2023年10月1日日曜日

ネパール・ヒマラヤ氷河調査隊(GEN)50周年の思い出(2)カイラス望見飛行とチベット高原へのあこがれ

 

ネパール・ヒマラヤ氷河調査隊(GEN50周年の思い出(2)

カイラス望見飛行とチベット高原へのあこがれ


1)  はじめに

ヒマラヤ山脈の谷は大きくて深いので、隣の谷にはどんな氷河があるのか、分からない。そこで、ネパール・ヒマラヤ東部のヒンクコーラからホングコーラの氷河調査をするために、羊を連れて、両河川を結ぶメラ峠を越えたことがある(写真1)。いわば地上を這いつくばる虫の目調査である。だが、ヒマラヤは広大なので、虫の目調査では全貌がつかめない。そこで、飛行機で各地域の氷河写真を撮る鳥の目調査を行い、氷河の表面形態の違いやその分布を明らかにする必要があった(写真2)。この報告では、鳥の目調査の成果の一端と憧れのチベット高原を垣間見た―カイラス望見―のヒマラヤ飛行をお伝えする。

写真1 メラ峠越えの虫の目調査       写真2 クンブ氷河の鳥の目調査

 

2)  鳥の目調査

ネパール・ヒマラヤ氷河調査隊(隊長;樋口敬二名古屋大学教授)は1976年(2飛行、写真3)と1978年(9飛行、写真4)に鳥の目調査を行い、合計30時間(注)に及ぶネパール・ヒマラヤの氷河地域のほぼ全域の写真撮影を行った(資料1)。撮影した8,700枚にも及ぶ氷河地域の写真集(白黒写真4515枚、カラー写真3475枚、カラープリント写真480枚、赤外線写真230枚)は、渡辺興亜さんと矢吹裕伯さん達によってまとめられている(資料2)。

 

写真3 1976年の鳥の目調査  写真4 1978年の鳥の目調査

 

(注)

1974に行われたネパール航空のボーイング727による約1時間半の飛行を除く。

 

資料1

Preliminary Report on Flight Observations of 1976 and 1978 in the Nepal Himalayas. 1980,  Seppyo, 41, Special Issue. Japanese Society of Snow and Ice, 62-66.

 

資料2

Aerial photographs of glaciers in the Nepal Himalayas obtained during the Glaciological Expedition in Nepal (GEN) from 1974 to 1978.

 

3)氷河台帳の作成

鳥の目調査で得られた写真をもとに各氷河の大きさや表面形態などの特徴を氷河台帳にまとめ、東ネパールのドゥドコシ河流域の岩石氷河も含む氷河分布図を完成することができた(写真5、資料3)。また、撮影されたチョモランマ(エベレスト)峰を見ると、世界最高峰の基部に火の玉状の花崗岩が貫入し、チョモランマ峰山群を支えている地質構造を示唆する写真情報も得られた(写真6)。私見だが、チョモランマ峰形成の上昇要因としては1)インド亜大陸のアジア大陸への衝突と潜り込みによるせり上がりと2)火の玉状花崗岩による上昇、そして下降要因としては3)チョモランマ峰直下の北側に滑り落ちる正断層活動と4)風化現象による浸食作用である(資料4)。2015年5月のようなヒマラヤの大地震(資料5)時にそれらの値が変化することによって最高峰を形成する、と解釈している。

写真5 氷河台帳と氷河分布図       写真6 チョモランマ峰を支える火の玉状の花崗岩

 

資料3

Preliminary Report on Glacier Inventory in the Dudh Kosi Region. 1978, Seppyou, 40, Spcial Issue. Japanese Society of Snow and Ice, 70-83.

 

資料4

木崎さんの思い出;二題

https://glacierworld.net/travel/aach-memorandum/aach-momorundam-13/

 

資料5

ネパール地震(1)当日から5日目

https://glacierworld.net/travel/nepal-travel/nepal2015/nepal2015_07earthquake/

 

4) カイラス望見飛行

カイラス山はガンジス川とインダス川の分水嶺地域にあり、ネパール北西地域よりさらに北に位置し、カトマンズからは遠すぎて無給油での往復ができない。そこで、カイラス望見の飛行にあたり、まず1978年11月15日にポカラで一泊した。翌16日はネパール南西のインド国境近くのネパールガンジまで南下し、そこで給油してから、1963年の安藤久男隊長のナラカンカール調査隊のキャラバンルートであるカルナリ川沿いに北上。そして、念願のチベット高原のカイラス望見(写真7)を果たし、帰路は再び給油のためネパールガンジへ立ち寄り、カトマンズにもどる飛行となった(写真4の左端のルート;資料6)。全長約7百キロ、実際の全飛行時間は約6時間、撮影した写真は白黒が425枚、カラースライドが315枚、カラープリント35枚。同行した氷河調査隊員は故樋口明生(資料7)と安成哲三両氏で、パイロットは今回もピラタス・ポーターの飛行機会社からきているベテランのスイス人ウィックさんだった(写真8)。第2章で述べた鳥の目調査のヒマラヤ飛行合計11回のうち9回を筆者は担当したが、そのほとんどはウィックさんがパイロットを勤めてくれたので、彼はまさしく我々の鳥の目調査の恩人である。

写真7 カイラス山とマナサロワール湖   写真8 ポカラ飛行場のウィックさん

 

資料6

AACH備忘録(6)-カイラス飛行-

https://glacierworld.net/travel/aach-memorandum/aach-memorandum06/

 

資料7

追悼 樋口明生さん

https://glacierworld.net/travel/recollection/higuchi-akio/

写真9 グルラマンダータ峰とカイラス山 写真10 カイラス峰とマナサロワール・ラカス両湖

カルナリ川沿いに飛ぶ機体は徐々に高度を上げ、上流のシミコットを過ぎて、高度が7,985mになった地点で酸素マスクを使用した。気温計はマイナス23度を示していたが、寒さをそれほど感じなかったのは、憧れのチベット高原にいるという高揚感のためだったからに違いない。さらに北上すると、チベット高原を思わせる広大で乾燥した谷地形の景観になり、西側に緩やかな尾根を広げるグルラマンダータ(ナムナニ、7,694m)峰南西の谷に近づいた。そこは、1963年の安藤久雄隊の宮地隆二隊員が越境したため収監されたタクラコットがあるはず(写真9)、と思われた。ジェットストリームがかなり強いとみえ、なかなか飛行機が進まない感じで気をもんだが、さらにゆっくりと北上すると、グルラマンダータ峰左に小さく見えていたカイラス山(写真9)がグルラマンダータⅡ峰越しにはっきりと正面に現れた(写真10)。そして、ついに、聖湖マナサロワールの北に、憧れのカイラス山を拝むことができたのである(写真7)。カイラス山の中腹に分布する礫岩層といわれる水平な堆積構造もはっきりと認めることができた。やっと、念願のチベット高原にあるカイラス山を望見することができ、大いに満足した。

 

5) チベット型氷河

緩やかな地形が発達するネパール北西部の氷河は、急峻なヒマラヤ山脈南面のクンブ氷河のような岩砕に覆われたネパール型の黒い氷河(写真2)とは異なり、表面を覆う岩石がほとんどない、緩やかなチベット型の白い氷河である(写真11)。ナラカンカール隊の渡辺興亜さんはネパール北西地域のタクプ氷河の調査を行っていたので、チベット型のその氷河上空も飛行した(写真12)。

 

写真11 チベット型の氷河群         写真12  タクプ氷河

 

6) ヒマラヤ山脈の盟主

標高8,848mのチョモランマ峰は世界一高い山だが、地形的にはガンジス川流域内に位置し、チョモランマ峰の次に高いカラコラム山脈のK2峰(8,611m)はインダス川流域内の山である。しかし、カイラス山(写真7)の標高は6,656mで高度こそ低いとはいえ、ヒマラヤ山脈の二大河川、ガンジスとインダスの源流部の分水嶺に位置する山である(写真13)。そこで、地形学的な特徴からみると、チョモランマ峰やK2峰よりもヒマラヤ山脈の盟主にふさわしい、と解釈できる。ヒンズー教と仏教の聖山、カイラス山の麓には聖湖といわれるマナサロワール湖が(写真7と10)ある。カイラス山は宗教的にも、ヒマラヤで数あるHoly Mountainなかで、最もその名にふさわしい聖山で、今回のカイラス山望見のヒマラヤ飛行でその聖山をしかと眺めることができたのは大いなる幸運であった。

写真13  ヒマラヤ山脈の河川系と高峰      写真14 アジアの河川系

 

7) 感謝

高度約8千mのこのフライトで、幸いなことに、念願のカイラス山を望見する機会をあたえてくれたネパール・ヒマラヤ氷河調査隊の樋口敬二隊長はじめ隊員の皆さま、そしてパイロットのウィックさんに感謝している。ウィックさんが、内緒の話としていうには「これまでに11回もネパールの国境を越えて、インドやチベットに入ったことがある」そうだ。本報告の―カイラス望見―飛行でもその禁を犯したかもしれない。今なら、ミサイルが飛んでくる可能性もあることを考えると、今後は再現できないであろうカイラス望見飛行を実現してくれたキャプテン・ウィックさんには改めて頭が下がる思いだ。おかげで、内陸アジアの大河川;ガンジス河・インダス河・メコン河・揚子江・黄河などの現流域(写真14)であり、聖山カイラスを抱く広大なチベット高原への地球温暖化の影響とアジアの自然環境変動についてますます興味が増すばかりになった。

 

付録

1978年のカイラス望見飛行でチベット高原への思いが募っていたところ、1980,1987と2001年にチベット高原を旅することができたので、まず今回は、1980年のチベット巡検旅行を紹介します。

 

チベット巡検旅行(*引用文献)

1980年のチベット高原科学討論会および内陸アジアの自然と氷河群

(*引用文献) 

伏見碩二(1980)内陸アジアの氷河群-氷河現象の地域性と歴史性について-.月刊地球, 2-10, 707-726.

 

1.はじめに

 トランス・ヒマラヤからグレート・ヒマラヤを旅行できるチャンスがめぐってきた。中国科学院は,1980525日~61日に北京で青蔵高原科学討論会「Symposium on QinghaiXizangTibetPlateau」を開催し,62日~14日にかけてチベット高原南部のエクスカーションを企画した(図1)。青蔵高原とは,青海からチベット(西蔵)にかけての,いわゆる内陸アジア高山地域の一部を示している。

図1 チベット巡検旅行概略図(1980年のルートは黄色の点線、赤線は1987年のルート)

 私は,1965年以来8回のネパール・ヒマラヤの氷河・地質調査に参加し,通算5年におよぶ期間,土地の人々が神々の座とあおぐグレート・ヒマラヤを南側から眺めてきた。私にとって未知であるグレート・ヒマラヤ北側に住むチベットの人たちが,モルゲン・ロートやアーベント・ロートに染まる峰々を蓮の花弁になぞらえるというチベット高原への思いはつのるばかりであった。

 内陸アジアの探検家・スウェン・ヘディンは,チベット高原を調査し,ツアンポー河の北に東西に連らなる山脈をトランス・ヒマラヤと命名した。内陸アジアの地形的雪線の最高地点はグレート・ヒマラヤにではなく,トランス・ヒマラヤに位置しているように,内陸アジアの気候条件におよぼすトランス・ヒマラヤの地形条件の重要性をすでにヘディンは指摘していたのである。また,世界最高峰のチョモランマ(8848m,別名サガルマータ,エベレスト)はガンジス川の流域内にあるのに対して,トランス・ヒマラヤのカイラス峰は高さこそ6714mにすぎないが,ヒマラヤの大河であるインダス河とガンジス河上流のツァンポー両河川の分水嶺地域に位置し(図1),あたかもヒマラヤ地域の中央に鎮座しているかのようだ。聖なるマナサロワール湖をいだくカイラス峰は,ラマ教とヒンズー教それぞれの聖山にふさわしい。いずれにしても,チベット高原の南部を東西に約2500km以上続く,ヒマラヤの名を冠したこれらの二つの大山脈は,地質・地形学的にも気候学的にも重要である。これら両ヒマラヤ山脈の上昇につれて変化してきた氷河などのさまざまな自然の歴史に思いをはせる者にとっては,大いなる未知の魅力を秘めた地域であるので,これらの地域を是非とも見ておきたかった。

写真1 鄧小平さん(中央)と,A.ガンサーさん(左)とA.デジィオさん(右)

 幸いなことに,これまでにグレート・ヒマラヤなどの内陸アジアの多くの研究者がこの会議に集まった。そのうちの何人かとは,ネパール語が通じるほどであった。531日に人民大会堂で催された夕食会の席に並んだ中国副主席で実力者の鄧小平さんと,地質学者のA.ガンサーさんとA.デジィオさんの各氏はともに小柄な方々である(写真1)が,あたかもヒマラヤのジァイアンツをみる思いがした。

 

2.内陸アジア変動帯

19341月,ネパールを中心としたヒマラヤ地域は大きな地震にみまわれた。この時,カトマンズのレンガ造りの家々のほとんどが破壊されたという。この地震は,ヒマラヤ地域を南北に切っているパトナ断層の動きが原因と考えられている。また,1950年,同様な大規模な地震がインド北東部のアッサムにおこった。ヒマラヤ地域やチベット高原などの内陸アジアは,現在もその動きを止めてはいないようだ。このような地震を契機として,ヒマラヤ山脈は上昇する。また,ヒマラヤ地域の8000m峰などの高処から,古生代から新生代前期までの海成の化石が報告されていることが示すように,長い時代にわたるグレート・ヒマラヤの上昇量は相当大きな値になる。中生代までのヒマラヤ地域に分布していたテーチス海の堆積物(テーチス堆積物)には,新生代後期(約1500万年前)よりも新しい地層がみられないので,ヒマラヤ地域は約1500万年前から陸化しはじめ,その後現在まで上昇をつづけてきた,と解釈できる。また,東ネパールのアルン川の下方侵食量は15kmにも達すると報告されているので,単純化して,この地域の上昇量にほぼ見合う分をアルン河が侵食してきたとすると,この地域の平均上昇速度は,上記の侵食量(15km)を陸化しはじめてからの時間(1500万年)で割ると,1年に1mmとなる。

 最終氷期から現在までの数万年間の上昇量が,日本アルプスや六甲山地で,数百mと考えられているのに対して,ヒマラヤでは,それよりも1ケタ大きい1600mと見横られている(郭,1974)。約百年前に測量された世界最高峰のチョモランマの高さ8848mと最近の人工衛星を使った高度8850mを比較すると,チョモランマは百年間に2m,つまり平均的には,1年間に2cm上昇してきたことを示唆する。これらのことは,ヒマラヤの最近数万年間の平均上昇速度が年間数ミリ~数センチであることを示し,大きな上昇速度の見積りとなっている。新生代後期から上昇しはじめた地球上のいくつかの大山脈群のなかでも,ヒマラヤの高度が他の山脈よりもはるかに高いことは,侵食速度を一定としても,まずもってヒマラヤの上昇速度がはるかに大きいことを示しているのは間違いないであろう。ヒマラヤをふくむチベット高原を中心とする内陸アジアは,新生代後期からの地形変化が地球上で最も大きかった変動帯としてとらえることができる。

写真2 中国の国家地震局地質研究所員の郭旭東さん(写真の左)

 この内陸アジア変動帯の大きな地形変化は,この地域の気候条件に重要な影響を与える。郭(1974)は「最終氷期以後数万年の間に,ヒマラヤの平均高度が4500mから6100mになったので,南方からの水蒸気輸送がグレート・ヒマラヤによってさまたげられるようになり,チベットは大陸性気候となり,氷河は縮小した」と報告した。郭さんは中国の国家地震局地質研究所員(写真2)で,雄大な構想をいだいてヒマラヤの環境史をまとめておられる。以上のように,ヒマラヤの地形・気候条件の変化は,生物界にも大きな影響を与えたことであろう。長い時間にわたりたえず変化するローカルな地形・気候条件と,グローバルな気候条件との相互作用が新らしい物質循環をつくりだしてゆき,人間をも含めた生物が住む環境をつくりかえ,その地域の自然に特有の歴史をつくる。内陸アジアの自然現象の歴史は内陸アジア変動帯の上昇プロセスと深く結びつく,という視点で理解していくことが重要だと考える。

 

3.青蔵高原科学討論会

 この討論会の中心テーマは,“青蔵高原の上昇と自然環境と人間への影響”となっており,主なテーマは,1)地質,2)地理環境と3)生物であった。この討論会には,中国人研究者約240名,外国人研究者80名ほどが参加し,寄せられた論文数は300編をこえ,発表・討論の場は地質,地球物理,地球化学,層位学,古生物,動物,植物,生理,地形,地理,気象の11分科会であった。

 日本からこの討論会に参加したのは,原寛教授(東大),沼田真教授(千葉大),樋口敬二教授(名大),牛木久雄氏(東工大)と私の5人であった。内陸アジアの研究者を多数かかえたソ連などの国々からの参加者がなかったことは,政治情勢とはいえ残念であった。連日朝830分から夕方530分まで,各分科会ではさまざまな発表・討論がおこなわれ,夜は参加者が撮った映画やスライド会が催された。おかげで,故宮博物院などの北京の名所旧跡は見ずじまいであったが,内陸アジアの自然現象を知ることができた充実した1週間であった。

 

4.チベット巡検旅行

 エクスカーションのルートは,広大なチベット高原の南端部にあたり(図1),地形的にもまた気候的にも,チベット高原周縁部と内陸部との移行帯である。北京から成都を経由してラサまでが飛行機,ラサからトランス・ヒマラヤを往復し,ラサからシガツェ経由でグレート・ヒマラヤをこえてネパールのカトマンズまでがバスの計12日間の旅であった。

 

A) 成都~ラサ

 62日。黄土の名残りを思わせるような霞のかかる北京の空をあとに,黄褐色の堂々たる水をたたえた黄河をこえ,中国の生物界を南北に区分する重要な地形である雪のチンリン(奏嶺)を北にみて,標高約500mの亜熱帯的なバナナと水田が展開する四川盆地の中心地,成都に着いた。空港にはヒマラヤ・スギが植えられており,島状にかたまった竹林などでネパールを思い出すとともに,まさ木やきょう竹桃の植え込みや格子状の柱をくんだ白壁をみていると,同じ照葉樹林文化の日本との親近感をおぼえるのだった。チベット高原東の玄関口成都は,赤土が発達した丘陵地の間に緑の水田が分布する湿気をふくんだモンスーン特有の風土だ。

 63日。朝もやのたちこめる広大な四川盆地をあとに,イリューシン機は南東チベットのチャムド(昌都)をめざし,西方に進路をとった。はやくも夏のモンスーンの影響をうけた入道雲をつきぬけると,左手前方にミニヤ・コンカ峰(7556m)が雄大な姿をあらわした。ミニヤヤコンカから北につづく大雪山地は,丹巴付近ではするどい新しい氷食地形のなかに発達した岩石氷河と小規模な氷河がのぞまれた。道孚付近の工〓(上のシタに下;峠のツクリ)拉山地や,新尤付近の魯里山地はともに,氷河はみられず古い氷食地形が分布する高原状の広大な準平原である。主として北西斜面に分布する針葉樹林のなかに村落が点在している。揚子江上流の金沙江右岸の白玉付近の山地は,再び新しい氷蝕地形が発達し,岩石氷河が分布している。金沙江は実に堂々とした大河で,狭谷をなす。南方のへントウアン・シャン(横断山脈)方面には氷河をもつ双耳峰がのぞまれた。

 金沙江をすぎると,赤紫色のケスタ状の地層(テーチス堆積物)をみせる高原状のゆるやかな台地が展開する。はるか南方にツアンポー河大曲り付近の山々が見えたと思ったが,地図をみるとまだまだそこには達していなかった。どうも心のなかにグレート・ヒマラヤやツァンポー河を早く見たいという期待感がつよくでて,飛行機が早くすすんでいるように思ってしまうが,イリューシン四発の飛行機の歩みはいかにも遅く感じられ,逆にチベット高原は実に大きいのだ。ツァンポー河大曲付近の山々と感違いしたのは,横断山脈のの他念他翁山にあたるようだ。

写真3 チャムド近くの瀾滄江(メコン河)

 ダライ・ラマの親衛隊を勤めていたといわれるカンパ族の都,チャムドから進路がやや南方向に変り,ゴンカ飛行場をめざした。この周辺地域には,新しい氷食作用の跡をとどめぬ赤紫色の地層をもつゆるやかな山並がみられ,緑色の大河が深い峡谷をなして南流する。スチュワーデスに河の名前を聞くと,すぐに瀾滄江(メコン河)と教えてくれた(写真3)。サルウィーン河の上流,怒河に近づくと眼下に雪面が広がり,岩石氷河が発達するとともに,凍結した湖が分布する。洛隆周辺をすぎ,ニイエンチェン・タンラ(念青唐古拉)に近づくと,この地域は厚い層積雲におおわれていた。雲の切れ間にみえるニイエンチェン・タンラの山地は,新しいするどい氷食地形をみせ,大規模な氷河が切れ間なく連続して分布している(写真4)。はるか南のツアンポー河の屈曲地点までつづく雲海上に,やっとナムチェバルワ峰(7755m)が顔をみせていた。おそらくアッサム上空であろう,モンスーンの雄大積雲が発達していた。ニイエンチェン・タンラの大氷河群を涵養する水蒸気は,プラーマプトラ・ツァンポー河や怒江沿いに北上してくる積雲の大きなゾーンとして見えるのであった。工布江〓(シンニュウに大)周辺で雲が少くなり,ニイエンチェン・タンラから続く大規模な氷河地帯がおわり,再び高原状の地形となる。

写真4 大規模なニイエンチェン・タンラ氷河群

ついに著しく曲流するツァンポー河流域に達し,南方にブータンのチョモラーリ峰らしき氷河のかかる山嶺をみながら,ツァンポー河に沿って次第に高度をおとしながら西進した。ツァンポー河両岸の山地は,新しい氷食地形が発達せず,著しい風化作用によると思われる植生のない裸山が続く。乾いた印象をもつツァンポー河支流の谷中には,大規模な扇状地形と部分的に砂丘が分布している(写真5)。成都をたって2時間37分の雄大なフライトは興奮状態のうちに終わり,チベット高原の多様な自然現象の地域的特長を十分整理できないままに,麦畑のひろがるツァンポー河右岸の段丘上のゴンカ飛行場(ラサ空港)に着いた。高度3550mのこの空港には,チベット高原の氷河研究を長いこと続けておられる謝自礎先生(蘭州氷河凍土研究所)がむかえにきてくれていた。

写真5 乾燥したツァンポー河周辺の景観

 

(B) ラサ~トランス・ヒマラヤ

 翌日は,ラサの島状丘上に建てられた有名なポタラ宮殿や一足一礼(五体投地)する熱心なラマ教徒がみられる大昭寺などをゆっくりと休養をかねて見学した。高度3658mのラサの日射は強烈で,ポタラの坂道を登ると汗ばんでくるほどだ。夜1112時の間に,雷をともなう激しい雨があった。ラサの降水量のうち,夜間のものが80%を占るという。

65日。ラサから,ツァンポー河への分岐点トリジャムを経て一路北に向った。道路は簡易舗装されているが,冬期間の凍上のためデコボコ道だ。ラサからモンガ村(3940m)までの間には,ラサかこう岩がジュラ紀の石灰岩に貫入している様子や,部分的に赤紫色をしたテーチス堆積物が大規模な摺曲構造を発達させているのがよくわかる。両岸の山地は,わずかに氷食地形をとどめ,谷の中は大規模な新旧二時期の扇状地がみられる。モンガ村付近の右岸の谷には,氷河性堆積物であるモレーンがみとめられる。謝先生の話しだと,このモレーンの年代は更新世中期のもののようだ。

 モンガ村をすぎると,かこう岩の狭谷となり,ラサから2時間半のバス旅行で,トランス・ヒマラヤの南面の青海省への道路との分岐にあたるヤンバチャイン(4280m)に着いた(図1,2)。ヤンバチャイン周辺は主として中生代のかこう岩質片麻岩と第三紀の火山岩が分布している。ここは,トランス・ヒマラヤとグレート・ヒマラヤ間の東西2000km以上つづく地熱地帯にあたり,現在1000kwの地熱発電が行なわれている。ヤンバチャィンの北につらなる67000m級のトランス・ヒマラヤ(写真6)は,はやくもモンスーンの雲におおわれ,発達した積雲から降雪がおこっていた。今年のラサのモンスーン入りは例年より半月程早かったそうだが,モンスーンの影響がグレート・ヒマラヤをこえ,はるかトランス・ヒマラヤにまで夏のモンスーンの積雲の帯が達しているのをみるのは驚きであった。グレート・ヒマラヤはそれなりに大きな地形であるが,夏のモンスーンに対してはやはり完全な障壁とはなっていないのである。

写真6 ヤンバチャィン周辺のトランス・ヒマラヤ

 チベットの人たちは,もともと峠やいくつかのきわだった峰には固有の名をつけているが,山脈に対しては固有の名前を与えていないように思われる。ヒンドー教の人たちがよんだヒマ・アラーヤ(雪の住居;いわゆるヒマラヤ山脈)に対するチベット固有の名がないようだ。5000mに達する高原に住むチベットの人たちにとって,グレート・ヒマラヤやトランス・ヒマラヤはチベット高原の一部とみて,それらを山脈としてそれぞれを識別していないのかもしれない。彼らにとっては,山脈よりも,人が越えたり,夏の雲が越えてくる山脈低部の峠のほうが重要な意味をもつのであろう。中国の人たちは,ヤバンチャイ付近のトランス・ヒマラヤから西をガンディセ・シャンまたはカイラス・シャンとし,そして東をニイェンチェン・タンラと呼ぶ。タンラのラは,もちろんチベット語の峠からきている(図2)。

図2 チベット巡検旅行図(ラサ~カトマンズ間)

ヤンバチャイン付近の氷河は,ニイエンチェン・タンラ南部地域の大氷河とくらべるとはるかに小規模なカール状のゆるやかな傾斜をもつ氷河である。この付近のトランス・ヒマラヤの裾野には,乾燥しているために,かつてのモレーンが良く保存されている。謝先生たちが次のように説明した。“これらのモレーンはヨーロッパのミンデル氷期,リス氷期,ウルムI亜氷期,ウルムⅡ亜氷期の時代のものです” ,と。これらのモレーンの年代測定はいまのところ行われていないのに,はるか離れて気候条件の異なるヨーロッパの氷河とは形成条件が異なるトランス・ヒマラヤの氷河は,はたしてヨーロッパの氷河の歴史との同時性をもっているのであろうか。ちなみに,「ヨーロッパで古いモレーンとされているギュンツ氷期のモレーンはどれですか」と聞くと,“それは,谷を埋めている沖積層で隠されています”と説明するのだった。

 ヨーロッパ・アルプスでは,19世紀に最近の氷河変動のうちでも最も大きな氷河拡大があったとされているが,東ネパールのクンブ地域ではそのようなことはなく,16世紀以来現在に近づくにつれて,何回かの小規模な拡大は認められるが,全体の傾向として氷河は縮少化に向っているのである(Fushimi1978)。氷期規模の時間スケールからみて,グレート・ヒマラヤとヨーロッパの氷河発達の歴史に同時性があることはまだ証明できていないし,また少くとも両地域の最近の氷河の歴史(小氷期)をみてみると,最大拡大期の時期が違うことや氷河変動の傾向が異なっていることが認められるのである。中国の研究者の方々が,ヨーロッパ・アルプスの氷河編年でグレート・ヒマラヤやトランス・ヒマラヤの氷河変動をまとめられるのは,それはそれで一つの見方であるかもしれないが,やはり,年代測定を行なって同時性を確かめたうえでないと,ほんとうにそうか,とやはり気にかかる。

翌日は休養をかねて,ビャクシンの大木(Platycladus orientalis)の茂るダライ・ラマの夏宮やラサかこう岩のうえに建てられたレボン寺を見学した。

 

C) ラサ~シガツェ

 67日。昨夜からの雨が早朝までのこるラサの町を南下し,シガツェに向った。ツァンポー河との出合いのチュシュイ(曲水13590m)までのラサ川(キーチュ)周辺には,砂丘が散在する。この砂丘は,ラサ川の右岸にもわずかにみられるが,西面する左岸側に多く認められる(写真7)のは,西方からの卓越風によるためであろう。砂丘の規模は,数百mからせいぜい1㎞ほどのもので,その分布には達統性がみられない。なかには,砂丘が移動を止め,表面を植生におおわれた化石的なものや,かなり急な上部斜面に不規則にへばりついているものさえも認められた。

写真7 ラサ川周辺の砂丘

 ツァンポー河の大橋(3600m)付近の現河床礫は,直径10cm以下の円礫で,岩質は深成岩と火山岩がほぼ半々である。これらの河床礫の特徴はヤンバチャインの河床礫と似ている。現河床堆積物を覆って,ところどころに砂丘が分布するのはゴンカ飛行場付近と共通している。ツァンポー河より登りはじめ,比高約30mのテラス上のジャンタン村(3600m)の穂のではじめた麦や,なの花そしてじゃがいもの畑をすぎ,三畳紀の堆積岩中に東西性の破砕帯が発達するカンパ峠(4794m)に着き,峠からは急な大曲りの道を下り,複雑に入りくんだ形をしたヤムドー湖(4441m)へ達した(写真8)。ツァンポー河からの距離がわずかに約10㎞で,800mをこえる比高がある。水力発電に有望であろう。この湖のある流域は,かつてツァンポー河に流れていたが,約300年程前に白地付近におこった地滑りによってせき止められてできたとのことである。衛星写真をみると,ヤムドー湖周辺には氷河地形によくみられる多くの湖が分布しているのが認められる(図2)。湖岸のゆるい山地には古い氷食地形がのこっているので,最も深いところでも59mというこの湖の複雑な形は,かつての氷河のU字谷地形に由来すると考えられる。湖岸に散在するビャクシンの上限は,乾燥しているために,より湿潤な東ネパールよりも約500m程低い。

写真8 複雑に入りくんだ形をしたヤムドー湖

 湖岸沿いに南下し,浪〓(上のシタに下;峠のツクリ)子から西進し,ノイチンカンサン峰(7191m)周辺の新しい氷食谷沿いに,カリラ(峠,5045m)に達した(写真9)。峠の北にはネパール・ヒマラヤでもよく見られるような懸垂氷河がかかり,雪崩によるデブリが見られたように,雪崩でしばしば道路が閉鎖されるとのことである。この峠周辺には,帯状の構造土(Sorted stripes)や塊状の構造土(Earth hummocks)が発達する。カリラから西進すると,ギャンツェやシガツェなどの穀倉地帯のひろがるナンチュ(川)上流域のゆるやかな高原状の地形になる。河岸には三段の侵食段丘が発達し,現河床からの比高はそれぞれ1075mほどだ。午後4時から約30分間,チベット高原特有の西からの強風をともなう豪雨が続いた。この西風が,ラサ川周辺で見た砂丘の分布に影響しているのであろう。