2026年7月31日金曜日

生成AIの特徴と問題点(7)-野帳のテキスト化-

生成AIの特徴と問題点(7)-野帳のテキスト化

 

1)はじめに-野帳のテキスト化

データベース(資料1)でお世話になっている干場悟さんから「過去の野帳をGPTに読み込ませることで、文字起こし、テキスト化してくれるようです。この膨大な資料をAIが自ら解読して結果に導いてくれるようです。これってすごく意味のあることなんですね。わくわくしてきます」とのメールをいただいた。私の野帳(写真1の①)と言えば、半世紀を超える調査の際に書き留めた記録が数十冊、段ボール箱にしまい込まれたままで、最近ではほとんど見返すことがなくなっている。

干場さんの指摘のようにテキスト化できればかつての野帳の記録が活用できるに違いない。そこで、日本語と英語で記入してある野帳(写真1の②と③)と南極点の初到達を目指したイギリスのロバート・ファルコン・スコット隊長の手書き日記(写真4の右)などを文字起こしした結果を、これまで報告してきた「生成AIの特徴と問題点」(1)~(6)(資料2~7)に加え、生成AIの特徴と問題点(7)-野帳のテキスト化-のテーマで考察した。

写真1 野帳の現状:①段ボール箱に収められた野帳;日本語の記入例;英語の記入例

 

2)日本語の野帳のテキスト化2006823日の立山調査-

ここでは、2006823日の立山調査時の野帳記録を取り上げる。第三者には読みにくいと思われる写真1②の赤線部分(写真2の①)の記録を「次の資料を文字起こしして下さい」と生成AIChatGPTに頼んだところ、『手書き文字のため判読が難しい箇所があります。読める範囲で文字起こしし、不明箇所は「?」としました。画像の解像度が低く、特に中央~下部の文字は判読がかなり困難です。』との注釈付きで、写真2の②の回答があった。

写真2 日本語の野帳(写真1の②)の赤線部分(左側の①)に対するChatGPTの文字起こし部分(中央の②)と本人による文字起こし部分(右側の③)

自分の手書き文字は判読できる(写真2の③)ので、野帳の赤線部分(①)に対するChatGPTの文字起こし部分(②)と本人による判読部分(③)を比較すると、ChatGPTの文字起こし部分(②)には、次のような間違いがある。

天気記号の晴れ記号が①、山荘を山元、雲海を葛埼、室堂をきき、トリカブトをトイカット、オオシラビソ上限を[ロッファラビット?]ひえ、沢を元、チングルマを4シダルス、雪解けの遅い北向き場所を第6400違い設計、天気記号の曇りの@、ハッコウダ・ゴヨウ(マツ)をハウラダンコウラ(マップ?)、臭い少ないを使うヤツ、ダケカンバをダイアモン、そしてトドマツ林をトイマップ大丸などである。

中央~下部の文字は判読がかなり困難とのChatGPT指摘だが、上部の初めから下部の最後まで間違いが続出しているので、これでは本人による全面的な文字起こし(③)が必要になってしまう。筆者の日本語の野帳の手書き文字が乱雑なためか、ChatGPTは文字起こしにご苦労されたようで、まずもって、野帳には第三者にもわかるような文字記入が求められる。ただし、数字とローマ字記入の測量機材のGPSTrimble」は正確に文字起こしされているのを見ると、ChatGPTの文字起こしは横書きの英語などに向いているようで、僕の乱雑に書かれた日本語野帳には不向きなように思われた。勝手ながら、くずし字で古文書のような読みにくい手書きの日本語であっても正確に文字起こししてくれる生成AIの登場に期待したい。

 

3)英語の野帳のテキスト化1965111日のネパール調査

次には、英語記入の野帳部分(写真1の③)の文字起こしを生成AIClaudeChatGPTにしてもらった。この英語記入の野帳部分は1965111日のことで、196311月以来の北極海調査とヨーロッパから西アジアの旅行を経てネパールで調査中の友人たちに2年ぶりに再会した時の半世紀ほど前の記録(第5章の「氷の島からヒマールへの旅」の太字部分)である。

 

-1 Claude文字起こし

1 Nov. Dorpatan Swiss Hutte

Fine in the early morning and a thick mist. A Tibetan girl took me to a junction for a pass which leads to Chinen Himal. I got a view of the pass from that point. The weather was getting worse as I was climbing. But the road was very clear and I could see even foot prints of my friends. When I reached a moraine, I was covered with a thick mist. About 3 hours' walk from Dorpatan led me to the pass. I couldn't see anything but a thick mist and a Alpensen[?] minor cottage without a roof. I shot 2 or 3 times just like I need to shout in a Japanese mountain, because I thought there was a possibility which my friends might hear me. But no reply. After a short rest, I begin to walk. At first I thought I would go back to Dorpatan if I couldn't find out my friends within a couple of hours. But it was pretty fortunate for me to find out my friends in a Swiss Hutte after 15 or 20 min.'s walk from the pass. There were Mr. Saito, Maeda and a porter.

『読めた範囲をできるだけ忠実に文字起こしし、不明瞭な部分は [?] で示します』との注釈付きではあったが、間違いはほとんどなく、Hutteはドイツ語のHütte、「Alpensen[?] minor」は「Nepalese summer」で、山名のChinenChurenとわずかである。拙い英語であるとともに乱雑な手書き英文であってさえも、Claudeはかなりの程度正確に文字起こししてくれている。

 

-2 ChatGPT文字起こし

1 Nov. Dapatan Swiss Hütte

Fine in the early morning and a thick mist. At Dapatan girls told me to go junction for a pass which leads west to Chilen Humal. I got a view of the pass from the point. The weather was getting worse as I was climbing. But the road was very clear and I could not even get point of my friends. When I reached a snow line, I was covered with a thick mist. About 3 hours walk from Dapatan lead me to the pass. I couldn't see anything but a thick mist and a Nepalese alpine cottage without a roof. Dapatan 2 or 3 times just like I need to shout in a Japanese mountain because I thought there was a possibility which my friends might hear me. But no reply. After a short rest, I began to walk. At first I thought I would go back to Dapatan if I couldn't find any of my friends within a couple of hours. But it was pretty fortunate for me to find out my friends in a Swiss Hütte after 15 or 20 min.'s walk from the pass. There were Mr Saito, Maeda and a porter.

 「手書き英語はかなり読みづらく、一部判読できない箇所があります」との指摘だが、地名のDapatanDorpatanChilenChulenと、人名のSaitoSakouMaedaMasudaである他、かなりの程度は文字起こしされている。しかも、ドイツ語表現のウムラオト記号の「Hütte」はそのままで、英語のみならずドイツ語の文字起こしにも適しているようだ。

2章で述べた日本語の野帳の場合よりも英語による野帳の文字起こしのほうが、ともに読みにくい野帳であっても、総じて間違いは少ない。日本語向けの生成AIがない段階で、既存のChatGPTClaudeで野帳の文字起こしをする場合は、ローマ字記入の野帳の方が有効なのであろうか。米政府は、米国のAI開発企業アンソロピックの先端AIモデルを輸出規制措置の対象とし、日本国内の情報インフラとしてのAIが突如利用できなくなる事態となり、米政府の動きに翻弄される日本政府は「AI主権」の確立を目指すとする新たなAI基本計画を閣議決定した(資料8)そうだ。読みにくい日本語野帳であっても、正確に文字起こししてくれる「AI主権」の実現が待たれる。

 

4)野帳のテキスト化に関する干場悟さんからのメール

冒頭に紹介した干場悟さんからは、英語の野帳のテキスト化に関しては次のようなメールがあった。

4-1 (2026/07/16 12:15)のメール

野帳の添付資料を拝見しました。

今後の展開が楽しくなりそうですね。様々な観点から有効にAIを利用することで、情報量が正確に多岐にわたり、今まで見えなかった部分が明確になる利点もあるようです。今後AIの性能もアップするでしょう。

文字起こしの結果を踏まえて、AIGemini, ChatGPTなど)の力を借りてインフォグラフィック(注;視覚化した画像)の形式で出力してみてはいかがでしょうか?結構わかりやすく解説してくれるようです。また、AIとのチャットを続けて(野帳のテキスト化を終えた後)「上記に関連した部分を画像で出力して」と依頼すれば、どのような結果が出るか楽しみです。使い方次第で期待できそうですね。

拝見しましたが、膨大な野帳が見えますね。過去の偉大な遺産です。これをどのように解析していくか、また、野帳のテキスト化と同時に関連した過去の映像を組み合わせることで、AIは必要な要素を取り出してまとめてくれるはずです。これを時系列に並べ、AIに解析してもらうことで興味深い結果を導きだすことが出来るかと思います。

今までは、過去の記録を作成するのに精いっぱいで時間を要しました。今後はこれらの資料をAIの力を借りて解析することで単なる思い出ではなく、専門的にも優れた結果が出るのではないでしょうか?楽しみですね。

インフォグラフフィックはAIの出力の方法で添付ファイルをご覧ください。テキストや画像の読み込み、解析の結果を分かりやすく説明してくれます。まあ一発でAIで作ったのがバレバレなんですが・併せて下記YOUTUBEもご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=NY5eXof07To

 

4-2 (2026/07/16 12:24) のメール

Infographic

​野帳のテキスト化の中で英文の一部をAIに読み込ませてインフォグラフフィックを作ってみました。原文は「Dorpatan → スイス・ヒュッテ」

早朝で濃い霧の中でも大丈夫です。チベット人の女性が私をチネン(*チューレン)・ヒマ(*―)ルへ通じる峠の分岐点まで連れて行ってくれました。そこから峠の景色が見えました。登るにつれて天候は悪化していきました。しかし道はとてもクリアで、友人たちの足跡さえも見て取れました。モレーンに到達したとき、私は濃い霧(*につつまれた)。ドルパタンから約3時間歩くと峠に着きました。見えたのは濃い霧と屋根のないアルペンセン[?]の小さなコテージだけだった。日本の山で叫ぶように23発撃ち(*回叫び)ました。友達に聞こえるかもしれないと思ったからです。しかし返事はありません。短い休憩の後、歩き始める。最初は数時間以内に友達を見つけられなければ、ドルパタンに戻ろうと思っていました。でも、峠から1520分歩いたところでスイス・ヒュッテに乗っ(*い)た友人たちを見つけられたのはかなり幸運でした。斉藤(*酒匂)さん、前田(*益田)、そしてポーターがいた。彼らは正午に到着し、別の時間帯に(*友人たちは)チネン(*チューレン)・ヒマ(*―)ルへ向かっていたと言いました。出された食べ物は、かつて日本で食べていたエッセン(*食事)を思い出させました。木材が非常に湿っていたため、良い火を起こせませんでした。彼ら(*薪)をヒュッテまで運ぶのは大変な道のりでした。

この部分の出力を依頼した画像を添付します。

 

4-3 (2026/07/16 12:30) のメール

今後の展開が楽しみですね。

​伏見さんの野帳をいずれは、前文のようにまとめるのも興味深いものがありますね。多分AIそのものも、伏見さんの過去の動向を読み取って適格な答えを出すようになるでしょう。

前便で送付したインフォグラフフィック画像は、点検の必要があるかと思いますが、このような事も数分で作成してくれる可能性に驚きを隠せません。

10年かかりの作業が1年で終了する、いやそれ以下で終えるかもしれません。それにしても、こうした情報が地球上に洪水の如く氾濫するんでしょうかね。

 

5)野帳の記入内容からインフォグラフィックなテキスト化

確かに、干場さんが4-2章「(2026/07/16 12:24) のメール」で示しているように、「英文の一部をAIに読み込ませたインフォグラフフィック」で「Dorpatan SWISS HUTTE(スイス・ヒュッテ)関連の出来事」を画像情報としてまとめてくれているのにヒントを頂いた。そこでChatGPTClaudeに、日本語の野帳(写真1の②)の赤線部分を下記の本人による文字起こし部分の内容(写真1の③)を「インフォグラフィックの形式で出力してください」と試みたところ、写真3のような分かりやすい画像情報としてまとめられたのである。

`06.8.23

5:38 晴 山荘 雲海 2480

7:20           室堂 トリカブト

7:40  Cu(積雲)オオシラビソ上限 2400

   沢 チングルマ(雪解けの遅い北向き場所)

   GPSTrimble

10:07 曇キリ ハッコウダ・ゴヨウ(マツ)?臭い少ない 2130

       ダケカンバ、トドマツ林

 

写真3 ChatGPT(左)とClaude(右)による「野帳のテキスト化」のインフォグラフィック形式の画像(正確に文字起こしされた手書き野帳を基にして、第三者にも分かりやすいように、時間軸に沿って関連する画像情報などを取り込み、表現している)

 正に、4-1章で干場さんが『AIとのチャットを続けて(野帳のテキスト化を終えた後)「上記に関連した部分を画像で出力して」と依頼すれば、どのような結果が出るか楽しみです』と指摘してくれたことが現実になった(写真3)。つまり、野帳の記載事項が時間軸に沿って、インフォグラフィック形式の画像に表示してくれたのには改めて驚かされたのである。手書き野帳を正確に文字起こしさえすれば、関連する画像情報などを取り込んで、第三者にも分かりやすく伝えることができる。このようなインフォグラフィックな画像は今回のブログのテーマ「野帳のテキスト化」としてまとめる表現形式の1つのイメージにはなるのではないか、と考える。

 

6)英語の野帳のテキスト化-スコットさんの1912329日の日記-

南極点の初到達を目指したイギリス隊(写真4の左)はノルウェーのアムンゼン隊に先を越され、失意の帰路で1912329日に力尽きた。悪天難路で疲労困憊した隊長、ロバート・ファルコン・スコットさんの日記の最後のページ(写真4の右)の読みにくいと思われる手書き文章(注)を生成AIClaudeに文字起こししてもらった。

 

写真4 (左)は南極点に到達したイギリス隊員;左から右へ Edward Adrian Wilson, Henry Robertson Bowers, Edgar Evans, Robert Falcon Scott, Lawrence Oatesさんたちと(右)はスコットさんの最後の日記。

(注)

第9章追記のタイタニック号乗客の出航直後の手紙に書かれた達筆な文字と比較すると、スコットさんの呻吟難くの状況が今更ながら偲ばれる。

 

6-1 Claude文字起こし

文字起こしします。

we shall stick it out

to the End but we

are getting weaker &

course and the End

cannot before,

It seems a pity but

I do not think I can

write more

Robert

Last Darling

For Gods sake look

after our people

日本語訳

我々は最後まで踏ん張るつもりだが、

我々はどんどん弱くなっており、

もちろん終わりは

そう遠くはないだろう。

残念なことだと思うが、

もうこれ以上書けそうにない。

ロバート

最後に――愛しい人よ

どうか神のご加護のもと

我々の仲間たちを頼む

これはロバート・ファルコン・スコット(南極探検家)が1912年に死の直前に書いた最後の手紙の一節と思われます。筆跡が乱れており、一部判読が難しい箇所がありますが、できる限り原文に忠実に起こしました。スコット隊長が南極点からの帰途、ブリザードの中のテントで力尽きる直前に書き記した最後のメッセージです。「our people」は同行した隊員たちのことを指すとも、より広く支援者・国民を指すとも解釈されています。絶筆ゆえに文章が途切れており、原文の断片的な表現をできる限り自然な日本語にしました。

 

6-2 Claude文字起こしの訂正

上記6-1章のClaude文字起こしの中で、太字で示した最後の4行目と3行目の個所に疑問を感じたので、「スコットの日記の最後の4行目と3行目は「Robert. Last Darling」ではなく「R. Scott. Last Entry」ではないでしょうか。」とClaudeに指摘すると、下記の様な回答があった。

ご指摘のとおりです。ありがとうございます。

改めて画像を見直すと、確かに

R. Scott. Last Entry

と読むのが正しいと思われます。私の最初の文字起こしでは、

Robert」→ 正しくは「R. Scott

Last Darling」→ 正しくは「Last Entry

と誤読しておりました。筆記体の崩れた字形から「Scott」の「Scott」部分を「ott」と読んで「Robert」と誤判断し、「Entry」を「— Darling」と誤読してしまいました。

正しい文字起こしは以下となります。

we shall stick it out

to the End but we

are getting weaker &

course and the End

cannot before,

It seems a pity but

I do not think I can

write more

R. Scott.

Last Entry

For Gods sake look

after our people

重要な箇所の誤りをご指摘いただき、誠にありがとうございました。

Claudeは当初の文字起こしに当たり、苦難のスコットさんの心情に絆されて、おそらく、スコット夫人への思いに転じ、「R. Scott. Last Entry」を「Robert. Last Darling」と表現したのかもしれぬと想像するのだが、思い込みすぎだろうか。

 

6-3 追記-ローレンス・オーツさんの「死を覚悟した別れの言葉」-

なお追記として、文字起こしのテーマとは外れるが、南極点の初到達を目指したイギリス隊員の人柄を偲ぶ忘れ難き表現として、スコット隊長の「It seems a pity but I do not think I can write more.」とともに隊員のローレンス・オーツさん(Captain Lawrence Oates)さんがスコット隊の最後の隊員たちが亡くなる2週間ほど前の1923316日、単独で死に向かった「真に勇敢な紳士であった」と言われる彼の最後の表現「I am just going outside and may be some time.」に関しては次のように述べられている(資料9)

Captain Lawrence Oates, Antarctic explorer, was one of the five men in Scotts fateful expedition to the South Pole. Suffering with gangrene and frostbite, in an attempt to save the others and in an act of supreme self sacrifice, he walked from the tent into a blizzard and certain death: I am just going outside and may be some time.A very gallant gentleman.

日本語訳

南極探検家ローレンス・オーツ大尉は、スコットの運命的な南極点到達隊における五名のうちの一人であった。壊疽と凍傷に苦しみながら、他の隊員たちを救おうと、崇高な自己犠牲の行為として、彼はテントを出てブリザードの中へ、そして確実な死へと歩み去った。「ちょっと外に出てきます。少し時間がかかるかもしれません」。真に勇敢な紳士であった。

 

7)活字媒体の文字起こし-氷の島からヒマールへの旅-

つぎに、1965中央ネパールヒマラヤ地質氷河調査隊(写真5;Central Nepal Himalaya Geological and Glaciological Expedition 1965)の報告書(写真5;資料10)のなかで私が報告した部分の活字媒体を文字起こしした「氷の島からヒマールへの旅」(写真5の④)を紹介する。この調査隊は酒匂純俊隊長以下日本人9名、シェルパ3名で構成され、19659月~12月にわたりネパール中央部の地質調査とチューレン・ヒマールの氷河調査を行った。私は飛び入り隊員で、196311月以来の北極海調査とヨーロッパから西アジアの旅行を経てネパールで調査中の友人たちに2年ぶりにヒマラヤ山中で再会することができた。その時の私は、北極海調査のバイト代で稼いだ資金で3年ほどかけた東回りの地球一周の旅の途中であった。3章の「英語野帳のテキスト化」で用いた記録(写真1の③)はその時の野帳の一部で、ここで紹介する「氷の島からヒマールへの旅」の太字部分である「氷の島からヒマールへの旅」の印刷活字のコピーを生成AIClaudeで文字起こしした第7章の間違いは以下の文中に(*)に示したように、全体の10308文字の中で、わずかに15個所のみで、ほぼ正確に文字起こしされていた。従って、悪筆の本人としては言いにくいのだが、野帳への記入に当たっては第三者にもわかるような楷書体に近い文字記入が求められることも指摘しておきたい。

写真5 1965年調査隊報告の表紙(①);中表紙(②);隊員写真(③);筆者報告記事(④)

 

7-1 氷の島からヒマールへの旅

僕は……いや、僕というより僕達といった方が適当かもしれない。19659月初旬、アフガニスタンでインド、パキスタン戦の終結と、そしてその国境の再開に首を長くしていたのは、ニュージィランドのメルとイギリスのボブと僕だったのだから。

僕達にとっては、とりわけ長い40日間だった。というのは、つい2ヵ月程前、同じように長い期間を、僕達は、カスピ海沿岸のバブルサールで、コレラのために閉じられたイラン・アフガニスタン国境の開くのを、くる日もくる日も、水を浴びてまぎらわしたばかりだったのだ。

パキスタンからの避難民に情報を流してもらったり、大きくくい違うインド、パキスタン両領事館からのガリ刷りに首をかしげたり、景勝地バーミアンを訪れたり、街見物に暇をつぶし、そして同じように東への道の開かれるのを待っていた旅人と、とりとめもない話に時間を殺していた。

そんな時だった。中学の教科書にも使えそうにない地図の中にカワーク・パスの名を見い出したのは。まてよ、この名前はまえに聞いたことがある。どんな峠かは忘れた。とにかく標高3,600m、ヒンズークシの主脈にあることだけは、この貧しい地図から読めた。それで充分であった。

僕達は、カブールからタシュケントへ通ずる街道を、バスで半日いき、ケンジャクから東へ折れ、河を渡り、途中デサラ・バザールで馬の背にまたがり、3日目に峠に立った。そして遠い昔、氷河に覆われ、けずられたであろう円く広いその峠から、56000m級のとぎすまされたナイフのような山の連なりをみた。このヒンズークシは、これからカラコラムへ、そしてパミールへ、ついには大ヒマラヤに続いているのだ。そしてそこには、僕の友達がいるのだ。僕は彼等に会わなければならない。アフガニスタンからロシアまわりで日本へ行くメルとボブ、そしてインド、ネパールへ行く僕。この旅は約3ヵ月つづいた3人の最後のものとなった。初雪の降りはじめるなかを、僕達は峠をあとにした。

カブールに着くと、3日後に、ニューデリーへの直通便が飛ぶという。国連監視員が入ってからも、なお停戦の止まぬこの戦争は、どうもどころがわからないのだ。よし僕はそれをつかまえよう。

その一番機には、ありとあらゆるルートをたどり、一点カブールに集まり、そして、おなじように東方への道を探していた若者でいっぱいだった。

眼下にひろがる赤茶けた、裸の山々と半砂漠、そして続く、緑のガンジス平原、そこにはいまもなお戦火に逃げまどう幾百万の人間がいるのか。僕はいたずらに感傷的になるのはやめよう。パキスタン、インド国境を越えさえすればよいのだ。だが途中、パキスタン軍により、ラホールにて強制着陸を命じられた。パキスタン兵による検問、インド国籍のものは容赦なく捕えるという。汗をかくのは何カ月ぶりだろう。3時間近く、湿気の多いラホールにくぎづけ。飛びたちざわ、若者の一人が “I'll take you to New Dehli with us.” と、パキスタン兵士に呼びかけたのは、とりもなおさず僕等の気持を代弁していた。そして大きな平坦な広がりをもつ、茶色の大地に、ニューデリーの姿を見い出したのは、1015日、午後235分だった。思えば1年半の北極暮しから開放されたのが、今年5月、そして、2ヵ月半のヨーロッパ自転車旅行、つづく3ヵ月の中近東ヒッチ、ついに僕はインドにきた。もう僕の歩みをとめるものはないだろう。うまくいけば、一週間以内に、2年このかた会わぬ札幌の友に会えるのだ。

一日で、ネパールビザ、その他少仕度をととのえ、運(*通)気の悪い三等車に乗り込み、3日後に国境の街、ラクソール、そして4日目にカトマンズ入りした。僕の最初の仕事は、友がいつ、どんな計画でネパール入りしたかを知り、そして現在どの辺にいるのかをつきとめなくてはいけない。その日のうちに、外務省へ行き、友の計画書を入手することができた。幸運だった。ポカラまで歩いて10日、経費約70ルピーか、それなら、5日後にでる54ルピーの飛行機に乗った方が安くて早いぞ。

明日までには、ビザの延長、旅行許可証もおりるだろう。Himalayan Society に行き、キャンプ用具を借りようとしたが、高くてダメ。ユース・ホステル用シーツは、ネパールの寒さから僕をまもってくれそうにない。さてどうしよう。アフガン製の靴はOK、着物はまあまあだ。自製の羊皮ザックは僕の気に入りだ。しかし寝袋はほしい。あれこれ物色するうち、ネパール製100%ウールの70ルピー毛布にした。ククリとマラリヤ錠剤とDDTとヨーチンを購入、ヨーチンを混ぜれば、どんな水もOKと聞いていた。あとはなるようになるさ。ポカラから、アンナプルナ連山を右手にみながら進み、3日目にカリガンダキを渡り、さらに西へ、マヤンプティ・コーラ沿いにジャルジャ峠を越えて、6日目に、ついにチベット難民の村、ドールパタンへ着いた。

白い旗をかまえた、にわかづくりの木造の家々とうす汚れた簡易テントのたち並ぶ、この3,000mの広い谷間は、すでに冬の風に支配されていた。この非情な風を吹きとばすものは、河沿いにつづく、広い牧草地で、馬に餌をいれ、その速さを競う若者達の叫び声だけであった。僕は彼等に近づき、その一人に尋ねた。“僕は、日本人を探しているんだが” と、その一人は、“きのう、山へ行く二人の日本人に会った。” といいながら、僕を彼の家へ案内した。僕は腹一杯ジャガイモの夕飯を喰い、あのすばらしいチベット茶をすすった。

この塩味のきいた、滋養のある茶は彼等の生きた文化だ。ふつう直径10cm、長さ7.80cmの装飾をほどこした竹筒が彼等の茶筒だ。熱い茶湯とバターと塩を入れ、円型の板を先につけた棒を用い幾百回となく、入念に攪拌する。その役はたいてい女だ。この強い味のする茶をはじめ僕は好まなかったのだが、彼等の住む、北ネパールを旅するうちに、宿をともにし、笑顔をかわすうちに、そして一言、二言の会話をもう(*つ)うちに、いつしか僕はこの味に解け込んでいった。この茶は、彼等に懐かしき郷里を思い出させるのだろう。インド旅行中の彼等が、汽車待ちの短い間にも、ストーブで茶をたて、塩とマーガリンのインスタント・チベット茶を飲む光景をしばしば目にしたものだ。異郷にあって、郷里の便りをはこぶのは、これをおいて他にないのだから。

客用のベッドなど、用意しているはずがないのに、彼は最良のベッドを僕にあてがい、“横になるように”とすすめるのだった。粗末な家のつくり、貧弱な家具しかもたぬ彼だったが、ダライラマの祭壇だけは格別なものであった。外を吹きすさぶ風はガラス代用のビニール窓を激しくたたいた。ランプを消し、彼は静かに語った。“6年前に郷里ブータンをでて、しばらくダージリンでイギリス人のもとで働いていました。今20才です。スイスによるチベット人避難民援助計画を聞いて、この村にきてから5年になります。英語も(*と)チベット語を話したので、スイス人指導者のアシスタントになりました。どうして僕がチベット人達と生活を共にするようになったのか、自分自身でもよくわかりません。1959年ダージリンにいたとき、毎日毎日、北の郷里をすて、南へ旅をする多くのチベット人に接したのがその原因かもしれません。

2年前、この村のチベット娘と結婚しました。そのとき彼女は16才でした。僕達の国籍は今ではネパール人になっています。僕はネパール人のもつ習慣や、社会の機構をにくんでいます。この国の生活には、たくさんの制限があって、窮屈でたまりません。楽しそうに笑う少女を、君はこの国でみたかい。すると(*ど)いまなざしをむける男達や、ともすると目をそむけ足速やにさりがちな女達を、君は知っているだろう。

しかしチベット人は違うよ。僕はチベット人の中にいると心が落着くのです。いまにネパール人もわかるでしょう。そしてチベット人のもつ良さに気がつくときを僕は信じてます。”翌朝2人のチベットの少女にはげまされて(*村はずれまで)送ってもらい、昨夜教えられた山道を登った。道はいつしか針葉樹の林をぬけ、ニ(*エ)ーデルゲ(*バ)イスの咲きのこる牧草地に達し、ところどころに残雪をみるようになった。期待していたジャ(*ダウ)ラギリ・ヒマールの大展望は、昨年冷たく(*峠に着くころから)厚み(*さ)を増してきたガスがいつしか雪にかわり実現しなかった。雪はいよいよ深さを増し,吹き荒れる風の中にみる,屋根のない夏の牧童小屋の凍りついた石壁は,僕に孤独の念をかきたてた。僕は叫んだ。昔,友と日高の山でしたと同じように。もしや友は僕の声を聞きつけるのではないだろうか。だが答えるものは,冬の風をおいてほかになかった。あと1時間歩いて友をみつけ出すことができなかったら,僕は引き上げよう。この状態では,僕の装備はあまりにも貧弱だった。峠をすぎ,急だった道が次第にゆるやかになる雪原の中に僕は山祇(*靴)の跡を発見した。そこを歩いた者は,友の他に誰がいよう。僕はその場にかがみこみ,友の足跡に手をのせた。よかった。友はこの雪のどこかにいるのだ。

 カールのお腹の平らをいく道が,再び急になり,壁に達するところに,石作りの小屋があった。そこで,酒匂隊長と益田に僕は再会した。僕の気持はおどろくほど静かだった。心に画きつづけてきた興奮はなかった。数日間,チューレン氷河へ足をのばしていた渡辺,高松,遠藤各先輩を待ち,ドールバタンへもどり他の全員に再会した。その夜,ドールバタンの地酒を手にし,皆と語り,歌うにつれ,いつしか僕は心にこみ上げてくる感動をおぼえた。

 このドールバタンを境にして,調査隊の行程は後半に移った。渡辺サーブのもとに,僕とポーターは,一路南へと,バグルンへの旅に向った。そのことについては,僕等のすばらしきポーター兼コック兼シェルパ役のデイル・バハドゥールに語ってもらおう。その前にちょっとばかり彼を紹介しておくとする。ビ(*ピ)ュータン生れのチェットリで23才,まだ独身。体つきはほそく,15貫に満たない,それでいて身長は日本人の平均を越える170 cm,日本映画のスクリーンで良くみかける身体つき。ビ(*ピ)ュータンからタンシンへ荷運びの帰りにこの調査隊に会い,ポーターとして雇われることになった。1日10ルピー,一ヵ月で300ルピー,ことによると2ヵ月600ルピーが彼を惹きつけたに相違ない。ちなみにネパールの年平均現金所得はというと,それは50ルピーにみたないのだ。もっとも,自給自足をたてまえとする彼等に,日本流の解釈は適用できないが。

 1110日 朝,サーブ連はきのうからひきつづいて荷作りに忙がしい。いっしょに発つことになっていた他のパーティは,ポーターがみつからず,出発は明日だという。午後わしは(*ら)だけで,ドールバタンをたつ。ひさしぶりの重荷,荷かつぎはいつも楽じゃない。わしはやっぱり暇をもらうべきだったのかなあ——。いやいやそんな考えをおこすのはやめよう。道中はヒマールを離れて,これから南へいくんじゃないか。南にはわしの部落がある。わしの村へかえりついでに……。

 きょうは,ウッタルガンガ川沿いに3時間登っただけ,まだヒマールから離れることはできない。わしのみたところ,バラサーブはどうみても日本人じゃないな。新しくきた奴は,いかさない無精ヒゲをのばし放題。わしらだってヒゲぐらいちゃんと整えるぜ。バラサーブはネパリーがわかり,わしの気持を伝えることができるが,この新入りは全くしょうがない。ネパリーができぬ奴が,ネパールにきて何ができるというものだ。きっとこいつは頭が悪く,学校へ行ったことがないのだ。

 1111日 たまらなく寒い朝だった。サーブ連はあったかそうだが,わしはといえば,布きれ一枚だ。あたり一面に,霜柱がたった。川を渡り,バリ・ガッドへ越える峠まで2時間,ゆるやかな登りだった。この峠から南の眺めはいいねえ。どこまでいっても緑だ。この緑の山,南へとだんだん低くなって,ついにあのボートかすんだむこうにインドがあるんだろう。とするとそのちょっと手前のどこかにわしの部落があるんだな。ドールバタンは何もかも冬だったが,もうこの峠のチョルテンをすぎれば寒さともお別れだ。サーブ連は北の方ばかりみている。いつまでも凍ったグルチ(*ジ)ャ・ヒマールをみてる奴等の気がしれない。それにしても峠の南側はなんと急なことか。夕方までにボンダ・カニにつき,学校に宿をとる。サーブ連は,がらんとした教室の中に,先生の椅子と石の黒板しかないのを見て首をかしげていやがる。

 まえからどうしても,たずねようたずねようと思ってたことをバラ・サーブにいってみた。「どうして,毎日毎日石ばかりたたいているんだい。金鉱でも……」バラ・サーブはむずかしい言葉をならべた。「ずーっとずーっと昔,海の底にあったネパールに,どんなふうにしてヒマールができたのか。……を調べているんだ」ひえっ,石などたたいてそれがわかるのかね。わしはバラ・サーブのいう10のうち9もわからなかったが,このむずかしい言葉をつかう奴,きっと頭がいいに違いない。ひさしぶりに青物を食った。

 1112日 何年ぶりかと思うほどの暖かい夜をすごした。すがすがしい朝。出発前サーブ連は何やら白い薬を飲んでいる。何だと聞いたらマラリヤよけだといいやがる。もう手がかじかむことはないだろう。ぬくいのが気持いい。ドールバタンとは天気が違うだけじゃない。人の面つきが違う。川の姿がまるで違う。チベット人の住むところでは,川はゆるく流れ谷は円い。広い河原のどこでも歩ける。だがこちらでは,川は荒々しく山をけずり,深い谷をつくり,川は叫び声をあげ,左右に激しく振れ,急角度に流れ下る。道はだいたい川沿いにつけられているが,登り下りが激しく,しばしば川沿いにすすめぬ難所にぶつかる。そんなときは,一,二日かけ,尾根を越え,悪場をまわらなくてはならない。背負いにくい30 kgのかたい箱荷をかついでるとそんな時が一番つらい。峠の微風とサーブのくれるタバコだけが救いだ。昼にフンドラ・フェリーに着き,支流を東へ廻り,バンガ・ドーパン村で泊る。いつものように,サーブ連に,野菜タルカリを作る。米を毎日食えてうれしい。軒下に3人ならんで横になった。

 1113日 昨夜にかぎって,バラ・サーブはなかなか寝つかれぬようだった。それにしても間に寝る新入りの高いびきは……。バラ・サーブもウドウス(南京虫)にやられているな。わしとバラ・サーブは,夜中に二度も,身につけてるものの点検に起こされた。なんのことはない,わし等は,ウドウス攻撃をふせいだ城壁だったのだ。おかげで,新入りは熟睡だ。

 竹あつめに精を出していた親子が教えてくれた橋は,川幅がいつしか5mになり,やがてとび越えることができるようになっても,ついにあらわれなかった。越すべき山は見えていたのだが。このあたり,牛がつけた間道がたくさんあって,わし等は幾度も行きづまった。午後一杯,道を探し,竹藪をわけ登ったが,夕日が沈むころわしらは引き返さざるをえなかった。そして,小さな見捨てられた家畜小屋に荷を下した。

 1114日 朝みれば,なんと対岸の尾根づたいに登ってゆく道がみえるではないか。昨夜はひえた。歩くたびに道がサクッ,サクッと答えた。天気はとりわけよかった。空気はひやかだ。踏みかためられていた道は,いつしか,わずかに残された踏み跡をいくようになり,ついには消えた。急な斜面の藪をこぎ,午後おそく,わし等は11,330 ftの山頂に着く。サーブ連は,いつものように北に目をむけた。ここからみるアンナプルナからダウラギリ,さらに西へヒウンチュリへとつづく,風景はものすごかった。わし等の国に,どうやってヒマールができたんだろうね。サーブ連が腰を上げないのを幸いに,わしはまどろんだ。疲れた体に,どこからとなく,風にはこばれてくる鈴の音や,やわらかい人の声が心地よかった。これからはタラ・コーラ川だ。牛のつけた急なシグザグの道を,どこまでもどこまでも下った。次第次第に夕闇がせまり,厚い林の中を行く道は暗く,足もとがあやぶまれた。と突然目の前10 mを黒い影が横切った。体は1mもあったろうか。いや2m……。尾が長かった。わしの村近くには,ヒョウや熊がでる。今の体つきからして熊ではない。

 道がだんだん踏みかためられてきているのは村が近い証拠だ。一番星はすでに輝きはじめている。一陣の風とともに,するどい叫び声を頭上できいた。わしは一瞬体をひきしめ,身をかがめた。そうすれば背中の荷がわしを守ってくれるだろうと思った。……なんだサルか。タメシを求めて移動する10頭ほどのサルの集団じゃないか。

 さて,はやいとこ荷を下したいものだ。黒い林をぬけ,しばらくすると煙のにおいがした。それは村のにおいだ。薪集めの子供等と,どこからともなく一緒になり,そしてあとさきになりながらタラ・コーラ川最奥の部落シバへ入った。山のむこうからこっちへと,1,000 m登り,そして又1,000 m下ってきた体は,死ぬほど疲れていた。

 先に行っていたサーブは,すでに宿を決め,村人に夕食を作らせていた。トウモロコシの御飯に,ニワトリのタルカリそして乳の腹一杯は豪勢の一語につきた。今夜の宿はとりわけ快適であったにもかかわらず,わしはなかなか寝つかれなかった。サーブ連は心地よい寝息をたてていた。ちくしょう。今日はよほど疲れたのだろう,わしは何回となくうなされ,今までみたこともない恐しい夢をみた。

 ……プリティビ・ナラヤン王の死後,政治は非常に腐敗し,世の中は混乱に落し入れられた。人々の目は不気味にひかり,すきあらば,何かをたくらんでいた。とりわけネパール谷の偉い奴等にそれが強くあらわれていた。第二王女が第一王女を毒殺したのは序の口だった。ある時は,狂人が王を殺害したり,又あるときは12,3のがきが王冠をかぶったりもした。それは今から200年程前のこと。その頃わしの一家はクラサールにほど近いカネガールと呼ばれた,それはそれは良い土地に住んでいた。米は年2回とれ,トウモロコシ,ヒエはよく採れ,季節にはミカンが稔った。村人は幸福だった。わしはその時8才だった。

 だが,そんなわしの村にもネパール谷の風が吹きすさび,よそ者が村に入り込んでき,ありとあらゆる悪事を働くようになった。わしの父は両隣りの者と組んで,わしらの土地をまもっていたが,ついに武器をとり,村人を集め,よそ者を一掃した。それはいいことに違いなかった。しかしその時から親父の目の色がかわった。親父が親玉になったことから親父は大地主となり,両隣りのものも,それ相応の土地を占めた。多くの村人が反対したのは当然だった。無慈悲にも,親父ははむかう村人を,容赦なく切った。やがて家には米倉がいくつも建った。わしは何不自由なく遊んで過ごした。さしもの親父もあれから10年後にはおとろえた。その年はいやな雨がくる日もくる日も続いた。隣り村でコレラがはやり,それがわしの村にもうつってきた。村人は苦しさにうめき,死んでいった。

 ある夜,わしの家の塀の外に,聞いたこともない物音がし,同時に正門は壊され,骨と皮になった村人の一団がなだれ込んできた。隣室で,弱りきった体を休めていた親父のかぼそい声は,村人の狂いたった声にかきけされた。わしが物かげに隠れたのと,村人がわしの部屋に入ってきたのは同時だった。わしは簡単にみつけだされ,怒り狂う村人の前に引きだされた。"いかしてはおけぬ。あの親父の子だ。"そして親父の血にぬれたククリをわしの目の前にふり上げた……

あっ……わしは呻き,体中を走る汗に目を開いた。わしはきっと叫び声をあげたに違いない。わしは目を閉じるのが恐しかった。

 1115日 眠りから解放された時,日はすでに高かった。サーブ連も疲れていたに相違ない。ゆったりと拡がる谷に位置を占め,家々の造りからおのずと裕福であることが読みとれるこのシバ村を,サーブ連は"ラムローチャ(すばらしい)"を連発していたが,それよりわしは昨夜の悪夢から早いとこ逃げたかった。はじめ静かに流れていた川は,いつしか荒々しく流れ下る,深く切りたった断崖をもつ,男らしい顔つきとなった。その断崖は巧みにつけられた道を伝わり,ガルコットへと下っていった。朝のうち晴れ間をみせていた空が,泣きだした。わし等は,とある茶屋に飛び込んで,地酒をのみ,焼きトウモロコシを食いながら,女神の涙のきれるのを待った。

そこへ,きちんと背広を着こみ,短靴をはいた356の男がかけこんできた。この男は,インドの或る会社で門番をやっている,といった。どうりでしゃれていやがる。その会社から7日間の休暇をもらい,家に帰るところだが,道中予想外に時間をくい,すでに4日を使ってしまった。帰りのために3日は是非とも必要だから,今日中に家に着かなければ家族の者には来年まで会えないという。その時は,あとすこし行ったとこにある親戚の者だけにでもあってくる,といい残して,飲みかけの茶もそこそこに,雨の中を登っていった。降り止まぬ雨に,サーブも業を煮やし,立ち上った。わしもその後を追った。暗くなる頃,大きな村,いや大きな町,ガルコットに着いた。この秋とりたての新米のうまいことうまいこと。サーブの食うこと食うこと。サーブ連の食う手つきも大部板についてきたな。

 11161718日 この三日間,ガルコットに荷を預けて,小旅行にでた。わしの背中には,サーブの寝袋と炊事用具しかなく,足どりは軽かった。しかしバラ・サーブにこの3日間は,日給を半分にするといわれ,心は重かった。

 1119日 ともに大きな町,ガルコットとバグルンを結ぶこの道は立派である。雨が降ってもこれなら文句ないし,2人並んで歩くこともできる。おまけに登り勾配が適当だ。まずどこへだしてもはずかしくないネパールの一級国道だ。人の往来もはげしく絶えることがない。峠にでる手前で,荷物もないくせに,従者をしたがえ,ふんぞり返って歩いてくる年の頃556の男が来た。ステッキを片手に,左胸にありとあらゆる勲章をぶらさげていやがる。ほんとうをいえば,わしは,こういう男をみると胸が煮えくり返りそうになるのだが,そんなことはおくびにもださず,さも尊敬の念をいだいているかのように装って,頭をかるくさげて,通りすぎるのが常だ。あの男,さも満足げな面していきやがったに違いない。あいつらは何も仕事もせず,年に一度近くの大きな町の政府出張所へいって,イギリスより送られてくる,グルカ兵年金とやらを,懐に入れてくる奴だ。年とった奴のなかには,年450ルピーも,もらうのもいる。勲章がぶつかりあって鳴らす,胸糞わるいあのガチャ,ガチャの音が大きいほど,年金も多いと聞いた。

 道はすでに峠をすぎた。わしはかなりの速さで歩いたのに,先を行くサーブ連をいっこうにつかまえることができない。サーブ連,すでにバグルンへ着いたろうか。いやいやそんなはずがない。峠からヒマールがみえるはずだから,きっと又あきもしないでヒマールとにらめっこしているにきまっているさ。ドバニの部落をすぎ,次の村にさしかかるころ,上の方から何やら叫び声が聞えた。豆のように小さな点が二つ,かけ下りてくる。サーブ連に違いない。わしは待つことにした。息せきぎって,下りてきたサーブのいうには,もう一度登れという。そしてドバンの学校までもどるという。まだ日はこんなに高いじゃないか。サーブ連の剣幕におされ,わしは再び重荷を背にし,急な坂道をひき返した。けっ,なんのことはない。その理由がよめた。夕方わしが例によって野菜タルカリを作ってると,今宵の宿である学校からでてきたサーブ連は,日が落ち,赤くなっていくヒマールの写真をパチパチ撮ってるのがみえた。

 1120日 行こうと思えば,きのう行けたものを。バグルンまでは半日歩きだ。道はゆるい下りだ。道が町に近づくに従って,人がどんどん増えてきた。牛のケツを追う裸の子供,器用に腰をつかって水ガメを運ぶ娘達,井戸の周りで水を浴び,洗濯をし,話しに1日をつぶす女達,わしのような荷運び人。1ヵ月前,ここにきたとき,あたり一面稲穂が揺れていたのに。新米のとり入れを終えた男達はバクチに精を出してることだろう。トコトントン,トコトントンと家々から聞えてくるのは,女達のする脱穀の音だろう。人々の笑い声,子供のふざける声,ミカンの甘酸っぱい匂い。わしが重荷から解放されるのはもうすぐだ。ざっと計算しても400ルピーはかたい。わしは何を食うとしょうか。何を飲むとしょうか。クスマにいるタカリーのべっぴんさんは,わしの顔を憶えてるだろうか。

 この2ヵ月というもの,わしは何をしてきたのかなあー。重荷を背負いながら。首がつかれたわい。それにしても,海をはるばる越えてきたサーブ連中は,何が好きで,わしの国を歩いているのかなあー。いざ,こうして大枚400ルピーをふところに入れてみると,わしは正直なところ,どう使ったらよいのか,迷ってしまう。ふところの厚味が,気持いい。しかし,ちらっとのぞいたサーブのガマグチには,それこそ数えきれねえぐれえ,大枚があったのを,わしは見のがさなかったぜ。今回は,まあ一いいとして,この次にきた奴等からは,たんとまき上げてやる。それじゃ,バラ・サーブ,そして口のきけぬ,あわれなヒゲ面よ! さよなら! ナマステ! 

 

8)まとめ-「国産AI」への期待-

日本語の野帳のテキスト化の課題は、まず筆者の文字が乱雑なため、第2章の「日本語の野帳のテキスト化2006823日の立山調査-」で指摘したように、天気記号の晴れ記号が①、山荘を山元、雲海を葛埼、室堂をきき、トリカブトをトイカット、オオシラビソ上限を[ロッファラビット?]ひえ、沢を元、チングルマを4シダルス、雪解けの遅い北向き場所を第6400違い設計、天気記号の曇りの@、ハッコウダ・ゴヨウ(マツ)をハウラダンコウラ(マップ?)、臭い少ないを使うヤツ、ダケカンバをダイアモン、そしてトドマツ林をトイマップ大丸などの間違いがあり、生成AIは文字起こしに大変ご苦労されたようだ。そこでまずは、野帳への記入に当たっては第三者にもわかるような楷書体に近い文字記入が求められる。と言うのは、第7章の「氷の島からヒマールへの旅」の文字起こしでは、全体の原稿文字10308字の中で間違いはわずかに15個所のみで、ほぼ正確に復元されているのは、原稿が印刷活字のコピーで、楷書体だからである。ただし、文字が乱雑な日本語野帳であっても、数字やローマ字記入の測量機材のGPSTrimble」は正確に文字起こしされているのを見ると、生成AIの文字起こしは日本語よりも英語に向いているように思われた。できるならば、多少文字が乱雑な日本語にも向いている生成AIの登場が待ち遠しい。

手書きの英語の野帳のテキスト化では、Claudeは『読めた範囲をできるだけ忠実に文字起こしし、不明瞭な部分は [?] で示します』との注釈付きではあったが、間違いはHutteはドイツ語のHütte、「Alpensen[?] minor」は「Nepalese summer」で、山名のChinenChurenとわずかである。拙い英語であるとともに乱雑な手書き英文であってさえも、かなりの程度正確に文字起こししてくれている。生成AIChatGPT「かなり読みづらく、一部判読できない箇所があります」との指摘だったが、地名のDapatanDorpatan、山名のChilenChurenである他、大部分は正確に文字起こししてくれている。しかも、英文中のドイツ語表現のウムラオト記号の「Hütte」はそのままで、英語のみならず、ドイツ語の文字起こしにも向いているようだ。英語による野帳の文字起こしの場合は、手書きの日本語の野帳よりも、間違いは少ないので、既存の日本語向けの生成AIがない段階で、生成AIClaudeChatGPTで野帳の文字起こしをする場合は、日本語よりもローマ字記入の野帳の方が有効なのかもしれぬ、ことを示唆している。

南極点の初到達を目指したイギリスのスコット隊はノルウェーのアムンゼン隊に先を越され、失意の帰路で1912329日に力尽きたが、隊長ロバート・ファルコン・スコットさんの日記の最後のページの読みにくいと思われる手書き文章を生成AIClaudeに下記の様に文字起こししてもらったところ、太字の個所に疑問がわいた。

we shall stick it out

to the End but we

are getting weaker &

course and the End

cannot before,

It seems a pity but

I do not think I can

write more

Robert

Last Darling

For Gods sake look

after our people

そこで、「スコットの日記の最後の4行目と3行目は「Robert. Last Darling」ではなく「R. Scott. Last Entry」ではないでしょうか。」とClaudeに指摘すると、下記の回答があった。

「ご指摘のとおりです。改めて画像を見直すと、確かに「R. Scott. Last Entry」と読むのが正しいと思われます。私の最初の文字起こしでは、「Robert」→ 正しくは「R. Scott」、「Last Darling」→ 正しくは「Last Entry」と誤読しておりました。筆記体の崩れた字形から「Scott」の「Scott」部分を「ott」と読んで「Robert」と誤判断し、「Entry」を「— Darling」と誤読してしまいました。重要な箇所の誤りをご指摘いただき、誠にありがとうございました」と誠実に訂正してくれたのである。

 英語の野帳のテキスト化に関しては、冒頭に紹介した干場悟さんからの指摘のように、「過去の野帳をGPTに読み込ませることで、文字起こし、テキスト化してくれるようです。この膨大な資料でAIが自ら解読して結果に導いてくれるようです。これってすごく意味のあることなんですね。わくわくしてきます」なのだが、米政府はAI開発企業アンソロピックの先端AIモデルを輸出規制措置の対象にし、日本国内の情報インフラとしてのAIが利用できなくなる事態を講じ、米政府の動きに翻弄される中、日本政府は「国産AI」の確立を目指すとする新たなAI基本計画を閣議決定した(資料8)とのことだ。第6章のスコットさんの日記の最後のページの読みにくいと思われる手書き文章をかなりの程度文字起こしできていることに加えて、くずし字で難解な日本の古文書さえも読めるようなので、文字が多少乱雑な日本語の野帳であってもできるだけ正確に文字起こしできるよう既存の生成AIが進化することや、閣議決定した前記の「国産AI」の早期実現にも期待したい。

最後に、本人による正確な文字起こしをした野帳の記載事項をChatGPTClaudeがインフォグラフィック形式の画像を表示してくれた(写真3)のには驚いた。正確に文字起こしされた手書き野帳を基にして、第三者にも分かりやすいように、時間軸に沿って関連する画像情報などを取り込み、表現してくれているインフォグラフィックな画像形式が、今回のブログのテーマ「野帳のテキスト化」を表現する将来イメージになるのではないか、と考える。

 

9)追記-タイタニック号乗客の手紙

1912年に沈没した豪華客船「タイタニック」での生活を記した手書きの英文手紙(写真6;資料11)が、オークションにかけられており、「実に興味深い」内容というその手紙の落札価格は、35000ポンド(約764万円)前後と予想されている、そうだ。さっそく、ChatGPTに「下記の手紙の文字起こしをお願いします」と頼み、内容を教えてもらった。手紙は丁寧な文字で書かれていると思われ、文中の人名"Lowes" の綴りの確信度がやや低いことを除いては正確に文字起こしされているようだ。

 

 

写真6 豪華客船「タイタニック」での生活を記した手書きの英文手紙 

9-1 ChatGPTの回答

画像内で判読できる範囲を文字起こししました。不鮮明な箇所は [判読不能] としています。

On board R.M.S. "TITANIC."

April 10, 1912

Dear Hector,

Very many thanks

for the telegram and for the good

wishes. It was a kind and

thoughtful act and much

appreciated, and you will please

convey my thanks to the

members of our Association.

Wasn't it good of the

President to come and see

me off? I almost believe

Lowes have persuaded

him to come along.

備考

タイタニック号のレターヘッド("On board R.M.S. 'TITANIC.'")が印刷された便箋です。

宛名は "Dear Hector," と読めます。

最後の "Lowes have persuaded" の部分は筆跡が非常に薄く、"Lowes" の綴りは確信度がやや低いです("Loves" や別の姓である可能性もあります)。

9-2 ChatGPTによる日本語訳

以下が手紙の日本語訳です。原文の丁寧で親しみのある雰囲気をできるだけ残して訳しました。

1912410

R.M.S.タイタニック号船上にて

親愛なるヘクターへ

電報と温かいお祝いのお言葉を、本当にありがとうございました。

あなたのご厚意はとても親切で思いやりにあふれたものであり、心から感謝しています。

どうか私からのお礼を、私たちの協会の皆さんにもお伝えください。

会長がわざわざ私を見送りに来てくださったのは、本当にありがたいことでした。

ローズ(Lowes/綴りは判読が難しい人物名)が会長を説得して、一緒に来てくださるようにしたのではないか、と私はほとんどそう思っています。

補足

この手紙は、1912410日、タイタニック号がサウサンプトンを出港した日に船上で書かれたものです。

いくつか興味深い点があります。

"Dear Hector"

「親愛なるヘクターへ」。親しい知人や友人宛ての手紙です。

Association

「私たちの協会」。具体的な団体名はこのページだけでは分かりません。

President

協会の「会長」のことを指しています。

come and see me off

「私を見送りに来る」という意味の慣用表現です。

Lowes have persuaded him...

人名の綴りが少し読みづらく、LowesLowe、あるいは別の姓である可能性があります。意味としては「○○さんが会長を説得して、一緒に来てもらったのでしょう」という内容です。

このレターヘッド("On board R.M.S. Titanic")と日付から、この手紙はタイタニック号が処女航海に出発した当日に船内で書かれた非常に貴重な資料であることが分かります。

 

10)引用資料

資料1

氷河の世界

https://glacierworld.net/

資料2

生成AIの特徴と問題点(1)

https://glacierworld.net/travel/aach-memorandum/aach-memorundam16/

資料3

生成AIの特徴と問題点(2)-「池上彰とは何者か」本人がチャットGPTに聞いてみた-

https://glacierworld.net/home/issue-of-chatgpt2-ikegami/

資料4

生成AIの問題点(3)- 生成AIDeeoseekを試してみた!-

https://glacierworld.net/home/trial-deep-seek/

資料5

生成AIの特徴と問題点(4)-名前のハルシネーションを防ぐために-

https://glacierworld.net/home/ai-iaaue4/

資料6

生成AIの特徴と問題点(5)-生成AIは変化し、進化する-

https://glacierworld.net/home/ai-isssue-vol5/

資料7

生成AIの特徴と問題点(6)-双方向性の展開と期待-

https://glacierworld.net/home/7465-2/

資料8

アンソロピック社のAI提供停止に揺れた日本…このまま海外頼みでいい?「国産AI」作れる見込みは

2026/07/20

https://www.tokyo-np.co.jp/article/502441?utm_source=tokyo_mailmag&utm_medium=email

資料9

Captain Lawrence Oates

https://www.historic-uk.com/HistoryUK/History-of-Britain/Captain-Lawrence-Oates/

資料10

1965中央ネパールヒマラヤ地質氷河調査隊

Central Nepal Himalaya Geological and Glaciological Expedition 1965

発行者;中央ネパールヒマラヤ地質氷河調査隊

    北海道立地下資源調査所 酒匂純俊

発行日;1968/06/15

印刷所;興国印刷株式会社

資料11

タイタニック号乗客の手紙が競売へ、悲劇の前の船上生活伝える内容

2026/07/22

https://www.cnn.co.jp/world/35250857.html