調査を始めた.なにしろ,フブスグル湖の面積は琵琶湖の4倍もあるので,60cmの水位上昇は琵琶湖水位に換算すると2m以上の大きな変化になるのである.

                                        写真4 モンゴルのフブスグル湖

琵琶湖も,明治前半までは水位上昇が大きな問題であった.洪水にしばしばみまわれていたからである.琵琶湖のかつての水位上昇の原因は人為的な山地の破壊で,多量の土砂が琵琶湖に流入し,琵琶湖からの出口である瀬田川に自然のダムができ,流れを堰きとめるようになっていたからとみなせる.それでは,かつての琵琶湖の水位上昇速度はどのくらいになるのか.現在よりも1mほど高い明治前期の水位にまで上昇してきた平均速度を概算してみると,まず5千年ほどまえの縄文遺跡が,最近の平均水位0cmを基準にして,-2mの湖底に広く分布する(粟津遺跡など)ことから推定すると,明治前期までの1m高かった分をくわえると,縄文時代から水位は3mほど上昇したことになる.すると,平均水位の上昇速度は1年で0.6mmである.しかし,縄文時代は,その後の新しい時代よりも,より自然と共存する生活だから,山地破壊などは少なかったと考えると,近代の環境破壊の激しかった時代の値としては過小評価の可能性が高い.例えば,戦国時代の長浜の太閤井戸や明智光秀の坂本城の城壁が,琵琶湖水位が-1mちかくになると,現れることから見積もると,水位上昇速度は5百年ほど前の戦国時代からは1年で4mmとなる.どうやら,戦国時代からの上昇速度は縄文時代よりは1桁,大きいようだ.環境破壊がさらに進んだことを示すのであろう.

                                      写真5 水位上昇で浸水被害の湖岸森林

以上のように,琵琶湖水位の平均上昇速度は0.6~4mmの範囲になり,時代が新しくなるにつれて,上昇速度が大きくなってくる.これらの値と比較してみても,フブスグル湖の値は琵琶湖のものより,さらに1桁,大きいのである.このような大きな上昇速度のため,フブスグル湖岸周辺の牧草地や森林が水没している(写真5).さらに,北部湖岸の町ハンクでは水没の危険にさらされ,町の移転が進められているという.深刻な事態だ.なんとか,この課題解決のための知恵をだしたいというのが,調査の課題であった.

                                          写真6 山火事被害のカラマツ林

そこで,永久凍土の融解現象の実態を明らかにするため,地温観測を中心に調査することになった.そして,フィールド・ワークをしなければ気づかなかったような興味ある現象が明らかになったのである.まず,カラマツの森林地域ではところにより地下1.5mで地温が0℃,つまり凍土層の存在を明らかにすることができた.また、大部分のカラマツ林では地下2m周辺の地温が0℃になることが予想された.森林が立派に保存されていると,木の枝や葉が日射を遮るので,地温が低く保たれ,永久凍土を保護しているのである.永久凍土が地表面近くにあれば,夏に溶ける表面付近の地下水を利用して森林が育つ.つまり,森林と永久凍土とは互いに助け合っている1種の共生関係にあるともいえよう.ところが,牧草地や山火事で焼けた林(写真6)では地温が高く,地下の凍土層の融解がすすんでいることが明らかになった.牧草地は当然人為的だが,山火事もその要因が大きいといわれる.というのは,薬などに利用する目的で,シカの角やジャコウを風下に追い込んで射止め,狩猟の後に見つけ安くするため下草を燃やすので,そのとき森林も焼けてしまうのだという.また最近では,観光客用のジャム生産のために,ブルーベリーやコケモモなどを収穫した後,火をつけるのだとも言われている.下草を肥料になる灰にし,来年の実りを良くするために火事をひきおこしていることになる.南面に広がる牧草地や広大な山火事などによる森林破壊の大きさを見るにつけ,人為的な影響の大きさを感じざるをえなかった.人為的山火事の影響については,フィールド・ワークで始めて明らかになったことであるが,森林保全に関する住民の環境教育が重要であることを示している.

                                        写真7 大戸川河口の自然のダム

実はこの調査には,もう1つの懸案があった.それは.フブスグル湖南端部の湖から川に変わるところの地形調査である.懸案といったのは,今回の調査に出かける前に,「かつての琵琶湖のように,瀬田川が埋まり,流れにくくなったら,水位が上昇するのではないか」という仮説を考えていたからである.ぼくの心には,瀬田川を埋める大戸川のようなイメージ(写真7)がうかんでいた.大戸川が瀬田川に流入する南郷周辺の黒津の河床を明治前期まで埋めていた「黒津八島」のことである.

                                       写真8 フブスグル湖出口の自然のダム

さて,帰りの飛行機の出発時間を気にしながら現地調査に行き,ふたたび驚くことになった.なんと,フブスグル湖からの流出河川には自然のダムができ,せせらぎになっている(写真8)のである.かつての「黒津八島」もかくありなんという地形が展開している.とにかく,まず,足のくるぶしほどの深さしかない右岸の浅瀬に長靴で入った.川幅は30mほどで,右岸側の半分ほどが深さ10~20cmのせせらぎになっているほど川床が礫で埋まっている.左岸側の水深もそれほど深くはなく,60~70cm程度である.とにかく,飛行機の出発までの時間がないので,周辺に落ちていた木片や牛糞・ガラス瓶・ポリ瓶などを利用して表面流速などを2時間ほどで測定した.明治前期までの人々が「黒津八島」を渡り歩いていたことを想像しながら,河床を歩きまわった.ところで,フブスグル湖南端の湖から川に変わる右岸側を見ると,不自然な形をした礫の丘が分布しているのである.その大きさは,高さ2m,幅7m,長さ70mほど.これはまぎれもない人工的な構築物である.ということは,住民の人たちが水位上昇対策として,フブスグル湖のいわゆる「黒津八島」をすでに浚渫・除去していたことを示す.フブスグル湖の水位上昇問題の解決策をすでに住民が実践していたのである.このことは,フブスグル湖の水位上昇の原因と対策に直接関係し,被害にみまわれている町や湖岸森林の保全を考えるために重要である.
そこで地元の人に聞くと,1980年代初めに浚渫をしたのだという.その際には,フブスグル湖の水位が30cm低下しているのが水位変化図から見てとれる.モンゴル国立大学の先生に聞くと,1970年代にも数回浚渫した可能性があるとのことである.礫の丘の体積はせいぜい千百m3ほどになるので,1人1日1m3を川岸まで運ぶとしても1000人日分の仕事に過ぎない.10人でやれば100日でできるのである.この手法で,フブスグル湖北部の町,ハンクの人たちの心配を和らげ,森林保全を達成することができるという見通しをつけることができた.

4)まとめ

ヒマラヤもモンゴルでも,氷河と永久凍土の融解で湖沼の拡大期を迎え,大きくなりすぎた湖沼の決壊・洪水や,また湖岸集落や森林の水没による災害がひきおこされている.このことは,現在は水資源が豊富な時代に思えるのだが,将来は氷河や永久凍土の減少で,水資源の乏しくなることを肝に銘じなければならない.すでにチベット内陸部に現れているような湖沼縮小・塩湖化現象が,今世紀中頃にはヒマラヤ山脈・チベット~モンゴル高原全域におよぶ可能性がある.氷河や永久凍土,つまり固体としての淡水資源が地球温暖化で融け,枯渇するからである.アジアの大河川はこれらの地域を水源とするので,1年の大半を占める乾期の河川水量は減少し,すでに黄河で現れているような断流現象が,アジアの各大河川にまでおよぶと,著しい人口増加が見込まれる南アジアに深刻な環境課題(issue)をひきおす.
フブスグル湖の現地調査で述べたように,原因がわかると,対策がはっきりする.まず短期的には,自然のダムを取り除くことである.1980年代初めのような浚渫を実施すれば,水位を30cm低下させることができる.ただし,かつての社会主義時代は人海戦術のような土木工事が容易にできたが,自由社会となった今はなかなかできないようだ.次に,中期的な対策としては,森林保全のための土地利用の改善で,住民への環境教育が重要になる.そのため,現地の研究者や大学生たちと現地調査とともに討論会を実施してきている.さらに,最後の長期的な課題が地球温暖化対策で,アメリカなどの離反者を再説得しながらもまずは先進国が中心になって京都議定書を遵守していく必要があろう.

2012年11月30日金曜日

「2012年秋ネパール調査」番外編


2012年秋ネパール調査」番外編(1) インドネシア

トバ湖のホテイアオイ


「昔トバ湖にホテイアオイが大繁茂し、魚の餌が育たないので漁師が何とかならないか、と相談を受けたのを思い出しました。その後どうなったか見てきてください。」と石本さんから言われていたので、今日はパングルラン周辺のホテイアオイの分布状況をバイクで見て回りました。

                     ホテイアオイのはえる湖岸で洗濯する女と水遊びする子供たち

ホテイアオイはパングルラン南西部の生活排水が入る閉鎖的な湖岸部分に主として分布しています。ただ、透明度は2mほどもあり、琵琶湖南湖より水はきれいで、子供たちは水遊び、女たちは洗濯をしています。魚もいますし、釣り人もたくさんいます。採集したホテイアオイが船に積んであるのも見ましたので、利用しているのかも。

                                              パングルラン北西部の広大なトバ湖

ただ、ホテイアオイの分布は、トバ湖全体を考えたら、局所的ですので、ネパール・ポカラのフェヴァ湖などに比べたら、今のところは、大きな問題にはならないのではないでしょうか。パングルラン北西部の広大なトバ湖では(例えば温泉地域の排水が入る部分)、子供や青年たちもが湖水で歯を磨き、口をゆすぎ、水浴しているのを見ると、話に聞く、琵琶湖の1950年代(高度成長期以前)の湖岸生活を見ているような感じです。
これらのことから、広大なトバ湖はまだまだ素晴らしい水質を保った貴重な財産である、言えるでしょう。財産ということに考えが及ぶと、ヒマラヤとの共通点がでてきます。ヒマラヤの神々の座、その麓の森林も、トバ湖同様に貴重な財産であり、自然(浄化)力の範囲内で利用している限り、財産は保たれるのです。

トバ湖のホテイアオイ(2)

前便で「ホテイアオイを利用しているのかも」と書きましたが、やはり、肥料として利用していることが分かりましたので報告します。

                    波止場でホテイアオイを天日干しにし、肥料を作っているところ

上記の写真は、パングルランの波止場でホテイアオイを天日干しにし、肥料を作っているところです。この肥料は、現地バタックス語でウンブール・ウンブールと言われ、現在のところ、住民が個人的に行っている小規模なものですが、地元の人は行政がかかわって大規模に行ってほしい、と述べていました。ポカラのルパ湖で行っているホテイアオイ問題解決のための住民・生活改善運動が、湖の規模こそ違うが、示唆に富むのではないか、と思いました。湖水中の栄養分を吸収して成長したホテイアオイを湖から除去すれば、当然、水質改善に寄与するとともに、さらに肥料として利用できるのですから、まさに一石二鳥です。それにしても、パングルランでも、ホテイアオイの肥料化を住民の発想で行っているのには感心しましたが、行政の方は、今のところ大きな問題とはとらえていないのかもしれません。

                                         生簀で養殖されたテラピア料理


パングルラン周辺にはたくさんの生簀があり、テラピアなどを養殖しており、相当な飼料をまいているはずですが、養殖による水質悪化(富栄養化)の問題も、また養殖業へのホテイアオイの影響も、単位湖水量当たりの人数が少ないので、今のところは出ていないそうです。パングルランの人口は3万人程度で、集水域のなかで人口の多いサモシール島全体でも約12万人、人口密度は84/km2ですので、滋賀県の人口140万人、人口密度人352/km2と比べると、大きさも琵琶湖とそん色のないトバ湖(面積625km2)への人為的影響は、琵琶湖の10分の1程度で、はるかに小さいのです。そのため自然(浄化)力が発揮されているため、前回のフィールド報告のように、今のところ富栄養化などの水質問題に大きな影響が出ていないのでしょう。宿では、酢豚風の味がすばらしいテラピア料理があり、ヒマラヤで痩せた体がもとに戻りそうな感じがしました。
パングルラン北部の広大なトバ湖を見ていると、水質的にもきれいな琵琶湖北湖やモンゴルのフブスグル湖をふと思い出していたりもしています。さて、インドネシア滞在の4日間をトバ湖で過ごし、インドネシア風の焼きそば(ミィー・ゴレン)にも慣れてきたところですが、今日はトバ湖を離れ、メダン経由でクアランプールへ戻り、そして明日はヤンゴン水郷地帯へ行けるのを楽しみにしているところです。

2012年秋ネパール調査」番外編(2) ミャンマー(ビルマ)

ヤンゴン周辺の水郷地帯


                                                                トンテーの焼き物工場

「ヤンゴンでの一日は、ヤンゴン川を対岸にでかけてトンテーという焼き物の町にでかけるのもおすすめです」と干場悟さんからは言われていたので、ヤンゴン到着翌日、早速行くことにした。ヤンゴン川の渡し場で切符を買っていると、トンテーの実家に行く日本語を話すイ・トさんが近づいてきて、彼が連れて行ってくれることになりました。彼は日本に7年ほどいて、王将や北の酒場などのチェーン店で働いていたという。泥のヤンゴン川をフェリーで渡ると、乗合タクシーでトンテーまで行き、彼の実家で一休み。すぐに焼き物屋を案内してくれました。焼き物は素焼のものがほとんどで、ヤンゴンの街角などに置かれている450cmほどの素焼の壺ですが、中には1mほどのものを二人がかりで作っていました。

                                        泥の河の運河に面した桟橋に積まれた焼き物

トンテーの北西には、ヤンゴン川から引いた運河があり、焼き物が運河に面した桟橋に積まれています。船でミャンマー各地へ運び出すのでしょう。もちろん、この運河の水も泥水です。透明度ゼロとおぼしき泥水にはホテイアオイが浮かび、人々が船をこいでいるのは、中国から東南アジア、インドなどの南アジアに共通する景観です。
ヒマラヤに発した南アジアの大河は、身を切るように冷たい源流の清流やグレーシャー・ミルクの流況が中下流域に来ると、泥水になります。これまで見た黄河も、揚子江も、ガンジス・インダス両河川もそのように変化していました。飛行機から見ただけですが、メコン河もそのようでした。地球環境的に考えると、人口増加今世紀後半の地球上でもっとも大きいのがこの南アジアなので、この泥水地帯は、淡水資源の重要課題を潜在的にかかえているところであるといえるでしょう。

                                                 南アジアの水循環図

南アジアのモンスーン地帯には雨期と乾期があり、ヒマラヤに発する南アジアの大河地域では、とくに乾期の水資源として氷河の解け水が重要ですが、貴重な水資源が温暖化で解け続けており、地球温暖化がこのまま続くと、ヒマラヤの6千メートル前後の氷河のほとんどは今世紀半ばにはなくなってしまう、と私は考えています。黄河流域では、毎年半年以上、水の流れがない「断流状態」になっていると言われていまが、今世紀後半のヒマラヤの氷河の縮小期にはその他の南アジアの大河も「断流状態」になる可能性を視野に入れておかねばならないでしょう。さらに今世紀後半には、温暖化で世界中の氷河が解けるとともに海水温上昇で、海水の水位が上昇します。従って、人口増加の著しい南アジアの大河河口部の大都市周辺では、海水が河川や地下水にも進入してきます。すると、淡水資源の枯渇化はさらに進み、人口増加の影響を受けた数億に達する環境難民が発生するのではないか、と危惧されるのです。南アジアの大河の源はヒマラヤですので、その水源である氷河の変動を見つめていくことは、単に上流のネパールなどの山国の問題であるばかりか、南アジアの大河の河口部や沿岸部の課題でもあるのです。

以上の課題を、翌日のみならず翌々日の帰りの日もヤンゴンのスレーパゴダやミャンマー民俗村を案内してくれたイ・トさんは十分理解・納得してくれたかは疑問ですが、「じゃー、どうすればいいのか」というので、「地球温暖化を止めなきゃ」と答えると、「それで、日本はどうする、の」とつっこまれました。つぎに会う時に、はたして彼の理解は深まってくれるであろうか。

2012年11月6日火曜日

2012年秋ネパール調査報告


2012年秋ネパール調査報告

 ポカラを起点としたマルシャンディ川沿いの調査地域概略図(グーグル・マップとGPS軌跡ルート)

ネパール中央部のマナスル周辺地域の氷河・湖環境変動に関する調査を、20121024日~115日まで行った。調査内容は、マルシャンディ川支流のダナ・コーラ上流のツラギ氷河・湖では氷河・氷河湖変動と水草、マルシャンディ川支流のドゥドゥ・コーラ上流ビムタン地域では2006年洪水とポンカール湖の環境変動調査、および今回の調査旅行を通じて体験した環境課題のトピックスとしては、森林資源や道路開発の実態、トイレ問題、またその他としては雪男、野鳥料理、デジカメの功罪、馬の旅や友人の分骨場などについても概要を報告する。

      マルシャンディ川上流域の調査地域(グーグル・アース画像とGPS軌跡ルート)

A. 調査結果

(1)ツラギ(ダナ)氷河・湖



                  1975年以降のツラギ氷河・湖の変動図


ツラギ氷河は末端部のカービングによって2009年までは急速に後退(したがって、氷河湖は拡大)していたが、ツラギ氷河の屈曲部付近で、2010年以降は末端部分が氷河湖底に座礁した状態になり、氷河の主な消耗は表面低下で、末端変動は停止した状態になっている。

1.氷河湖変動と氷河湖決壊洪水(GLOF

水位低下現象

 2009118日の軌跡ルートを2005115日のグーグル画像に重ねた図

ツラギ氷河湖の水位低下現象に気がついたのは湖岸沿いに歩いたGPSの軌跡ルートをグーグル画像に重ねて見ると、2005115日の画像上では、2009118日の軌跡ルートがほぼ湖岸(汀線)に並行に、岸から20~30mの湖中を通っているので、2005年の水位は2009年よりも高かったと考え、氷河関係者の集まりで話したところ、誤差の問題があるので、水位変化とは結びつかないのではないか、という指摘を受けたことがある。ところが、新しく公開された2011年12月30日のグーグル画像に2009年の軌跡ルートを載せてみると、軌跡ルートは歩いたとおり、湖岸(汀線)沿いに通っているので、ツラギ氷河湖の水位は2005年から2009年にかけて低下していたことが確認できた。


2009118日の軌跡ルートを2011年12月30グーグル画像に重ねた図

それでは実際にどの程度水位低下しているかというと、水位低下してからの時間があまり経っていないので、高水位時代の汀線を示す植生のない湖岸部が湖面から2.5m上に連続的に分布していることから、最近の水位低下量は2.5mと見積もることができる。水位低下の原因としては、氷河湖の流出口部分がそれ以前の水位上昇時の水量によって侵食され、流出口の位置が低下したため、湖面水位が低下したものと解釈している。

ツラギ氷河湖末端部の水位低下(左上写真はかつての水位計が干し上がっているのを示す)

このような水位低下現象は、ネパール水文気象局(通称DHM)が1996年に調査した時の氷河湖末端周辺の写真と2009年のものと比較しても明らかで、氷河湖末端部のグレーシャーミルクのP1部分が、水位低下によって、2009年には透明度の高い池P2に変化しているのである。なお、次に述べる水草の繁茂はこのP2の池で起こっている現象である。

               1996年のDHM隊と2009年の末端地域の変化

自律的対応機構

これまでのネパール・ヒマラヤの氷河湖決壊洪水(GLOF)の調査から、決壊した氷河湖はいずれも小規模なもので、氷河湖をせき止めている堆積物(モレーン)中の化石氷が溶けたりすれば、古くなったロックフィル・ダムのように構造が弱くなり、そこに雪崩・岩石崩壊による津波の影響が加われば、小規模な氷河のモレーン構造の脆弱性によって、末端モレーンの決壊の要因になり、GLOFを引き起こしたと考えられる。一方、モレーン強度の高い大規模氷河湖の場合は、直下型の大規模地震でもない限り、モレーンは安定しているとともに、温暖化の進行による融雪・融氷水流入の増加がすすむなかで、結果として引き起こされる氷河湖の水位上昇に対して、(あたかも自律的に)氷河湖の流出口が水量増加で侵食され、湖面水位を低下させる現象がツラギ氷河湖で起こっていると解釈できたので、大規模氷河湖にはGLOFリスクへの(自律的な)対応機構があるのではないかと考えている。もし、この解釈が妥当ならば、ツラギ氷河湖自体が、GLOF災害の発生リスクを高める水位上昇への事前防止機能を発揮しているものといえるであろう。したがって、GLOF対策とはいえ、すでに行われてきている大規模土木工事は、各々の氷河湖の特性に対応したGLOFリスクへの(自律的な)対応機構を調査したうえで、再考すべきだと考える。

                  ツラギ氷河湖の流出口(2012.10.29)

GLOFの可能性

 ツラギ氷河湖のGLOFリスクへの(自律的な)対応機構が働いていると解釈できることに加えて、末端部分のモレーンは層厚が100m以上と堅固な堆積物なので、末端部分を破壊する直下型の大地震でもないかぎり、GLOFは発生しないであろう。このことは、クンブ地域のイムジャ氷河湖とも共通性があるので、住民に対して、いたずらにGLOFの恐怖心を煽ることは慎まねばならない、と考える。というのは、2009年春に調査したイムジャ氷河湖近くのディンボチェ村の住民代表が私たちのところに来て、「去年は氷河湖調査隊が7隊きた。調査隊は危険だとは言うが、何が、どのように危険なのかは言ってくれない。危険という言葉が独り歩きしているので、学校も発電所も病院も作ることができないで困っている。もう、調査隊はたくさんだ。」とこぼしたのを心に留めておきたい。

         P29(ハルカ・バハドール・グルン)峰とツラギ氷河・湖(2012.10.28)

                          ツラギ氷河湖末端の流出河川(2012.10.29)

2.水草

           ツラギ氷河湖末端の透明な池に繁茂する水草(2012.10.29)

水位低下現象の項でも触れたが、ツラギ氷河湖末端(4048m)には、水位低下によって分離した透明な池(20m10m*深さ約2m)があり、今回初めて水草が繁茂しているのが観測できた。水生生物といえば、アオミドロ的な藻類は観測できていたが、長さが1m程もある水草が繁茂するようになったことは、温暖化などの環境変動が氷河湖地域にも現れてきた可能性がある。下記のポンカー湖ではガン・カモ科の渡り鳥が飛来するとうので、ツラギ氷河湖も将来はヒマラヤを超える渡り鳥の中継地になる可能性を秘めている。水草の資料は採集したので、水草の権威、滋賀県立大学の浜端悦治さんに検定していただこうと思っている。

          ツラギ氷河湖末端の水草(ストックのスケールは10cm;2012.10.29)

  浜端さんからメイルがきて、「たぶんリュウノヒゲモPotamogeton pectinatusとのことで、湖岸付近に群がって生えている様子はモンゴルと良く似ている」とのことです。帰国してから、標本を鑑定してもらうのが楽しみです。
           モンゴルのリュウノヒゲモPotamogeton pectinatus(浜端氏撮影)

(2) ドゥドゥ・コシ上流ビムタン地域

                                  ブルディン・コーラの岩石流跡(2012.11.02)

1.2006洪水

 ティリチェ村のマンガール・グルン(44)によると、モンスーンの雨期でビムタン地域では視界はなかったが、2006年7月13日午後3時頃、ものすごい音がし、大量の岩石が流れているのがガスの中で認められ、この洪水流は約12キロ下流のティリチェには午後9時頃に到達したというから、時速約2キロで流れ下ったと推定される。
 この洪水の発生地域はビムタン下流のブルディン・コーラで、主な発生源はラルキャ・ピークからの谷である。その谷筋にはまだ新しい花崗岩質の白い大量の岩石が流下方向に帯状に分布しているとともに、ブルディン・コーラのビムタン近くの支流でも花崗岩質の岩石が流下し、小屋を破壊している被害が認められた。
           ブルディン・コーラの岩石流で破壊された民家(2012.11.02)

 前回の報告した今年5月のセティ川洪水は発生地点の地質・地形条件を反映した泥質や粘土質の洪水流であったが、ビムタン地域の洪水の場合は岩石流が主体の洪水であった、と解釈できた。いずれにしても、降雨や融雪・融氷のよる多量の水があれば、急傾斜地の多いヒマラヤでは、それぞれの土地の地質・地形条件を反映した多様な洪水が今後とも発生すると思われる。
 ポカラのセティ川でも歴史的に何回も洪水流に見舞われているが、ブルディン・コーラでも、過去の洪水の岩石が時代がさかのぼるにつれて、赤い地衣から黒い地衣、そしてコケに覆われた帯状の岩石分布があり、多量に岩石が流下した地帯では河床の林が立ち枯れているを認めることができる。

2.ポンカー湖

 ビムタン北方のヒムルン・ヒマールからはデブリ・カバーの巨大な氷河群が南に向かって流れ下っている。ポンカー湖は地図上のペリ・ヒマールからの新旧のモレーン堆積物の間(アブレションバレー)に形成された氷河湖であり、長さ約1キロ、幅50100mで、流出河川は認められない。
 ポンカー湖が立地する新旧のモレーン堆積物の比高は100m以上もある堅固なもので、直下型の大地震でもないかぎり、氷河湖決壊洪水(GLOF)を引き起こすことはないであろう。 この氷河湖には、ガン・カモ科の渡り鳥が飛来するという。
 
            アブレーション・バレーに形成されたポンカー湖(2012.11.02)


トピックス


1.森林資源

         ドゥドゥ・コーラ上流の素晴らしいタンネの森とマナスル峰(2012.11.01)

 ナチェからアルバリへのダナ・コーラの登りでも、またティリチェからスルケを過ぎたドゥドゥ・コーラ周辺でも、標高2500m付近までの五葉松の林が、ふた抱えもあるようなモス・フォーレストのタンネの巨木の森に変わる。この森は、人工的圧力の少ないブータンの森を彷彿とさせる。人為的影響の大きいネパールでは、原生林は、ぼくの経験ではクンブ地域のヒンクやホングのなど人の影響の少ない上流部にわずかに残るだけと思っていたが、南北方向のマルシャンディの支谷に大規模に残っているのは大変に貴重なものと言えるのではないか。
ダラパニまでの南北方向の谷地形沿いにはモンスーン雨期の水蒸気が大量に侵入するので、素晴らしく立派な原生林を発達させているのだろう。したがって、氷河末端高度は森林限界のダケカンバ林まで下がっている。クンブなどよりも氷河末端硬度が1000m程も低い4000m付近となっているのもこのためだ。ビムタン北方のヒムルン氷河群の規模が著しく大きいことも、原生林の発達と同様に、氷河の涵養機構にマルシャンディ沿いに南方から供給される多量な水蒸気が大きな意味を持っていると解釈できる。今春調査したアンナプルナ連峰南面のマディ川上流のガプチェ氷河では、雪崩涵養の影響も加味され、氷河末端硬度は2500mと、ネパールで最も低い氷河・湖がGLOFを引き起こしているのである。しかしながら、マルシャンディ川が東西方向に流れを変える最上流部は、夏の南からの水蒸気侵入に対してアンナプルナ連峰の風下になるため、局地的な乾燥域になっている。このため、著しい森林の発達は見られない。マルシャンディ川のダナ・コーラやドゥドゥ・コーラの支谷の原生林はこの流域のみならずネパール、広くはヒマラヤにとっても(ブータン同様に)貴重な森林資源、財産だ、と思う。


           エーデルバイスの咲き誇る美しいツラギ氷河湖へいたる流域だが(2012.10.30)

たが、その貴重な森林資源が山火事にさらされている。原因は放牧地や農地の拡大であるが、ひとたび焼けると、林の中を風が通りやすくなり、さらに強度が弱くなった木が、ちょっとした風でも倒れてしまう。ツラギ氷河・湖へのアプローチにもそのような地域があり、前回の2011年調査では累々とした倒木を超えて行かなくてはならなかった。さらに追い討ちをかけているのが道路の乱開発である。重機やシャベルカーが沿線の林を無造作になぎ倒して道路開発が進められていた。エーデルバイスの咲き誇る美しいツラギ氷河湖へいたる流域でも、上の写真を注意深く見ると、右上のU字谷周辺のタンネの森が焼かれ、朽木が散在している。このような農地や放牧地の拡大のための人為的森林火災はブータンでも、広くはモンゴルやシベリア、赤道地帯のインドネシアやブラジルなどでも環境課題となっており、温暖化阻止のための緊急テーマになっている。

                                 ツラギ氷河・湖調査基地での焚き火(2012.10.27)

 今回のツラギ氷河・湖調査のダケカンバ林のBCでは、倒木を利用して、ヒマラヤ地域では贅沢となった焚火を楽しむことができたが、この程度はヒマラヤの神々も許してくれるかもしれぬ。何しろ、フライシートの天井だけのテント生活は寒くてやりきれないからでもあった、が。時おりしも、満月の時期で、月光に輝く白銀のヒマラヤを眺め、シャクナゲやカンバなどの足元の落葉を踏みしめながら、フクロウの声を聞く。心から満足のいく焚き火であった。

2.道路開発

南北方向のマルシャンディの峡谷は、道路開発のためには大岸壁を崩していかざるを得ないので、例のカリ・ガンダキよりも道路開発が困難だろうと思っていたところ、今回の調査直前に、南北方向のマルシャンディの峡谷がチャーメまで車(ジープ)が入ったというニュースを聞いて、大いに驚いた。GPSもうまく機能しない大峡谷なので、これまでの4回の調査行で、まさかそんなに早く道路が開通するとは思いもよらなかったからである。
右岸側の大岸壁を発破で打ち砕く際には、従来の左岸側の道は通行禁止となり、発破による右岸の岩壁破片が左岸の村にまで飛んで来て、閉村に追い込まれたところも出ているほどだった。発破による岩屑は垂れ流し放題で、河川環境を著しく損なっているとともに、このような工法では、前項の森林資源の視点に立てば、当然のようにむごたらしい森林破壊をともなうが、住民は一向に気にしている気配がないようだ。
開通で利益を得る道路沿いの村とマルシャンディ左岸側に取り残された村との乖離。車による輸送で、職を失うポーターやロバによる物資輸送に携わる人たち。このまま、さらに上流まで道路が延びれば、従来3週間近くかかったアンナプルナ一周が2日間で済んでしまうという。以前なら、ヒマラヤ山中入る時は小銭を多量に用意したものだが、今回は高額紙幣の1千ルピー札をだしても、文句を言う人はいない。恐ろしいほどの大きな変化だ。この調子では、クンブのナムチェバザールまでさえ、車で行けるようになるかもい知れない。われわれもジープを利用したので、ベシサハールからダラパニまで従来の3日間がわずか4時間、ポカラから3日かかったツラギ氷河・湖の調査出発地点の村ナチェまでも、わずか1日で到達してしまった。ツラギ氷河・湖への谷でも、ビンタンへのドゥドゥ・コーラの谷でも、道路標識が整備されつつあり、かつての木橋が鉄の橋に改良されている。入山者が増えているためであろう。
だが、現在は乾期で、道路浸食は目立たなかったが、夏のモンスーン雨期のマルシャンディ谷沿いの激しい雨に叩かれれば、いたるところで浸食がすすみ、手がつけられなくなるかもしれぬ。カリガンダき沿いの道路などでは、毎年のように土石流などによって、道路が寸断されているのだ。当然、自然からのしっぺ返しがあることを十二分にも心得ておかねばなるまい。

     マルシャンディ右岸岸壁を刳り貫いたジープ道と左岸に取り残されたタール村(2012.11.04)

3. トイレ問題

トイレ問題は人口圧が少ない時は、自然の回復力で解決できるが、一定の値を超えると、環境への負荷が大きくなってしまう。村人が夏の放牧場で暮らす限りはトイレ問題は発生しないが、トレッキング・グループが土壌浄化に期待している簡易トイレも量が増えてくると、環境への負荷が問題になってくる。最近特にマナスル一周トレッキング基地になっているビムタンは高度が富士山頂ほどで気温が低いため、土壌浄化機能も十分に働かない。そのため、クンブのナムチェバザールなどと同様に、トイレからの土壌浸透で地下水を汚染し、住民の飲用水源にまで影響を与えるようになる。
ビムタンでもナムチェバザール同様、大規模ホテルが建設されているが、その土地の自律的環境回復力に見合った規模の開発にとどめておかないと、自業自得的に、やがては自分たちの首を絞めることになりかねない。適正開発規模の要請とともに、人口圧の調整の観点から、入域人数の制限なども視野に入れた総合的な環境対策が必要な段階に来ている。

                             ビムタンのトレッカー用のトイレとその跡群(2012.11.03)

その他

1.雪男

 ツラギ氷河湖調査は2008年以来今回で5回目であるが、こんな話は聞いたことがなかった。今年6月にツラギ氷河湖に雪男が出たというのだ。毎回世話になっているナチェ村のガム・バハドゥール・グルンさんは、冬虫夏草入のロクシを飲みながら興奮気味に話してくれた。グルン語ではモゥーというそうだが、彼はイエティと表現していた。全身黒いが、白い尻尾がある。上半身は熊、下半身が人で、二足歩行するという。氷河湖に浸ったあと、モレーンを超えて行ったというが、実際に見たのは彼ではなく、ミン・ラムさんたちで、4・5日たってからも再度現れたそうだ。ちなみに、ミン・ラムさんたちが写真を撮ったかと聞くと、本気で信じているガムさんは、イエティはパワーがあるので、写真には映らないのだという。もし本当なら、すばらしい発見物語になることは間違いない。

2.野鳥料理

 ビムタン下流のブルディン・コーラでの岩石流調査を終え、ビムタンに戻るところで、ポーターのバラートさんがチルマと呼ばれている標高3700m周辺のダケカンバ林に生息する鶏ほどの大きさの赤と青黒い色の野鳥の群れを見つけた。彼が石を投げると、まさかとは思ったが、一羽に当たったようだった。さっそく彼は荷物を放り出して、バタついている野帳めがけて突進し、見事手で捕まえてしまった。ビムタンの小屋に戻る道中で出会った地元の人たちもバラートさんの見事な技を褒め称えていた。
 小屋に戻ると、馬子のサガールさんがすぐさま毛をむしり、ストーブで皮を丸焼きにしながら、刃物は使わずに、両手だけで脚を切り離し、次には胸を開いて、内蔵部分を血で手を染めながら、臓器ごとに分別していったサガールさんの手さばきにも、石で射止めたバラートさん同様、感心したものだった。サガールさんはチルマの分別が終わると、ストーブの上の針金に、手際よく干し並べ、今宵のロクシの酒の肴にしましょう、と言ってくれた。味は、地鶏のようなしっかりした歯ごたえのある、噛めば噛むほど旨みが出てくるような感じがした。

            バラートさんが見事手で捕まえた野鳥チマル(2012.11.02)

3.デジカメの功罪

 今回の13日間で撮った写真枚数は3414枚であった。1日平均、263枚。以前と比較すると、1日7本ものカラースライド写真を撮っていたことになる。かつては多くてもせいぜいカラースライド1日1・2本だったから、デジカメになると3倍以上の撮り方だ。美しいものはとりたくなるのはいたし方ないだろうが、何でもかんでも撮ったことで満足しがちになり、フィールド・ノートの記載量が少なくなっているのは気がかりなことではある。
 これまで撮りためたデータベース<http//picasaweb.google.com/fushimih5>には95千枚ほどの写真が掲載されているから、今回の調査で10万枚近くになるだろう。マチャプチャリ峰だけでも8594枚あるが、現在ポカラに滞在し、連日マチャプチャリの美しい姿を見ていると、多分9000枚程度には達してしまうであろう。そうすると今後も、写真1枚1枚のキーワード付が待っていることになるが、さらにデータベースを構築していただいている干場悟氏にはまたまたご苦労をおかけしなくてはならないのが気がかりでもある。
                雪の少ないマチャプチャリ近影(2012.11.07)

   このマチャプチャり峰の写真でも、雪が少なく、雪型が見えにくくなっているが、かすかに頂上の熊またはイエティがその右下の鹿を捕まえようとしているのが認められる。さらに右下部分の白い鳥の雪型ははっきりしなくなるほど、温暖化で、雪解けが進んでいる。
   カトマンズからポカラに行く時はバスを利用しているが、窓から見る景色をいつも楽しみにしている。GPSの軌跡ルートがあれば、ルートマップとして使える。川の色の変化や土地利用の特徴などをデジカメで写真を撮ると、写真をGPSのルートマップに載せることができるので、氷河の粘土を含んだいわゆるグレーシャー・ミルクの流れがどこで変化するのかなどが分かる。


   発電所からマルシャンディ川に戻されたグレーシャー・ミルクの河川水(右が下流方向) 

 以前は、揺れるバスなどの車の中でフィールドノートをとっていたが、最近はもっぱらGPSとデジカメに頼よるようになっている。

4.馬の旅

 今回の旅行後半はマルシャンディ川支流のドゥドゥ・コーラにあるティリチェを基点とする調査になった。そこは友人の古川宇一さんが1970年代に長期滞在して、文化人類学的調査を行った村である。ティリチェ村のコマール・ギャレさんは、ぼくが古川さんの友人であることを知っているので、ビムタン地域への3日間の調査旅行に白馬を提供してくれた。ヒマラヤでの白馬にまたがった調査とは、いやはや、贅沢なものであった。ただ、馬がどんどん進んでいってくれるので、シャッター・チャンスをのがし、写真枚数が少なくなったようだ。その点、デジカメの罪への対応をある程度はしてくたようだが、フィールド・ノートの記載量がさらに減ったことも間違いないようだ。

                   馬にまたがりビムタン調査(2012.11.01)

5.友人の分骨場


 ナチェ村からツラギ氷河・湖への途中に、マナスルとアンナプルナ両峰が見渡せる3000mのジャガイモ畑と放牧地が広がるゆるやかな高原があるので、4年前ケルンを積んで、友人の瀬戸純さんの分骨をしたのに引き続き、その翌年、先輩の宮地隆二さんの分骨も行い、調査の都度、良い香りのするビャクシンを炊き、香煙がヒマラヤの神々に届くように、今回もお参りをしてきた。ちょうど、ヤクの群れが分骨場に集まっており、逝かれた方々を守っているような気がした。


ナチェ村上流のアルバリにある友人たちの分骨場に集まるヤク群(2012.10.31)

今回は事前に、友人の石本恵生さんから「私の分もお祈りして」との申し出があったので、彼の名前とチベット語の経文を彫った石碑を祭ってきたところ、彼からは早速「私の墓碑まで作ってくださり大変有り難うございます、これであとは私が灰になったときに、誰かにそれを運んで貰えば永久にヒマラヤを眺めながら暮らせるのですね」とのメイルをいただいている。ぼくは単なる石碑のつもりだったが、彼自身は墓碑と思いこんでいるようだ。ところでぼく自身も、もう古希も過ぎているので、そろそろ墓碑なるものを考えてみなければならないのかな、とも思っている。
実は、今回の調査に当たっては、家に遺言を残してきたことを白状します。
「遺言  死亡通知は出さずに、葬式は内々で行うこと。墓も戒名も不必要、香典や花輪は断ること。後日、ヒマラヤに散骨し、何回忌などもしないこと。(20121015日 伏見碩二)

        マナスル峰の見えるナチェ村上流のアルバリにある友人たちの分骨場(2012.10.31)


最後に


実のところ、調査3日目までは腰痛があり、古希を1つ過ぎた体には心配のタネであったが、その後回復し、腹が細くなり、体重が減ると、なんぼでも歩けるような気がするほど快調になった。ヒマラヤの神々のお陰かもしれない。調査の最終段階では、かつてシェルパの友人たちが紙を使わずにトイレをするのをうらやましく思っていたものだが、自分のも、太いソーセージと言ったらよいか、犬のような密度の高いシェルパ的なものに変わると、肛門がきれいさっぱりで、紙を必要としなくなったのには自分ながら驚いた。このぶんでは、もう少し行けそうな気がしているので、来年は、懐かしのクンブのギャジョ氷河やホングの谷などにも足を伸ばしたいと思っている。


        ツラギ氷河湖岸でビャクシンを燃やして祈祷するバラートさんたち(2012.10.29)


ツラギ氷河湖調査の最後には、いろいろと気遣いをしてくれたバラートさんが湖岸でビャクシンの葉を燃やし、氷河湖の神様にお祈り・祈祷をしてくれたので、初めに述べたように、ツラギ氷河湖は暴れだすこともなく、静かな氷河湖の状態を保つことであろう、と祈念している。ヒマラヤの神々への一種の畏敬の念に関しては、2002年のブータンのルゲ氷河湖調査の際、以前の第1王女(現在の国王の母親)がルゲ氷河湖で金貨をまいて祈祷されたことを思い出した。

ブータンのルゲ氷河で祈祷したかつての第1王女と(データベース・アルバム: 2002_Bhutan_C08B05S53より)

最後になるが、旅も終りに近づいたティリチェで会ったニュージランドのCryo-Biologistのシャムさんが、「あなたのやっていることはHobbyですね」と言ってくれたから、「Yes, I am enjoying my hobby.」と答えておいた。今後は、あと数日間、ポカラ湖沼群保護の国際湿地会議に参加するとともに、ネパールを離れてからは、インドネシアのトバ湖とミャンマーのヤンゴン周辺の水郷地帯を見たうえで、改めて、2012年秋の旅の全体をまとめてみたい。それでは、皆さま、ナマステ!

                     (2012.11.07 マチャプチャリなどが素晴らしいポカラにて記す)