2013年3月31日日曜日

ヒマラヤの自然史


回想記


ヒマラヤの自然史


1)    はじめに

  “ヒマ・アラーヤ・バーワン”。これは私たちがカトマンズで借りていたヒマラヤ地域の研究者のための家の名であった。サンスクリット語ではヒマとは雪、アラーヤとは住居のことで、ヒマラヤとはこの二語が結合した言葉とのことである。バーワンは館を示すので、ヒマ・アラーヤ・バーワンは“ヒマラヤの館”を意味した。1975年に開設されたこの館にはヒマラヤの地質、氷河、生物、文化人類学などのいろいろの分野の研究者が滞在し、ネパール人研究者も交え、私たちは多様なヒマラヤについて議論を重ねた。そこでの私のヒマラヤを見る立場は、次のようであった。

                               ネパール東部上空から大ヒマラヤ山脈を西に望む。

2)    新生代後期の地球

  地球の海と陸の歴史を見ると中生代(23000万年~7000万年前)にほぼ赤道沿いに地球をとり巻くように分布していたテーチス海(古地中海)が新生代後期(約1500万年前)に始まったヒマラヤ地域などの上昇によって陸化した。アンモナイトなどのすんでいた温かいテーチス海は消滅し、引き続く上昇によって地球上の陸域の増大と海域の減少傾向が続いた。
  すでに新生代後期には南極大陸に氷床が発達し、南米大陸と南極半島の間のドレイク海峡の成立とともに南極のまわりをめぐる冷たい海流が形成された。この南極氷床は約400万年前に最大となり、その後も現在まで消えることなく存続したといわれている(文献1)。地球の誕生以来約45億年の歴史を見ると、何回も大規模に氷河が発達したことが報告されている(文献2)。少なくとも新生代後期から地球は新しい大規模な氷河の発達する時代になった。
  新生代の第三紀(7000万年~約200万年前)まで続いていたといわれるヨーロッパの温暖期が寒冷期に変化した時をもって新生代の第四紀が始まる、と決められている。
  一般には第四紀は氷河現象と関連づけられて氷河時代とか、また人類の誕生と結びつけられて人類の時代とも呼ばれている。ところが、第三紀にたとえヨーロッパが温かかったとしてもすでに南極氷床が形成されていたのであるから、グローバルな地球の歴史からいえば第四紀の始まりよりも前にすでに地球は新しい氷河の時代になっていた、といえる。
  また人類の誕生に関する研究の発展はめざましく、東アフリカでのこれまでの調査とともに最近ではヒマラヤ地域周辺の新生代後期(800万~1000万年前)の地層からもサルとヒトを結ぶ化石が発見されており、人類の歴史が第四紀以前にさかのぼる、と報告されている(文献3)。
  これらのことは、(そもそも第四紀の独立性を認めない考え方もあるのだが)第四紀を氷河の時代と定義するにしても、また人類の時代とするにしても、いずれにしても現在の約200万年の第四紀はもっと時間スケールが長くなってもよいことを示している。
  ヒマラヤ地域の上昇と世界最高の山脈群の形成は地球が新しい氷河の時代を迎えた新生代後期に始まる。新世代後期から現在へと至る自然の大変化は、現在の地球の姿にはかりしれない影響を与えており、地球の歴史の中でも重要な出来事である、といえるだろう。ヒマラヤの自然史(注1)もその一環としてとらえることができる。
  ヒマラヤ地域は上昇し続け、そしてヒマラヤ山脈が出現した。ヒマラヤ山脈やチベット高原などの内陸アジアの上昇した地形は対流圏の上部まで突き出した障害物となる。この上昇した山塊上に形成されるチベット高気圧はアジアのモンスーン気候や汎地球的な大気大循環に大きな影響を与える。
  ヒマラヤ山脈は現在も上昇している。絶えず進行する地形変化と気候条件との相互作用が、人間をも含めた生物の環境の基本を作る。さらに地形変化が進むとそこにはローカルな気候条件が作り出され、土壌を作りかえ、生物の分布などにも影響を与える。そして、これらの相互作用が積み重なりその地域の自然に特有の歴史を作る。

            チョモランマ(サガルマータ、エベレスト)山群。火の玉状の白い花崗岩の貫入岩体がチョモランマをもちあげる。

3)    自然史とその地域性

  ヒマラヤ山脈をはじめ内陸アジアの高山地域では広域的に見ても、また局所的に見ても、場所ごとに地形条件や気候条件が異なっている。このことは植生や人間をも含めた生物などの分布に影響を与える。ヒマラヤ山脈は陸続きの土地ではあるが、深い谷や急峻な山地の南面や北面といった地形的条件や局所的な気候条件に応じて、そこに見られる生物の分布はあたかも島状分布をしているようにみえる。
  自然現象の分布構造とその時間変化の相互の関係を発見するのが、フィールド調査の基本となる、といえるだろう。このことはたとえてみれば、ある地点での雪質が新雪 シマリ雪 ザラメ雪へと変わり、やがて解け去るという比較的短い間の時間変化が、同時に広域的な雪質分布において高地から低地へと向かい、やはり新雪 シマリ雪 ザラメ雪に移り変わっていく地域変化に見ることができるという現象にあらわれてくる。ある地点でのシマリ雪がザラメ雪に変化していくように、私たちは季節が進むにつれて高地のシマリ雪地域がザラメ雪地域に移り変わってゆくことを知るのである。ところが日本海南部の沿岸地域のように、湿雪が降り、短時間にザラメ雪となり融けさる暖地積雪の場合や、南極やグリーンランドの内陸地域のように、新雪がシマリ雪となり(部分的な霜ザラメ化を受けながら)圧密によって氷化するという寒地積雪の場合もある。
  これらのことは、雪質の変化を引き起こす気候条件に、さらに地形条件(地理的条件も含まれる)が加わり、気候条件が日本海南部の沿岸のように暖域としての変化を示す場合と南極やグリーンランドの内陸のように寒域としての変化を示す場合のように対照的な現象が、それぞれの地域ごとに見られることを示している。雪質が変化するという比較的に短い間の気候条件の中にも、その過程にたずさわる地形条件を見てとれるのである。寒地積雪や暖地積雪といった地域性も、長い時間にわたる歴史を見ると常に一定不変のことではなく、地形条件と気候条件とともに絶えず変化してきたものと考えられる。
  このことはある地点での自然現象の歴史の中に地域性を見ることができることを示すとともに、自然現象の地域性の中に歴史性をも見ることができることを示している。そしてその自然現象の地域性と歴史性に見られる同質性と異質性によって自然現象を群として認識することができる、と考えられる。
  渡辺と上田は「氷河群とは単一氷体としての氷河に対置される概念である。もし同一の氷河形成にとって必要な地形-気候条件をもつ場があるとすれば、そこで形成される氷河は共通の氷河特性をもつ一群の氷河であるはずである」と述べている(文献4)。そこで渡辺らは、ネパール・ヒマラヤに見られる氷河をヒマラヤ山脈の北側のチベット型氷河群とヒマラヤ山脈の南側のネパール型氷河群とに分類した(文献5)。
  ヒマラヤは地球上で最も大きく上昇してきた山岳地帯であり、過去から現在へといたるヒマラヤの自然の変化は大きい。そして現在でも上昇が続き、その自然を変化させている。
  ヒマラヤの自然史を編むための基本として、地形条件と気候条件の地域性とともにそれらの歴史性をも明らかにしていくことが必要であるが、ここでは単なる斉一説 The present is the key to the past”の考え方だけでなく“The pa-st is the key to the present and the future”の見方も必要となろう。現在の気候条件から出発して、現在とは大きく異なっていた過去の地形条件に対応した気候条件を、幾つかの仮定をおきながら求めていく方法と、逆に過去の自然現象を示している遺跡の事実から、かつての自然史を組み立ててゆき、そして過去から現在へと至る自然現象の歴史性によってヒマラヤの自然史の将来を見通す視点とを総合して考えていく必要がある。

4)    これまでのヒマラヤの概念

  われわれが心にいだいているヒマラヤの概念、あるいはヒマラヤ観とはいったい何であろうか。
  ネパールの丘陵地に住む人たちはヒマラヤの山々を一般にヒマールと呼んでいる。インドのウッタル・プラデェシュ州の人たちはヒマチャールと呼ぶし、また地域によってはヒマレーともいうとのことである。ヒマラヤの山々を指してふもとの人たちがカイラッシュと呼んでいるのが、ネパールなどで聞かれる。これはヒマラヤの山々とヒンドゥー教のシヴァなどの神々とを同一視していることのあらわれであろう。いわゆる“神々の座”といわれるゆえんである。ヒマラヤの神々の姿に接すると露が朝日とともに消えてゆくがごとく、人々の罪もまた消えると語られている。 
 ヒマラヤ、すなわち“雪の住居”はもともと南方のインド側からの見方であり、ガンジス河水源地帯の山岳地帯を示している。そうするとインドのウッタル・プラデェシュ州やネパールとシッキムということになり、私たちが心にいだいているヒマラヤの地域範囲よりも小さくなってしまう。なぜならば西方ではカシミールなどのパンジャブ地域に行っても、また東方ではブータンやアッサムの山岳地域に行っても、さらに北方ではいわゆるヒマラヤの神々の座の北面に行っても、私たちはそこに“ヒマラヤ的”な“雪の住居”を感じるであろうからである。“ヒマラヤ的”とはどんなことを指し、そしてヒマラヤ地域の範囲をどのあたりに考えたらよいであろうか。



山登りからのヒマラヤ

  インド側量局の長官を勤めたサー・シドニー・バッラードは、ヒマラヤを東西にパンジャブ、クマウン、ネパール、アッサムの四地域に区分した(文献6)。彼の示したヒマラヤ地域の範囲と地域区分が、その後の研究者の基本となる。  マルセル・クルツは北極点と南極点に加えて、地球上の“第三の極地”とういう概念を示し、彼はこれを世界最高峰のチョモランマ(これがもともとの現地名であり、約100年前にエベレスト、そして約25年前からネパールでサガルマータと呼ばれるようになった)に等しいものとして用いた。ディーレンフルトはこれを拡張し、いわゆるヒマラヤ山脈とカラコルム山脈の八千メートル峰のすべてに対して用いている(文献7)。
  メイスンもまたヒマラヤとして従来のカラコルム山脈とヒマラヤ山脈とを扱い、彼の地域区分は登山家によく利用されている(文献8)。それによると西からカラコルム、パンジャブ、クマウン(現在ではガルワルと呼ばれる場合が多い)、ネパール(カルナリ、ガンダキ、コシ地区に細区分されている)、シッキム、アッサムと区分されている(図1)。彼の地域区分は河川系に対応しており、また国境線とも一致している場合があるので、地理的、政治的区分といえよう。だから、登山のときなどのアプローチを考えると、この地域区分は便利なものである。しかしシッキム・ヒマラヤは地域の占める面積が小さく、他の地域区分と対等に比較されうるものかは問題があるだろう。メイスンは「巡礼者はヒマチャールの最も神聖な祭壇にむかって路をしるしたのだった。そこではガンジス川が蓮の花のか細い糸のようにヴイシュヌの足から流れおちている」と述べている(文献8)。
  深田はヒマラヤの範囲をさらに広くとり、ヒンズー・クシュ、パミール、コンロン、シナ・トルキスタン、チベットや北部ビルマなどの内陸アジアの高峰のすべてを網羅している。そして、彼は「ヒマラヤは東に近づくほど樹木が繁茂し、山容もアルプス的な尖峰が少なくなり、ドッシリと大きい東洋風になる。ブータン、アッサムには日本人好みの山が多い」と述べてる(文献9)。
  これらのヒマラヤ地域の範囲の設定とその地域区分は、どちらかというと山登りからのヒマラヤ観に基づいているといえよう。サー・シドニー・バッラードからディーレンフルト、メイスン、そして深田へとヒマラヤの地理的概念が拡大されてきている。
 文字どおりの“雪の住居”は地球上いたるところに見られるのだから、ヒマラヤとは単なる“雪の住居”として定義できるものではない。やはりヒマラヤとは“ヒマラヤ的”な“雪の住居”でなければならない。この“ヒマラヤ的”という言葉の第一義的な意味は、山登りからのヒマラヤ観に見られるように、まずもって地球上での最高峰を含む山脈である、という点に求められる。
  地球上でも7000メートルを超える山々は内陸アジアにしかない(アンデスのアコンカグア峰が7000メートルを超えるとする場合もあるが、一般には6000メートル台とされている)、また、8000メートルを超える山々はヒマラヤ山脈とカラコルム山脈しかない。しかし、7000メートルや8000メートルを超える山々ということには、はたして自然科学の分野から見て本質的な意味があるのだろうか。次に自然科学分野からのヒマラヤ観を見てみよう。



自然科学からのヒマラヤ

 地質学者のガンサーは古生代(五・七億年~二億3000万年前)より前の時代の基盤岩の上に古生代と中生代(二億3000万年~7000万年)の褶曲山脈が世界でも有数の高峰となっている地域として、東はビルマのアラカン・ヨマ山脈から西はパキスタンとイランのスライマン山脈、バルチスタン山脈をヒマラヤの範囲として扱っている(文献10)。ガンサーはネパール・ヒマラヤ以西ではメイスンと同様の区分をしているが、メイスンのシッキム・ヒマラヤとアッサム・ヒマラヤの区分をシッキム・ブータン・ヒマラヤとネファ(North Eastern Frontier Agen-Cyの略、現在ではアルナチャル州と呼ばれる)・ヒマラヤとに区分している。しかし、このガンサーの区分もメイスンと同様に多分に地理的、政治的である、といえるだろう。
  地理学者のデュピュイは広義のヒマラヤの範囲として、その東限をガンサーと同様にビルマの山々としているが、その西限はイランの周縁の山々においている(文献11)。
  こうしてみるとヒマラヤ地域の南北方向の限界ははっきりとはしないが、少なくとも東西方向のヒマラヤ地域の範囲については地質学や地理学の分野から見るとビルマからイラン周縁にかけての広大な高山地帯、およびその周辺ということになる。
  ヒマラヤ地域の南北方向の区分に関してガンサーなどの地質学者は南からサブ・ヒマラヤ(シワリーク丘陵地帯)、低(ロアー)、ヒマラヤ(マハバラート山脈とミッドランド地帯)、高(ハイヤー)・ヒマラヤ(ヒマラヤ山脈)、チベッタン・ヒマラヤ(テーチス・ヒマラヤ)のように分けている。今西は、生物地理学と生態地理学の立場から亜熱帯的なインド的生物地理区と亜熱帯的な旧北区的生物地理区の中間に暖帯的なヒマラヤ的生物地理区があり、それらの生物地理区は互いに推移関係にあると述べている(文献12)。このようにヒマラヤ地域の自然現象の地域特性を考えるときには、平面的な東西方向と南北方向の差異とともに垂直方向の地形条件と気候条件とが作り出す地域特性も重要である。トロールは植生分布からヒマラヤ地域を次の七地域に区分している。①インダス・ヒマラヤ(カラコルム山脈、ヒンズー・クシュ山脈、スリナガールなどを含む)、②パンジャブ・ヒマラヤ(サトレジ河からインダス河の間)、③ガルワル・ヒマラヤ(サトレジ河からカリ・ガンダキ〈川〉付近までの間、部分的にはヒマラヤ山脈の北側のインナー・ヒマラヤまでを含む地域)、④シッキムヒマラヤ(中央ネパールからブータンまでの間、部分的にヒマラヤ山脈の北側のインナー・ヒマラヤをも含む地域)、⑤アッサム・ヒマラヤ(ブータンからブラマプトラ河までの間)、⑥ツァンポー・ヒマラヤ(ツァンポー河下流とブラマプトラ河の北東の地域)、⑦チベット・ヒマラヤ(ツァンポー河、サトレジ河とインダス河の上流地域)(注2)。
  デュピュイは、主として気候と植生の分布から、①西部ヒマラヤ(サトレジ川より西)、②中央ヒマラヤ(サトレジ川とネパールのアルン川の間)、③東部ヒマラヤ(アルン川より東)、④山岳高所帯(樹林限界よりも高所)、⑤トランス・ヒマラヤ地帯(ヒマラヤ山脈より北方)のようにヒマラヤ地域を区分し、ヒマラヤは地球上での最高の山々を包合するものとして、またずっと長い間、その活気ある魅惑的な世界を知らずにいたことへの反省の対象として、「ヒマラヤは一つのシンボルのように存在するのである」と述べている(文献11)。
  これまで述べてきたヒマラヤの定義はどちらかというとヒマラヤ山脈を南からながめた立場である。しかも、ヒマラヤ地域の東西方向の範囲についての議論は多いが、その南北方向の定義についてはあまり議論されていない。これに対してヒマラヤ山脈を北からながめるソ連や中国の研究者、あるいはスウェン・ヘディンなどのチベット探検家たちはどのようなヒマラヤ観をもっているか興味あるところである。ヘディンはチベットのツァンポー河とインダス河に沿う山脈をトランス・ヒマラヤ(カイラス山脈)と呼んだのであるが、ヒマラヤ山脈の北側のチベット内陸の山地に対して、なぜヒマラヤの名のもとに命名したのであろうか。ヒマラヤ山脈の北側に住むチベット人たちは「朝夕の陽光を食んで紅に染まるヒマラヤの峰々を蓮の花の花弁の一つ一つになぞらえる」とのことである(文献13)。  文化人類学の立場から、石井は「ヒマラヤ地域は西から東に傾いた文明化の度合いの差異がみられ、様々の国家形成の歴史を背負う人々が主に西に、逆に文明段階に達しないで近代国家に組み込まれてしまった諸民族が東の部分に分布する。前者の代表はカシミール盆地の住民カシミーリーおよびパハーリー語系の人々パハーリーであり、後者の典型はアルナチャル・プラデシュ(アッサム地方)の諸民族である。そしてその中間に文明の受容の度合いも中間的なネパール・ヒマラヤを居所とする諸民族ヒマラヤンが見られるのである」と述べている(注3)。  私たちの持つヒマラヤ観の根底にはまず世界最高の山々が広がる地域から生まれる概念があるが、そこに繰り広げられる人間をも含む生物界と自然界とが作り出す環境もまた私たちのヒマラヤ観の基盤となっているようだ。

          グルラマンダータ(ナムナニ)Ⅱ峰越しにマナサロワール湖(右)とラカス湖(左)、そして中央遥かにカイラス峰を望む。

5)    ヒマラヤの上昇

 1934年、ネパールを中心としたヒマラヤ地域は大きな地震にみまわれた。この時、カトマンズ市内のレンガ造りの家のほとんどが破壊されたといわれる。この地震はヒマラヤ地域を南北に切っているパトナ断層の動きがその原因とされている。また同様な大規模な地震が1950年にアッサムに起こり、この時チョモランマ峰は65メートルも高くなった、とディーレンフルトは述べている(文献7)。そうするとこの世界最高峰の高度は従来の約8840メートルにこの時の上昇量が加わり、8900メートルを超えることになる。
  ところが195254年のインド測量局の再測結果からチョモランマ峰の高度は8848メートルであることが確かめられた。そして1975年の中国登山隊はチョモランマ峰の頂上に基点を設け、精密な測量をした結果、世界最高峰の高度は8848.13メートルであると報告している(文献14、注4)。
  こうしてみると、チョモランマ峰の高度が約100年ほど前に測量された時と比べると、現在の高度はディーレンフルトが述べているような大きな変化は見られない。  最近中国は「珠穆朗瑪峰地区図」と題するチョモランマ峰周辺の五万分の一の地図を完成した(文献15)。また同様にこの地域のよい地図としてはシュナイダーが1966年に作った五万分の一の地図“KHUMBU HIMAL (NEPAL)”がある(文献16)。両者の地図を比較するとチョモランマをはじめチョー・オユー、ローツェなどの8000メートルの高度はともに一致しているが、中国の地図ではギャチュンカンが53メートル、プモリが25メートルも高くなっているなどの違いを示している。これらの違いは両者の測量方法に問題があると思われるが、1960年代から約10年間にこんなにも山が高くなったとしたら興味あることになるだろう。

6)    上昇速度

  水平に堆積したと考えられる第四紀の湖成層が約20度も傾斜した構造を示したり、同じく氷河が作ったモレーンが南北性の断層によって切られていることがネパールで観察されている(文献17)。これらのことは、比較的最近の時代になってもヒマラヤの地域はその動きを休めてはいないことを示している。
  ヒマラヤ地域を東西に走っている衝上断層帯は、ヒマラヤ山脈が南側のインド亜大陸に対してのし上がる運動を示す構造である。この運動によって、もともと低かった下流側の河岸段丘面やU字谷が上流側よりも高く変位していることが報告されている(文献1840)。
  これらのことは東西方向や南北方向などに発達する断層の動きがヒマラヤ山脈の上昇と関係することを示している。それではヒマラヤ地域の上昇速度はどのくらいになるのであろうか。
  ボーデは東ネパールのアルン川の下方侵食量が一万五000メートルになると報告している(文献19)。ヒマラヤ山脈周辺の海成層(テーチス海堆積物)には新生代後期(約1500万年前)よりも新しい地層が見られないことから、ヒマラヤ山脈は約1500万年前から陸化し始めたと考えられている(注5)。すると、単純に上記の侵食量(一万五000メートル)を陸化し始めてからの時間(1500万年)で割るとヒマラヤ山脈の平均上昇速度は年に一ミリとなる。この値はあくまで平均的な上昇速度の目安を示すにすぎないだろう。なぜなら時代によって上昇速度は変化したであろうし、また地域によって上昇速度は異なっていた、と考えられるからである。
  地域的な上昇運動の違いについて、在田は西ネパールより東ネパールがより大きく上昇していることを述べている(文献20)。またパンジャブ・ヒマラヤのナンガ・パルバード峰周辺の方がネパール・ヒマラヤ周辺よりも造山帯の深部構造が表面まで出ていることから、ヒマラヤ地域を広く見ると東部ヒマラヤよりも西部ヒマラヤの方が上昇量が大きい、とする見方もある。
  数万年前から現在までの上昇量が日本アルプスや六甲山地で数百メートルであるのに対して、ヒマラヤ山脈では一ケタ多い15001600メートルと見積もられている(文献21)。このことはヒマラヤ山脈の比較的最近の平均上昇速度が年間数センチ以上という大きな上昇速度の見積もりとなってくる。地球上の現在の大山脈群は一般に新生代後期から上昇し始めたのにかかわらず、ヒマラヤ山脈の平均高度が他の山脈のそれよりもはるかに高いことは、侵食量を一定とすると、まずもってヒマラヤ地域の上昇量が他地域に比べて大きいことを示している、といってよいだろう。
  ある場所の高度変化はその地域の上昇量と侵食量とによっている。ヒマラヤ山脈の侵食量が他の山脈に比べて大きいとすると、世界最高峰を含むヒマラヤ山脈の上昇速度もまた他地域に比べてさらに大きいものとなるであろう。ヒマラヤ山脈の侵食量の大きいことは、モンスーンの降水量が多いことや周氷河現象が著しいことから十分に考えられるだろう。樋口は「エベレストの高さ約9千メートル、圏界面の高さ約一万メートル。ざっと似た値である。・・・・造山運動によってじわじわと盛り上がってきたヒマラヤの高峰はこの圏界面のはげしい風化作用で削られる。だからエベレストは圏界面よりも低く8848メートルなのではないか。もし圏界面がもっと高かったらそれに応じてエベレストも今よりずっと高いかもしれない」と述べている(文献22)。これらの垂直方向の動きに対して、ヒマラヤ地域とインド亜大陸との南北方向の水平の動きはどうであろうか。 

7)    水平方向の変位

 ニュー・デリー付近のデリー・ソネパット断層の動きは、四年間に30センチと報告されている(文献23)。すると、この断層の南北方向の変位速度は年に7~8センチとなる。
  もっと長い時代にわたる水平の動きについては、古地磁気の観測の結果からインド亜大陸が中生代の白亜紀から7000万年の間に5000キロメートルも北に移動したとされており(文献24)、そうすると水平方向の平均移動速度は年間約7センチとなる。この古地磁気の観測はアジア大陸側の資料が乏しいため、アジア大陸の移動の歴史がよくわかっていない。いずれにしても、インド亜大陸5000キロメートルものかつての海洋底の地殻はどうなったのか、という問題を含んでいる。  またヒマラヤ地域を東西に走っている衝上断層を境にヒマラヤ山脈はインド亜大陸側に相対的に100キロメートルものし上がっている、とも報告されている(文献10)。この衝上断層の動きもまた新生代後期から始まったとすると、その水平方向の平均変位速度は年に約1センチということになる。
  現在のところヒマラヤ地域の上昇の歴史とその地域性について量的に示すことはできないが、少なくともヒマラヤ地域が垂直方向にも水平方向にも他の地域に比べてより大きく変位してきたことを示している。

8)    ヒマラヤの地理的概念

   ヒマラヤの高地に住む人たちは畑作の上限で生活しており、限界条件での彼らの農業と牧畜とは厳しい自然条件への適応と彼らの創意工夫によっている。クンブ地域のシェルパの人たちのじゃがいも栽培で感心させられるのは、三種類のじゃがいもを低地から高地へと植え分けていることである。三種類のじゃがいもとも全部が豊作となることはめったにないが、全部がだめになるということもないとのことだ。天候の変化が激しい場所ならではの栽培法といえるだろう。ここでは、人間は自然に対立するものとして存在することはできない。人間は自然に働きかけているとともに、人間も他の生物と同様に自然を巧みに利用し、その一部を構成している、といえよう。ここで述べるヒマラヤの自然史の中には人間をも含む生物の歴史も重要な位置を占める。私は“ヒマラヤ的”なるものの意味として、自然と調和した人間生活をも加えたいと思う。だから“ヒマラヤ的”なるもののイメージの中に夏の放牧小屋で生活するチベット人やヤクなどの家畜動物、ラマ教の祭典、そして日本の追分節に似た彼らの民謡などが含まれてくるのだろう。私たちが心にいだくヒマラヤ観の奥底には、チベット文明を中心とする周辺地域の諸文明への知的好奇心もあるのではなかろうか。

9) 内陸アジア変動帯

  新生代後期に始まる汎地球的な地殻変動の結果を生じた地形変化と氷河時代に代表される気候変化は現在の地球の姿に大きな影響を与えている。地形変化と気候変化がすべての生物にとっての環境を形成し、生物と環境との相互作用が自然史を作る。
  自然史から見たヒマラヤ地域および内陸アジアの高山地域を、新生代後期から現在までの地形変化と気候変化とが地球上で最も大きかった地域とし、この諸地域を内陸アジア変動帯と呼んでおきたい。
  地形変化と気候変化とを引き起こす基本的な条件は、地質学的な営力である。長い時代にわたって働く地質学的営力が地形を変化させ、そして汎地球的規模の気候変動とからみ合いつつ、そこに新たなる地域性をもった気候条件が作り出され、そして内陸アジア変動帯特有の自然史を作り出していく。地形変化と気候変化と生物との相互作用を時間軸と空間軸に配置し、そこに流れる歴史を編んでいくことが、ヒマラヤの自然史の課題である。
  この内陸アジア変動帯には、次に記すような大規模な山脈群が含まれる(図1)。  南部地域-この地域には従来のヒマラヤ山脈やカラコルム山脈があり、この地域の南面の低地では東部が熱帯多雨林、西部がステップとなっている。
  中央部地域-この地域には湖の分布するチベット高原、コンロン山脈などがあり、乾燥した高原となっている。
  北部地域-この地域には天山山脈などがあり、タリム盆地、ツァイダム盆地などの砂漠がある。
  西部地域-この地域にはヒンズー・クシュ山脈、スライマン山脈などとともに中近東のステップ地域が広がる。
  東部地域-この地域にはチーリェン山脈をはじめ横河、揚子江、メコン川やサルウィン川の源流域に当たる山脈群などがある。

10) ヒマラヤの範囲

 ヒマラヤ地域の東西方向の地理的概念に関して、深田などの山登りに立った考え方は、またガンサー、デュピュイの自然科学の分野からの見方と同様にヒマラヤ地域の定義を広げすぎているようだ。ガンジス河の水源域をヒマラヤとしたバッラードが定義したもともとの範囲に、インダス河とツァンポー河によって境されるヒマラヤ山脈の北側をも含んだ地域がヒマラヤ地域として適当であろうと思われる。トランス・ヒマラヤとカラコルム山脈とは、ともにツァンポー河とインダス河の水源域となっており、地形的に連続性をもっている。
  ヒマラヤ地域は内陸アジア変動帯の南部地域に属しており、この地域の山脈群の一つであるヒマラヤ山脈周辺部を含んでいる。ヒマラヤ地域は内陸アジア変動帯の中でも地形変化が最も大きかった地域と考えられ、その地理的な広がりは、北はツァンポー河とインダス河の源流域で内陸アジア変動帯中央部地域に接し、南はシワリーク丘陵地でガンジス平原とインダス平原とに接し、その南北の幅は約300キロメートルである。ヒマラヤ地域の南から北へシワリーク丘陵地、マハバラート山脈、ヒマラヤ山脈、そしてヒマラヤを横断する河川の主分水嶺(トランス・ヒマラヤ)が東西に帯状に配列している。
  ヒマラヤ地域の西部はサー・シドニー・バッラードのパンジャブ・ヒマラヤでカラコルム山脈とヒンズー・クシュ山脈に接し、その東部はアッサム・ヒマラヤでサルウィン川、メコン川、揚子江上流域の各山脈群に接し、その東西の広がりは約2500キロメートルである。ネパール・ヒマラヤ周辺は、中部ヒマラヤとしてとらえることができるだろう。
  内陸アジア変動帯は、各地域の山脈群のみならずそれらの周辺の広大な地域をも含んでいる。大規模な地形変化と気候変化が生じてきたと考えられる内陸アジア変動帯の自然史を明らかにすることは、アジアの自然を考える上でも、また新生代後期の地球の歴史にとっても重要なことである、といえよう。
  ここで対象とする地域は主として内陸アジア変動帯南部地域のヒマラヤ山脈であり、中でもネパール・ヒマラヤが中心となる。なぜなら、私はいまのところネパール・ヒマラヤを除き、ファースト・ハンドのデータを持っていない。そしてできうる限りファースト・ハンドのデータからヒマラヤ地域の自然史を編みたいと考えるからである。ただし、ヒマラヤ地域の自然史はネパール・ヒマラヤだけでは語れるものではないので、ネパール・ヒマラヤのデータからヒマラヤの自然史についての作業仮説を作り、広大なヒマラヤの自然史を考えてゆきたい。
  ヒマラヤの自然史は、基本的には内陸アジア変動帯全域の新生代後期の歴史の一環としてとらえることができる。

11) ヒマラヤの地質

  ヒマラヤ地域で最も古い岩石は古生代以前の先カンブリア紀(五・七億年以前)の変成岩や花こう岩である。ヒマラヤ地域の地質図を見ると、これらの岩石がこの地域の基盤岩となっており、その分布はヒマラヤ山脈、カラコルム山脈、コンロン山脈ではほぼ東西方向である(図2)。そしてチベット高原の東部とパミールではその分布が南方に大きく曲がった対曲構造をしている(注6)。ヒマラヤ山脈の基部には、強い変成作用によってできたと考えられる岩石が広くヒマラヤ地域に分布している。この変成岩類は、ヒマラヤ片麻岩と呼ばれている。一般に地殻の下部ほど温度と圧力が高くなり、岩石はより強い変成作用を受ける。ところが、このヒマラヤ片麻岩ではより上部に強い変成作用によってできたケイセン石やランショウ石などの鉱物が含まれており、古くからヒマラヤ山脈の地質学の問題とされている。
  これらの基盤岩の上を先カンブリア紀末期から古生代の弱い変成作用を受けた堆積岩(変堆積岩)が覆っている。この変堆積岩は主としてヒマラヤ山脈南面などに分布するが、これまでのところストロマトライトという一種の石灰藻のほかは化石が見つかっていない。


12) テーチス海堆積物

  ヒマラヤ山脈の主稜地帯からチベット高原にかけてはほとんど変成作用を受けない堆積岩が広く分布している。これがヒマラヤ山脈の多くの高峰の頂上にも見られるサンゴや海ユリなどの化石を豊富に含む古生代、中生代、新生代前期の堆積岩である。この堆積岩は中国南部、内陸アジア、中近東、地中海など諸地域に広がっていたテーチス海に堆積したもので、テーチス海堆積物と呼ばれている。新生代前期まで存在したテーチス海は貨幣石石灰岩が堆積したあと陸化し、さらに上昇を続け、チベット高原とその周辺部のヒマラヤ山脈などの高原地域となった。この地域が内陸アジア変動帯である。
  上昇する山脈は激しい侵食にさらされる。ヒンズー・クシュ-カラコルム-ヒマラヤ-アラカン・ヨマ山脈群へと続く4000キロメートル以上にもわたる台地から侵食され、それらの地域の周辺部に堆積した物質が第三紀の砂岩や礫岩(モラッセ層)となる。第三紀層の分布範囲を見るとパキスタンやインド東部に広く、ヒマラヤ山脈の南面ではその分布の幅が狭い。このことはヒマラヤ地域の上昇のプロセスと関連して興味あるところである。なぜならばヒマラヤ地域に見られる衝上運動によってこの第三紀層がヒマラヤ山脈の南面では覆われているため、その分布の幅が、見かけのうえで狭くなっているとも考えられるからである。また東ネパールのクンブ地域で見られるように、第三紀の花こう岩が、ヒマラヤ片麻岩とテーチス海堆積物の間を貫入している。この花こう岩の一部が、マカルーやマナスルなどの八千メートル峰を構成している。
  第四紀層の分布はアラビア海やベンガル湾の海へ続くインダス平原とガンジス平原のほかに内陸アジアの砂漠と盆地に広く分布している。湖のたくさん見られるチベット高原上の第四紀層がヒマラヤ山脈などの氷河作用といかなる関係をもっているかはチベット高原とヒマラヤ山脈などの上昇とも結びつくことであり、今後の問題として残されている。なお、図2の地質図に見られるように、超塩基性岩類がほぼツァンポー河とインダス河などに沿って分布している。この超塩基性岩類は大規模な断層帯に沿う火成活動によって形成されたものと考えられ(文献10)、そしてこの超塩基性岩帯はヒマラヤ地域の北限を境する第一級の構造として重要である。この構造帯はヒマラヤ山脈とカラコルム山脈とを区分している。

13) 地質構造

  ヒマラヤ地域の上昇のプロセスとその原因を考える上で、まず地質構造を明らかにすることが必要である。なぜならばヒマラヤ地域の上昇を引き起こした強大な圧力と温度の影響は長い時代にわたる上昇のプロセスを通じて、ヒマラヤ地域の岩石、鉱物、そして大きくはその地質構造にあらわれている、と考えられるからである。
  リチャード・ストラッチィはガルワル・ヒマラヤからチベット中央部へと広く旅行し、地質調査とともに、ガルワル・ヒマラヤのピンダール氷河の流動測定や氷河構造を調査したり(文献2627)、また植物調査なども行ったナチュラリストであった。彼はヒマラヤ地域の地質構造についての考え方を1851年に発表し(文献25、図3-A)、ヒマラヤ地域の基本的な地質構造が北に傾斜しており、ヒマラヤの上昇は東西方向の地層の走行方向に沿う運動と花こう岩の活動に伴う下からの運動とによって起こされた、と述べている(注7)。ストラッチィの後に初期のヒマラヤのナチュラリストの伝統はヘルマンとアドルフ・シュラーギントワイト兄弟などに引き継がれてゆくのをヒマラヤ地域の探検史上に見ることができる。  ロツィーは1907年にシッキムとネパールの境のカンチェンジュンガ峰付近の調査によって、ヒマラヤ地域の地質構造が南へ向かって約150キロも衝上している巨大な逆転褶曲とナッペ構造であることを示した(文献28)。ナッペ構造とは、横臥褶曲や衝上断層によってある岩体が水平に近い基盤上を大規模に移動した構造である。彼の考え方は後のヨーロッパ人の研究者たちに大きな影響を与え、ヒマラヤ地域の地質構造がヨーロッパ・アルプスの地質構造と類似したナッペ構造などからなっている、という解釈を定着させた。そして、アーガンドはアルプス山脈の地質構造がナッペ構造であることを提唱した一人であり、インド亜大陸がアジア大陸の下にもぐり込んでゆく運動によってヒマラヤ地域が南へ張り出し、そしてヒマラヤ山脈が形成された、とする仮説を示した(文献32)。
  ハーゲンは10年以上もネパールに住みつき、美しい写真のある本『ネパール』(文献29)によってネパール・ヒマラヤを紹介した人である。彼はヒマラヤ地域の地質構造が幾つものナッペ構造でできており、これらのナッペの運動によってヒマラヤ山脈が形成された、と考えた(文献30、図3-C)。そして彼は、数千キロも遠く離れたヒマラヤ山脈とアルプス山脈との地質構造がほとんど違っていない、と述べている。
  橋本らは1950年代から長期にわたる地質調査を行い(文献31)、在田が示しているように(図3-B)、ヒマラヤ地域の地質構造はブロック構造が基本であることを示した。ストラッチィを除いてヨーロッパの地質学者は、アルプス山脈に見られるような主として水平方向の運動によるナッペ構造がヒマラヤ地域の基本的な地質構造であるとしているのに対し、垂直方向の運動を重視する橋本らはヒマラヤ山脈の基盤が垂直方向に変位するブロック運動によって上昇したとする仮説を提案し、ヨーロッパの研究者のいわゆるナッペ運動とは異なった考え方を示している(図3-DB)。


14) 上昇機構

 東ネパールのクンブ地域では、八千メートル峰のいならぶヒマラヤ山脈の中心部付近に東西方向と南北方向の断層群によって囲まれたブロック状の岩体が花こう岩によって突き上げられた地質構造を見る。またヒマラヤ地域の周辺部へ行くほど褶曲構造が見られるのが一般的である。このことはヒマラヤ山脈の中心部に近いほど垂直方向のブロック運動が著しく、また周辺部ほどナッペ構造と関係した水平方向の運動によって作られた褶曲構造が卓越していることを示しているとも考えられる。つまりブロック運動とナッペ運動の二つの運動の及ぼした地域が時代によって異なってくることもありうる、と考えられるのである。長い時代にわたり続いてきたヒマラヤ地域の上昇のプロセスを考えて見ると、古い時代ほど水平方向のナッペ運動が広域的に見られたが、新しい時代となると上昇のプロセスに局地化が起こり、ヒマラヤ山脈の中心部では断層活動を伴う垂直方向のブロック運動が生じるのに対して周辺部では水平方向の運動が続いている、とも見れよう。
  東ネパールのスン・コシからドゥド・コシ(川)に沿うヒマラヤ地域の南北方向の横断調査において、この地域では全般的にナッペ構造が発達しているが、一方中央ネパールのカリ・ガンダキ(川)に沿う調査では、ナッペ構造の著しい発達は見られなかった。このことはとりもなおさずナッペ構造などの地質構造にも地域性が見られることを示している。
  重力調査の結果から、河野は東ネパールではアイソスタシーが成立していないと報告した(文献33)。このことはヒマラヤ山脈を構成する地殻はアイソスタシーでつりあっていないとしたら、水平方向の力によって支えられている可能性を示唆している。ヒマラヤ地域の上昇のプロセスをブロック運動とナッペ運動のどちらか一つのメカニズムで説明するよりも、それらが歴史的にも、また地域的にも変遷しながら全体として広大なヒマラヤ山脈の形成にかかわった、と考えられる。

15) ヒマラヤの河川

  ネパール・ヒマラヤの丘陵地を東西に旅行する者は、深さ数百メートルから時には1000メートルもの比高をもった峡谷を流れる河川を横切らなければならない。これらの河川は東西に延びているヒマラヤ山脈やマハバラート山脈にぶつかると、あるところではそれらの山脈と平行して流れたり(縦谷)、またあるところではそれらの山脈を切っている(横谷)。ネパール・ヒマラヤの河川系は南北性か東西性である。 
ヒマラヤ地域を広く見ると、ツァンポー河(ブラマプトラ河)、インダス河、サイレジ河がヒマラヤ地域の上昇運動に負けずにヒマラヤ山脈を切ってチベットの水をベンガル湾とアラビア海に運んでいる先行性の横谷であるといわれている。  東ネパールのアルン川はヒマラヤ山脈の上昇に負けずに上昇する山地を深く侵食してきた先行性の横谷であるということをヒマラヤ地域の上昇速度の見積で触れておいたが、ハーゲンはヒマラヤ山脈の北側のアルン川上流域はかつては出口をもたない盆地であり、ヒマラヤ山脈の上昇につれて山脈南面の河川勾配が急になり、かつてのアルン川が上流方向(北方)への侵食を続けた結果川の争奪が起こり、ついには現在のようにチベットの水をベンガル湾へ運ぶようになったと述べている(文献30)。
  ところがヒマラヤ山脈主稜の北側にはいぜんとしてヒマラヤ山脈の上昇に打ち勝つことができずに、川が出口をもたない盆地がブータンとシッキムの北側や、ツァンポー河、インダス河、サトレジ河の源流域に近いマナサロワール湖周辺に見られる。聖山カイラスをいだくこのマナサロワール湖周辺こそは河川系から見る限り、ヒマラヤ地域の三大河川(ツァンポー河、インダス河、サトレジ河)の源となっており、長い時代にわたる上昇の歴史の結果最高の位置を占めるようになったともいえる。
  ヒマラヤ地域の陸化、上昇以来この地域の河川は絶え間なく上昇する山地との戦いに明け暮れている、と表現できるだろう。

16) 上昇する若い地形

  ヒマラヤ地域の南北方向の区分としてはガンサーなどの区分のほかに、ワディヤは地質学的および地形学的特徴からインナー・ヒマラヤ(チベット・ヒマラヤ)、グレート・ヒマラヤ(ヒマラヤ山脈)、レッサー・ヒマラヤ(マハバラート山脈とミッドランド)、アウター・ヒマラヤ(シワリーク丘陵地)と分けている(文献34)。
  ネパール・ヒマラヤの河川系は、ヒマラヤ地域の南北方向の地形区分をよく示している。ネパール・ヒマラヤ東部のアルン川周辺地域を例にとると、この地域の河川は水源地を①トランス・ヒマラヤ(主分水嶺)、②ツァンポー河との分水嶺となる山地(インナー・ヒマラヤ)、③ヒマラヤ山脈の主稜(グレート・ヒマラヤ)、④ネパール中央部の丘陵地(ミッドランド)、⑤マハバラート山脈、⑥シワリーク丘陵地にもつものに分類することができる(図4)。
  ヒマラヤ山脈の主陵が主分水嶺となっていず、主分水嶺はトランス・ヒマラヤに位置している。このことは主分水嶺起源の河川の歴史がヒマラヤ山脈の上昇の歴史よりも古いことを示している。
  これらの水源地となっている山地はいずれも東西方向に延びており、それぞれに地質学的特徴など特有な自然を持っている。ネパール・ヒマラヤの場合を南から見ていくと、⑥のシワリーク丘陵地は礫岩や砂岩からなり、新生代後期のヒマラヤ地域の上昇によって侵食された物質が堆積した地層である。ここは野生のトラ、サイ、ゾウなどが生息する熱帯である。⑤のマハバラート山脈は、結晶片岩、片麻岩などの変成岩と花こう岩でなりたっている。ここは二千メートル級の山脈をなしており、この山脈の南側では年間降水量3000ミリを超える所がある。④のネパール中央部丘陵地は、砂岩、石灰岩、珪岩、千枚岩、粘板岩、結晶片岩などからなる。この地域はネパールでも人口密度の高い丘陵地となっており、段々畑が展開し、最も人間の手が加わった自然となっている。③のヒマラヤ山脈の主稜は、片麻岩、混成岩、花こう岩、結晶片岩などと化石を豊富に含むテーチス海堆積物の石灰岩や粘板岩が分布し、八千メートル級の世界最高の山々がそびえている。この地域の年間降水量は5001000ミリで、急峻な地形に岩屑を多くもつ氷河が見られる。②のインナー・ヒマラヤは幾つかの八千メートル峰の頂上に見られる岩石と同様に、化石を含む石灰岩、頁岩、砂岩などからなっている。この地域はチベット高原の南縁をなしており、ゆるい地形面上に氷河が見られる。①のトランス・ヒマラヤ南面には七千メートル峰があり、ヒマラヤ地域でも最も乾燥した気候条件が見られる。この地域には大規模な花こう岩が分布するが、聖山カイラスの頂上部は第三紀の礫岩層からなるヒマラヤ地域でも特異な山として知られている。ヘディンは、「トランス・ヒマラヤの峠はヒマラヤ山脈のそれより五百メートル高い。トランス・ヒマラヤは流出口を持たぬ高原と、大洋との間の分水界になっている」と述べている(注8)。
  ヒマラヤ山脈に平行した東西性の断層帯がシワリーク丘陵地とマハバラート山脈の間(主境界断層群)と、ヒマラヤ山脈の基部(主中央衝上断層群)と、トランス・ヒマラヤとインナー・ヒマラヤとの間(インダス・ツァンポー縫合線)に見られる。
  このように河川系から見た地形区分がそれぞれに気候や生物的特徴などとともに地質学的特徴をもっているということはヒマラヤ山脈が現在でも上昇している若い地形であることを示している、と考えられる。
  シワリーク層上部に見られる礫岩層は、マハバラード山脈の南面沿いに東西に広く分布している。ところが、現在の河川系はマハバラート山脈の北側でせき止められ、幾つかの特定の地点でマハバラード山脈を切っている。したがって現在ヒマラヤ山脈から侵食され運搬された物質は、シワリーク層上部の礫岩層の分布のように東西方向に連続した分布をとることはない。ハーゲンはヒマラヤ山脈から南下するスン・コシ川の各支流はかつてはマハバラード地帯を切って南下していた、と述べている(文献30)。このことはヒマラヤ山脈の上昇よりもマハバラード山脈の上昇の方が新しい時代におこったことを示している。そして、前にも述べたように主分水嶺の方がインナー・ヒマラヤやヒマラヤ山脈よりもその上昇の歴史が古いといえるので、ヒマラヤ地域の上昇プロセスを見ると北から南へ、つまり主分水嶺、インナー・ヒマラヤ、ヒマラヤ山脈、マハバラード山脈そしてシワリーク山脈の順に上昇の歴史が新しいことを示している。


17) ヒマラヤの氷河

  十九世紀から二十世紀の初めにかけてヒマラヤ地域をはじめとする内陸アジアに幾つかの先駆的な探検調査が行われた。スウェン・ヘディンのトランス・ヒマラヤの踏査やキントゥップによってツァンポー河とブラマプトラ河とが連続していることがわかったのもこのころのことである。
  当時のネパールは江戸時代の日本のように鎖国政策をとっており、ほとんどの外国人には禁断の地であった。だから世界最高峰チョモランマ峰などネパール領内の高峰の、最初の高度決定は遠く離れたインド領シワリーク丘陵地やマハバラート山脈上の基点から行われた。これらの一連の測量とともに地質学、地理学、生物学などの自然科学分野の観察が積み重ねられていった。
  十九世紀の初期ネパール領内に入ることのできなかったインドやヨーロッパの研究者は、ダージリン周辺などから望遠鏡でネパール・ヒマラヤの山々や氷河の観察を行ったが、ネパール・ヒマラヤに氷河を発見することはできなかったといわれている(文献35)。いったい、どうしてネパール・ヒマラヤに氷河を見つけることができなかったのであろうか。
  ネパール・ヒマラヤの高峰に登る人たちは、東ネパールのクンブ氷河下流部のように氷河上のベース・キャンプを作るまでに氷河上を厚く覆う岩屑の上を数日間歩かされる。一般にネパール・ヒマラヤ南面の大きな氷河は岩屑層が多く、氷河の下流部はほとんど岩屑で覆われている。だから遠く離れた所から見ると氷河氷が見えず、岩屑のように見えてしまうので、氷河とは、教科書的なアルプスの氷河のように白いむき出しの氷体である、と考えていた当時の研究者がネパール・ヒマラヤに氷河を発見できなかったのも無理からぬことといえよう。
  ヒマラヤ山脈に氷河があることが確認されその調査が行われたのは、1840年代のストラッチィ、ウェラー、ゴルドンなどのヒマラヤ研究初期のナチュラリストたちの努力に負うところが大きい。



氷河分布

ヒマラヤ地域の降水パターンは地形の影響を強く受けている。夏のベンガル湾やアラビア海からもたらされる降水量はマハバラード山脈の南面で年3000ミリを超す。ところがこの夏のモンスーンの水蒸気がヒマラヤ山脈に届く前にさらにヒマラヤ山脈の前山地帯に落とされ、ネパール・ヒマラヤの主稜付近では降雪(夏雪)となるが、年降水量は少なくなり約500ミリ程度となってしまう(注9)。   1978年夏のモンスーン中に私たちがマハバラート山脈を越えた時、決まったように毎日午後早くこの山脈の南面に急速に発達する積乱雲と引き続くすさまじい豪雨を経験した。マハバラード山脈は二千メートル級の地形であるが、夏の降水パターンに与える影響は非常に大きい。 
  一方冬の西方からの水蒸気はカラコルム、パンジャブ、クマウン、西ネパール地域に降雪(冬雪)をもたらし、このためパンジャブ・ヒマラヤのカシミール地方の道路は大雪のため閉鎖されるほどであるが、ネパール・ヒマラヤ以東への影響はわずかである。このことは、ヒマラヤ地域の山岳地帯にほぼ平行して西方よりもたらされる冬の降水パターンに対してヒマラヤ山脈の西部地域の高山地形が
大きな影響を与えている、といえる。したがって、冬期の東部ネパール・ヒマラヤよりも東の地域は乾燥している。
 地形的雪線は(以下雪線と呼ぶ)このような水蒸気輸送の経路や降雪量、時期などの気候的条件と内陸アジア変動帯の地形的条件によって影響を受ける。ヒマラヤ地域およびチベット高原周辺の雪線の分布についてはウィスマン(文献36)や施(文献37)らによってまとめられており、それらの雪線の分布から南北方向と東西方向の断面を図5に示している。その南北断面を見ると雪線のピークはヒマラヤ山脈となっておらず、ツァンポー河、インダス河上流からトランス・ヒマラヤ周辺に位置している(図5A)。また東西断面で見ると、雪線のピークは西チベットにあり、ネパール・ヒマラヤからパンジャブ・ヒマラヤの北側に位置している。ヒマラヤ地域の東部から西チベットにかけて雪線が高くなるのは夏のモンスーンの降水パターンと関係があり、またカラコルム山脈から西チベットにかけて雪線が上昇するのは冬の西方からの水蒸気輸送による降水パターンを示している、と考えられる。このような雪線の分布特性と関連してヒマラヤ山脈とカラコルム山脈とに見られる氷河の分布の特徴には、カラコルム山脈やヒマラヤ山脈西部の氷河は大規模で氷河末端が30004000メートル前後と低く、ネパール・ヒマラヤなどのヒマラヤ山脈の中部では比較的小規模な氷河でその末端高度は5000メートル前後と高くなるが、一方ヒマラヤ山脈の東部に当たるアッサム・ヒマラヤではデュピュイが述べている(文献11)ように氷河末端は低く、ローイット地方では氷河が2400メートルまで下がっているといった地域性があらわれている(注10)。
  カラコルム山脈のシアチェン氷河、ヒスパー氷河、ビアフォ氷河、バルトロ氷河などのような大規模氷河がいかにして形成されているのかといった問題や、内陸アジア変動帯の上昇による地形変化とともに雪線の分布などに見られる気候条件がどのように変化してきたかという問題は、氷河現象にかかわらずヒマラヤの自然史にとって基本的なテーマとなろう(注11)。
  気温条件とともに降水条件は氷河現象にとって重要なことであり、今西は、モンスーンの間というのは低地では雨期に当たるが、この雨がヒマラヤの高所では雪となって降るから、ヒマラヤには一年に二度冬があると考えてよいと述べている(文献38)。
  氷河現象は地形変化と気候変化とが作り出す自然環境の一つのあらわれである。地形条件が支配要因となるほど大きくない時にはその地域の気候はグローバルな気候条件によって強く影響されるが、地形条件が大きくなるとともにグローバルな気候とあいまってローカルな気候条件が作り出されてくる。チベット高原を中心とする内陸アジア変動帯の上昇とともに形成されるようになったチベット高気圧は、引き続く上昇によってローカルな気候条件からグローバルな大気大循環にも大きな影響を与えるまでになった。このチベッイ高気圧の発達は日本の気象にも大きな影響を与え、沖縄のかんばつの年はチベット高気圧の東および北への広がりが大きいことが報告されている(文献39)。 
  渡辺らはヒマラヤ山脈南面の氷河を暖かい氷河(夏期に氷河氷の温度が摂氏零度となる氷河)としてネパール型氷河群と呼び、北面の氷河を冷たい氷河(夏でも氷河氷の温度が零下である氷河)としてチベット型氷河群と分類し、チベット型氷河群はネパール型氷河群よりも過去の氷河拡大が大規模であったと報告している(文献5)。



氷河変動

氷河作用によって形成される氷河末端のモーレンやU字谷の分布によって過去の氷河規模を復元することができる。図6のネパール・ヒマラヤ氷河学術調査隊によって撮影された航空写真を見ると、東ネパールのクンブ地域には幾つかの氷河の拡大時期を示すモレーンが見られる。図7と表1に示すようにクンブ地域の現在の氷河に覆われた面積が氷河地域全体の23%(170平方キロ)であり、そして現在の氷河の平均的な末端高度は約5000メートルである。これに対して最も氷河が拡大した時期には2300メートルのルクラ付近まで氷河が達し、この地域の90%(649平方キロ)が氷河に覆われた(文献40)。この氷河の最大の拡大期にはアマ・ダブラムなどの山々は現在の南極やグリーンランドに見られるようなヌナタークとなっていたと考えられる。
  これまでのところはヨーロッパの研究者によって、ヒマラヤ山脈の氷河の変動の歴史はアルプス山脈の氷河と同じ時期に起こった、といわれてきた。彼らの考えを支持する証拠はなかったのであるが、モレーンの形態的特徴から彼らは図6に見られるトゥクラ村のモレーンの年代を1850年(ヨーロッパでナポレオン氷期と呼ばれている寒冷期に相当する)とし、またペリチェ村のモレーンの年代を十六世紀としたり(文献3041)、また、あるいはこれを最終氷期のモレーンと発言している場合もある(文献42)。
  ところが、これらのモレーンの年代を示すと考えられる木片と炭化木を採集し、年代測定のために放射性炭素C14による分析をしてもらったところ、その結果はクンブ氷河がトゥクラまで前進した時期が十六世紀で、ペリジェまで前進した時期が八世紀以前であることが明らかとなった(文献40)。これら二つの氷河前進期のクンブ地域における氷河の拡大面積はトゥクラまで拡大した時が274平方キロで、ペリチェまで拡大した時が481平方キロである(表1、図7)。
  東ネパールのクンブ地域では現在に近づくにつれて氷河が著しい縮小を続けており、ヨーロッパの氷河のような(文献43)、十九世紀中ごろの大きな拡大は見られない。これらのことは氷河の変動の歴史が低緯度のヒマラヤ地域と中緯度のヨーロッパとでは異なっている場合があることを示している。
  ヒマラヤ山脈の形成の章で述べたように、ヨーロッパの研究者はヒマラヤ地域をはじめ地球上の出来事がヨーロッパと同じようにして起こると主張しがちのようだ。その前にまずもって実証的な研究の積み重ねが必要となろう。
  十九世紀初めにストラッチィはヒマラヤ地域の氷河の歴史について「氷河の最大拡大期の現象は広範囲に見られ、その規模は大きい。この大規模な氷河の拡大は北部インドの上昇による気候変化と、当時いぜんとして海がつづいていたヒマラヤ地域の南部からヒマラヤ山脈の高所に水蒸気が運ばれて多量の降雪が生じた」という示唆に富む指摘をしている(文献25、注12)。
 パンジャブ地域の低地には氷山によって運ばれた巨大な迷い子石が見られる(文献45)という説をはじめとし、スリナガールの湖成堆積物から(文献44)、また高位段丘から(文献4647)、第四紀更新世(約200万年~一万年前)に四回の氷期があったとされているが、いずれもそれらの時期は不明である。
  ヒマラヤ山脈の北側を研究している中国の研究者は更新世に三つの氷期(希夏邦与氷期、聶聶雄拉氷期、珠穆朗瑪氷期)があり、また宗新世(一万年~現在)に絨布徳小氷期があったと報告している(文献21)が、それらの詳しい年代もやはり不明である。郭は氷河の拡大縮小と、ヒマラヤ地域の地形変化と気候変化との関係について「第二番目の聶聶雄拉氷期までヒマラヤ山脈の平均高度は低く、ヒマラヤ山脈の北面地域まで南方から多量の水蒸気が達し、気候は温暖湿潤な海洋性気候で、大規模な山麓氷河が発達した。第三番目の最終氷期以後ヒマラヤ山脈の平均高度が四千五百メートルを超え、南方からの水蒸気輸送がさまたげられるようになり、ヒマラヤ山脈の北面地域は乾燥化し、気候は大陸的となり、氷河は縮小した」と述べている(文献21)。
  ストラッチィも郭もともにヒマラヤ山脈の氷河現象にかかわる夏の南方からの水蒸気輸送について述べているが、前にも述べたように、冬の西方からの水蒸気輸送もまた、長い時代にわたる地形変化と関係して、どのようにヒマラヤの各地域にその影響を与えたきたかを見きわめることは氷河現象にとどまらず、ヒマラヤ地域の自然環境の変遷を見ていく上で重要な視点である、といえる。
  氷河が拡大したり縮小したりする現象はヒマラヤ山脈などの高地の出来事にとどまらずに、ヒマラヤ地域の周辺の低地にまでその影響を与えていたはずである。ヒマラヤ山脈の高地では侵食作用が著しく、過去の氷河作用の遺跡が残りにくいので、とくに氷河の歴史を編んでいくような時にはヒマラヤ地域周辺の湖や段丘などの堆積物の観察も必要となってくる。
  パンジャブ・ヒマラヤなどのヒマラヤの西部地域では四回の氷期が報告されているのに対して、ヒマラヤ地域の中部に当たるチベットで三回(文献21)、北西インドからブータンにかけてのヒマラヤ地域の南部の段丘調査から、中田(文献18)は二~三回の氷期があったとしている。
  西パールの氷河地形と河岸段丘から渡辺らはウルム氷期とリス氷期の二つの氷期に対比される氷河拡大期と河川段丘形成期があったとし、前者をネパール氷期とし、後者をチベット氷期と呼んだ(文献5)。また、岩田は東ネパール・クンブ地域のクンブ氷河周辺に見られるモレーンの形態的特徴からクンブ氷河がペリジェまで拡大した時期を最終氷期(ウルム氷期)とし、それよりも古い平坦地形(プラット・フォーム地形)が形成された時期を先間氷期とした(文献48)。また、東ネパールのクンブ地域、ヒンク地域、ホング地域などに見られる時代の異なる三つのU字谷と、それに伴うモレーンから三回の大規模な氷河の拡大が報告されている(文献17)。
  しかし、グローバルに見たら狭い地域といえるヒマラヤの各地域での氷河の発達をもっていきなり氷期と呼ぶのは問題がある。なぜなら、氷期という用語は、本来グローバルな第四紀の氷河の拡大時期に対して使われるから、そして、現在では新第三紀の氷河の歴史が明らかになるにつれて、新生代後期の氷河時代という概念が出てきている(注13)。このことは、地球の歴史を編む時にヨーロッパに氷河が発達するのをもってすぐに氷期と定義するのも正しくないといえることと同様である。いずれにしても詳しい氷河拡大の時期を明らかにしてグローバルな氷河拡大時期との対比を見きわめる必要があるといえる。
  氷期に対応する可能性のある大規模な氷河拡大の回数がヒマラヤ地域では西部の方が東部よりも多いと報告されているのは、数万年から数十万年の単位でヒマラヤの自然史を考える上で新たな問題を含んでいると思われる。



地形・気候変化と氷河

  氷河現象は他の自然現象と共通して地形・気候条件によって形成されるので、その歴史的変化から自然史を復元する方法は中国人研究者のチョモランマ峰北側地域での研究を紹介した個所で述べたように有力なものである。しかし地形変化を引き起こす上昇速度や気温と降水量などの気候条件の歴史的変化は現在のところ十分にわかっていないので、地形変化と気候変化とを量的に結びつけ、グローバルな他地域の氷河の歴史と対比してヒマラヤ地域の氷河現象を見ていく視点は今まさに始まったばかりといえよう。過去の氷河現象の遺跡であるモレーンやU字谷の分布から氷河の拡大の歴史を復元し、氷河の歴史を作り上げてきた地形変化と気候変化とを推察することは可能であり、以下に述べることはそうした過程を経て考えた新生代後期のヒマラヤ地域の自然史についての一つの作業仮説である。 
 ストラッチィや郭の提出した地形変化と気候変化の歴史についての考え方は中部ヒマラヤ地域に関するもので、氷河現象の歴史を作ってきた気候条件については現在の中部ヒマラヤ地域から東部ヒマラヤ地域に支配的な南方からの夏の水蒸気輸送について考慮した説といえよう。中部ヒマラヤ地域は東部と西部ヒマラヤ地域の自然現象の特性を併せもつ移行部であるので、中部ヒマラヤ地域では東部と西部ヒマラヤの対照的な気候条件の影響が上昇とともに歴史的に変化してきた、と考えられる。
  ヒマラヤ地域に見られるもう一方の主な水蒸気輸送である冬の西方から降水がもたらされる気候条件は、現在のところ中部ヒマラヤ地域以東では支配的な気候条件とはなっていないが、長い時代にわたるヒマラヤ地域の自然史を考える上で夏の気候条件とともに冬の気候条件の歴史的変化をも考慮していくことが必要である。なぜなら、夏雪はネパールのクンブ地域で約5500メートル以上に積雪を生じるのに対して、冬雪の場合は約3000メートル付近にまで積雪を生じるといった違いを見せる。この高度にして約2500メートルの差は積雪面積に大きな相違をもたらす。例えば平均高度が5000メートルに近いチベット高原を考えた場合、夏に山頂近くが部分的に積雪で覆われるのか、または冬の場合のようにチベット高原全体が積雪で覆われるのかという相違となってくる。この積雪面積の影響は大きく、冬期間の積雪面積の大きい年は次に来る夏のモンスーンの発達が弱くなる(文献55)、という報告もある。
  地形条件と気候条件のかかわる積雪量分布の地域特性は、冬雪の影響について見ると、西部ヒマラヤ地域に行くほど大きく、夏雪の影響は東ヒマラヤ地域に行くほど大きい。前に述べたように冬と夏との異なる時期の降雪現象が複合した結果が地形的雪線の分布にあらわれている、と見れよう。
  ストラッチィや郭も報告しているように更新世と考えられている氷河の拡大は大規模であり、東ネパールのクンブ地域の氷河の歴史が示すように現在に近づくにつれて氷河は著しい縮小の一途をたどっている。
  現在のクンブ地域の夏の氷河上の平均的雪線は約5500メートルである。ヒマラヤ山脈の高度が5500メートル台になるまでは地形面が夏の平均的雪線よりも低いので、気温低下を考えないとすると、氷河を涵養する降雪は冬の期間にもたらされると考えられる。そして現在に比べてヒマラヤ山脈がはるかに低く、地形が気候条件に与える影響は小さかったと考えられるので、冬雪の影響は現在よりももっと東部ヒマラヤ地域まで達した、と推定できる。つまり、冬雪の時代である。  ヒマラヤ地域の上昇につれて、ヒマラヤ地域の広範囲にわたる影響を与えた冬雪の時代から、さらにヒマラヤ山脈が上昇し、夏の雪線高度を超えるようになると夏雪の影響が加わり、ヒマラヤ地域に気候的な対照性をもつ地域性が生じ、西部ヒマラヤ地域が冬雪の影響をより強く受け、東部ヒマラヤが夏雪の影響を受けるようになる。つまり、ヒマラヤ地域全体としては冬雪・夏雪の時代となった、といえる。その過程で冬雪と夏雪の両方の影響を強く受ける地域の氷河は大規模に拡大したことも考えられてよい(注18)。
  一方、夏の降水パターンに大きな影響を与えているマハバラート山脈の効果も大きい。マハバラート山脈が低かった時代には夏の降水はヒマラヤ山脈に直接的な影響を与える。マハバラート山脈とともにヒマラヤ山脈の上昇が与える地形条件の変化は中部ヒマラヤ地域の高山帯への冬雪と夏雪の影響を小さくしてゆく。クンブ地域の氷河規模が現在に近づくにつれて縮小化に向かっていることは積雪面積が減少するとともに高度を増した山岳地帯が次第に氷河現象から周氷河現象の影響を強く受けるようになったことを示す。その結果、岩屑を多量にもつ氷河や岩石氷河が登場してくるという歴史がネパールなどの中部ヒマラヤ地域の氷河現象の特徴であるといえる(注19)。 
  東ネパール、クンブ地域のロブチェ氷河などでは現在の氷河末端から離れてさらに下流に岩屑で覆われたかつての氷河拡大の名残をとどめる化石氷体が見られる。ところが多量の岩屑に覆われたクンブ氷河などでは化石氷体と現在の氷河末端とがつながっており、航空写真などからクンブ氷河の現在の氷河末端を示すのはむずかしい。この現象は多量の岩屑が氷体を覆うほど太陽の輻射熱が氷体に伝わりにくくなり、かつての氷体が解けさるのを防いでいるからと考えられる(注20)。化石氷体と現在の生きている氷河氷体とが構造的に複合関係をなしていることも、ヒマラヤ地域の氷河現象の一つの特徴である。
  一方、西部ヒマラヤ地域では更新世の氷河の涵養期は現在と基本的に異なってはいないと考えられ、中部ヒマラヤがヒマラヤ地域の上昇とともに冬雪時代から夏雪時代となり、そして現在では冬雪も夏雪も次第にその影響が小さくなってゆくような大きな変化をしてきたのと対照的であると思われる。ヒマラヤネパール型氷河群とチベット型氷河群との分化は、ヒマラヤ山南面と北面との氷河群に大きく異なる性質を作るような地形的および気候的条件は考えられにくいので、渡辺らが述べている山脈の低かった中部ヒマラヤ地域の冬雪の時代にはヒマラヤ山脈の歴史を見ると、ヒマラヤ山脈の平均高度が夏期の雪線高度に達し、中部ヒマラヤ地域が夏雪の影響を受けるようになり、上昇したヒマラヤ山脈の南北面での新たな地形的・気候的条件の違いが作り出した結果と考えられる。 
  また、渡辺らはかつての氷河の拡大がネパール型氷河群よりもチベット型氷河群の方が大規模であったと報告しているが、ヒマラヤ山脈の南側と北側の地形特性によって、前者では深い谷を氷河が線的に、後者では起伏の少ない地形を氷河が画的に拡大するので、両者のかつての氷河規模を量的に見積もった上で対比する必要があるといえよう。ヒマラヤ山脈の北側やチベット高原上の起伏の少ない地形を覆う氷河は、一定の氷体量の増大に対して、南側の氷河に比べると氷河面積をより拡大するので広域的なアルベード(反射率)を増加させる効果をもち、気候条件へのフィード・バックが大きいと考えられる。

氷河変動の地域性

中部ヒマラヤ地域の氷河の大規模な拡大回数は、西部ヒマラヤに比べて少ないことを指摘しておいた。このことは現在に近づくにつれてヒマラヤ山脈と、引き続くマハバラート山脈の上昇のために中部ヒマラヤ地域では冬雪・夏雪の影響が次第に小さくなり、山岳地帯は乾燥化に向かい、雪線も上昇したので、たとえ氷期に対応する気温低下がヒマラヤ全域に影響を与えたとしても、西部ヒマラヤ地域で主として冬雪の涵養による大規模な氷河の拡大があった時期にも中部ヒマラヤでは夏雪の涵養量が減少したために氷河は拡大しなかった、と説明できるであろう。つまり、ヒマラヤ山脈の低かった更新世の古い時代ほどヒマラヤ地域全体の氷河の拡大時期に同時性が見られたが、次第にヒマラヤ地域が上昇を続け現在に近づくにつれて西部、中部、東部ヒマラヤ地域の氷河現象に地域性が見られるようになり、氷河拡大現象の同時性は薄れてゆく、と考えられる。
  ここに述べた長い時代にわたるヒマラヤ地域の氷河現象を中心とした自然史を見ると、ヒマラヤ地域が低かった時代は、グローバルな気候条件がヒマラヤ地域全体に影響したが、ヒマラヤ地域を含む内陸アジア変動帯の上昇によって、チベット高原やヒマラヤ山脈などの地形条件がチベット高気圧の形成などに見られるような内陸アジア変動帯特有の自然が作られ、さらにこの地域の上昇が進み、ヒマラヤ地域の氷河などの歴史に見られるようにヒマラヤ地域の自然に西部・中部・東部ヒマラヤといった地域性が見られるようになった、と解釈できる。
  中国科学院の蘭州冰川凍土砂漠研究所はチベット高原周辺の氷河現象の調査を勢力的に行っている。この研究所の中国人研究者は毛沢東の矛盾論を引き合いに出しながら「チョモランマ峰の上昇によって導かれる低温(同時に降水を降雪に変える)は氷河発達の第一義の要因であった。しかし、晩更新世以後の上昇においては氷河の降水量に対する依存関係が低温に対する依存関係を圧倒するようになった。高空の水蒸気含有量は低空よりも小さいから、ある限界の高さまでくるとそれ以後は山体は一歩高まるごとにかえって氷河の発達に対し抑制を起こす作用に出会う」と述べ(文献56)、ヒマラヤ地域の自然史の基本を作る地形変化と気候変化との関係についての示唆に富む考え方を出している。しかしながら彼らの考え方では内陸アジア変動帯南部地域を大きく見ると、雪線と氷河の末端高度が西部と東部に向かって低下し、カラコルム山脈などに大氷河が発達している原因や、また局所的にはネパール・ヒマラヤの氷河群の中ではアンナプルナ山塊南面の氷河の末端高度が約4000メートルと他のネパール・ヒマラヤの氷河群のもつ氷河の末端高度より1000メートル近くも低くなっている原因を説明できない。   フェドチェンコ氷河などをもつパミールとともにカラコルム山脈の現在の氷河規模が大きいことは、内陸アジア変動帯の自然の中で特徴的な現象の一つである。その原因については今西はカラコルム山脈の山が高く、連山地形のため集氷面積が大きいことを挙げ(文献38)、横山はカラコルム山脈の水系が勾配の小さい縦谷であり、氷河の消耗域の長さに対して末端高度の低下が小さく、そのために消耗量が小さく抑えられるとし(文献57)、そして水津らは乾燥地帯にもかかわらず多量の降雪(年平均1500ミリ)があることを述べている(文献58)。 
  中国人研究者が述べているようにヒマラヤ山脈の上昇が氷河の発達を抑制するというのであれば、ヒマラヤ山脈と同様に上昇したカラコルム山脈に大氷河が存在する現象はそれこそ矛盾しているといえよう。カラコルム山脈の大氷河の原因はヒマラヤ山脈やマハバラード山脈などを含むヒマラヤ地域の上昇によって中部ヒマラヤ地域の山岳地帯では夏雪・冬雪がともに減少し、この地域の氷河が縮小したのに対し、西部ヒマラヤからカラコルム山脈、さらにパミールなどの地域では最近の登山隊が報告しているように、夏でも西方からの水蒸気輸送によって降雪が起こることに加え、冬雪の影響がこれらの地域に集中的に起こるようになった、ことに求められると考えられる。冬雪の影響は低地にまで積雪域を拡大するので、アルベートを増加させ、日射を反射し、氷河の解けさるのを防ぐとともに多量の降雪は雪線を下げる。このことに加えて、水津らの観測した年間1500ミリに達する多量の降雪量と、今西と横山が述べている現在の氷河の拡大に有利な地形的条件があるため、カラコルム山脈などには大規模な氷河が発達していると考えられる。
  一方、ネパール・ヒマラヤのアンナプルナ山塊南面はネパールの年間降水量分布を見ると東ネパールのマハバラード山脈南面とともに降水量の多い所となっている(文献59)。アンナプルナ山塊のある中部ネパールでは水蒸気輸送の経路に当たるマハバラード山脈が東部ネパールに比べて低く、夏期のモンスーンの水蒸気が東部ネパールのようにマハバラート山脈の南面で多量の降水を引き起こすことが少ない。この湿った水蒸気が高度約800メートルのポカラ盆地から八千メートル級のアンナプルナ山塊に直接到達することによって、この地域はネパール内でも多量の降水量が見られる地域となっている。中部ヒマラヤ地域では夏の降水パターンに対するマハバラート山脈の影響があり、ヒマラヤ山脈付近の降水量を減少させるようになり、一般的には中部ヒマラヤ地域の氷河は縮小するにいたったが、マハバラート山脈の高度の低い所では夏のモンスーンの水蒸気が直接ヒマラヤ山脈に到達しアンナプルナ山塊などの氷河を発達させている、といえる。
  ヒマラヤ山脈とマハバラート山脈などの地形変化はヒマラヤ地域の気候条件に影響を与えており、これらの山脈群がこれまで引き続いてきたように、これからも上昇するとするならば、かつての冬雪時代のヒマラヤ地域の低かった雪線から、冬雪・夏雪時代になって中部ヒマラヤ地域の雪線が高くなってきた傾向は将来も続くとともに、ヒマラヤの降水量パターンなどの気候条件にさらに地域性を作っていく、といえるだろう。

最近の氷河変動

それでは最後に、最近の氷河変動について述べる。氷河の末端位置の変化は、前進要因となる流動量と後退要因となる消耗量によって引き起こされる。たくさんの氷河についてその調査を行えば、ある地域の氷河群としての変動の様子が明らかになり、その結果は気候変化の指標となる。
  私たちは、197078年にかけて東ネパール、ドゥド・コシ流域の15の氷河について末端変動を観測し、後退した氷河(八氷河)、前進した氷河(三氷河)、大きな変化のない氷河(三氷河)、そして不規則な変化をした氷河(一氷河)の結果を得た。このことから、氷河数として少ないけれど前進した氷河があるが、この地域の多くの氷河は年間数メートルで後退する傾向にあるといえる(注22)。このような、最近のこの地域の氷河の後退傾向は、ネパール・ヒマラヤ氷河学術調査隊(樋口敬二隊長)の氷河台帳とミューラーのものとの比較からいえ(注23)、1960年から1975年にかけて、当地域の九割の氷河が後退していることが報告されている。
  長い時間にわたる氷河の歴史に見られる著しい後退傾向が、最近の氷河変動にも見られるものであるが、幾つかの氷河で観測されたような前進傾向があらわれたとしても、その前進規模はかつての氷河拡大規模を超えるようなことはない。そして、全体として東ネパールの氷河群は縮小している。



18) ヒマラヤの自然史

  内陸アジアの変動帯の南面を西から東へと旅行することにしよう。まず中近東のイラン、アフガニスタンのステップ的景観から始まり、インダス河下流のパキスタン、インドのタール砂漠までは年降水量500ミリ以下の乾燥地帯である。この地域の水源地としてとはヒンズー・クシュやスライマンや西部のヒマラヤの各山脈がある(図8)。
  さらに東へ行くとガンジス河沿岸となり、いわゆるモンスーン的景観となる。ブラマプトラ河に近づくと、年降水量2000ミリ以上のアッサム、ビルマの多雨地域となり、ところによっては年降水量が一万ミリを超えるといわれている。この地域の水源域となる山々はクマウン・ヒマラヤからアッサム・ヒマラヤにかけてのヒマラヤ山脈とアラカン・ヨマ山脈がある。
  人工衛星から撮られたヒマラヤ地域の写真を見ると、中近東からパンジャブ地域まで続く乾燥地帯がガンジス河から東の地域の湿潤地帯に接しており、ヒマラヤ山脈がこの乾燥と湿潤という対照的な両地帯にまたがり、東西方向に雄大な山岳地帯となって分布しているのがわかる。この両地帯の境界はクマウン・ヒマラヤからネパール・ヒマラヤの西部となるようだ。

生物分布

ネパール・ヒマラヤの中部を流れるカリ・ガンダキ(川)周辺はヒマラヤ山脈南面地域の生物群の分布を東西に分けている境界として重要である。例えば、和田によって調査されたアッサム・モンキーの分布の西限はカリ・ガンダキとなっている(文献49)。トガリネズミ、モグラ、ナキウサギ、リスなどの小哺乳類の分布にもカリ・ガンダキが大きな意味をもっているとの報告もある(文献50)。ネパールに見られる鳥類の大きな境界はアルン川とされていたが、カリ・ガンダキがより重要な分布境界となるとも述べられている(文献51)。
  カリ・ガンダキなどの生物分布に影響を与える自然環境の問題はヒマラヤ地域の上昇と地形・気候変化と関係すると考えられる。
  パンジャブ・ヒマラヤとクマウン・ヒマラヤとの境界域にあるサトレジ川から西部のヒマラヤ地域では山脈と河川系の配列に平行性が見られ山々が連山をなすのに対して、ネパール・ヒマラヤ付近から東部にかけては山脈の配列と河川系が直交し、東西性の山脈が南北性の深い谷によって切られている。そこで、ヒマラヤ山脈東部の高峰は独立した山塊をなしている。このような地形的な特徴に、モンスーンの気候的影響と植生景観が加わり、深田のいう「ヒマラヤは東へ近づくほどどっしりと大きい東洋風になる」という違いが出てくると思われる。
  ネパール・ヒマラヤを切っている河川系はカリ・ガンダキのように地溝帯となっている場合があり(文献30)、地質学的にも重要な意味をもっていることが少なくない。
  ネパール・ヒマラヤ西部からクマウン・ヒマラヤにかけては地形的・気候的特徴から見るとヒマラヤ地域の西部と東部との移行部分に当り、生物地理学的特徴をもつカリ・ガンダキ・ラインのような幾つかの境界があってもよい、と考えられる。サトレジ川周辺を境にして野生のヒツジの一種であるアジア・ムフロンが西に、そしてヒマラヤ・タールが東に分布するといわれているし(文献52)、またヒマラヤカラマツの化石はヒマラヤ地域の西部からも産出するが、現在の分布はネパールのカリ・ガンダキ以東に限られる(文献53)、との報告もある。
  ヒマラヤ地域の東部に行くにつれて夏雨型の熱帯多雨林となり、逆にヒマラヤ地域の西部からカラコルム山脈にかけては冬雨型のステップへと変化している。この対照的な両地域の移行部分に当たるネパールなどは、現在の生物分布に大きな意味をもっている。
  ヒマラヤ地域やインドの植生を研究したフッカーは、ヒマラヤ地域の植物分布から、ヒマラヤ地域を西部ヒマラヤと東部ヒマラヤとに区分した(注14)。ヒマラヤ地域はヨーロッパ系の生物と日華区系のものとの分布の接点となっており、雲南地域に分布の中心をもつ日華区系の植物がヒマラヤ山脈の南面に細い帯状の分布をとることからヒマラヤ回廊と呼ばれている(注15)。このような生物分布に影響を与える自然環境の形成はヒマラヤ地域の上昇とそれによって作り出される地形・気候変化と関係する。
  ヒマラヤ山脈の平均高度は6000メートル以上にもなるので大気の南北循環を妨げるようになっている。ところが、渡りの季節にヒマラヤ山脈を南北に越える鳥が知られている。例えば松田が報告しているようにシベリアのソデグロヅルはヒマラヤ山脈を越えてインド方面に飛来してくる鳥として知られている(文献54)。おそらくこの種のツルと思われる鳥の骨で東ネパールのクンブの人が笛を作っていたのを見たことがある。この鳥は渡りの途中に死んだものと考えられ、東西性の大規模なヒマラヤ山脈が生物の南北移動の障害となっているのだろう。
  長期的な寒冷化傾向は高緯度に発達する氷河、氷床などの影響を受けて次第に低緯度へと伝播していくとすると、ヒマラヤ山脈の北側に住んでいた生物などは飛び越せない限り高地の障害にぶつかってしまい、ヒマラヤ山脈を切る幾つかの谷沿いに南下せざるを得なくなる。アメリカ大陸などに見られる南北性の地形に比べて環境変化、とりわけ寒冷化傾向の進行する条件下において、東西性の大規模な山脈であるヒマラヤ地域の生物の場合は南方へ移動が困難となる、といわれている。とくにチベット高原およびその周辺地域に発達した過去の氷河の拡大はこの地域に住んでいた生物に直接的な影響を与えたはずであるし、その影響は現在にも及んでいると思われる。



人類史

ヒマラヤ地域の南縁に当たるシワリーク丘陵地は、第三紀の動物化石の産地として有名である。化石人類のうちアウストラロピテクス類が東アフリカから発見されており、人類誕生の地として東アフリカが注目されている。ところが最近ヒマラヤ地域およびその周辺地域で人類の祖先と考えられる化石が再び発見されるようになってきた。19763月、ピルビームはパキスタンのシワリーク層から8001000万年前の世界最古のものと思われる猿人の下あごを発見し(文献3)、19774月には、新聞に発表されたものだが中国人研究者が800万年前の猿人の下あごを雲南省で発見したという。これらは新生代後期のシワリーク層が堆積している時代である。19767月には再び中国人研究者が雲南省で170万年前の原人の歯の化石を発見している(注17)。
  インドで発見されたラマピテクスは新生代後期(1400万~1000万年前)の霊長類であり、人類の起源を考える上で重要な化石とされている。すでにヒマラヤ地域周辺ではジャワ原人などが知られており、サルとヒトとの間の“ミッシング・リンク”を埋めていく上で、ヒマラヤ地域は重要なフィールドになる可能性を秘めている。
 新生代後期のヒマラヤ地域の上昇によって侵食された岩石や土砂はその周辺に運ばれ堆積し、シワリーク層となった。この変化しつつある自然環境のもとにヒマラヤ山脈の上昇とともに形成されたシワリークの森に、われわれは人類の誕生を見ることができるであろうか。


                        羊とともに、氷河のかかるメラ峠をヒンク谷からホング谷へ越え行く。

民族移動

それでは次にネパール・ヒマラヤを中心としたヒマラヤ地域の比較的最近の約1000年間の自然史を見てゆきたい。
  グルン族はグルカ兵として多くの青年を海外へ送っているネパールの山岳民族である。グルン族に伝わる説話から彼らの起源は北インドから移住してきたとも、また身体の特徴や民話からやはりネパールの山岳民族であるライ族やリンブー族、シッキムのレプチャ族との類似性がいわれ、雲南やビルマからネパールへ移住してきた、ともいわれている(文献60)。ところがグルン族の祖先が古くなればなるほど、かつての村の位置が北になりチベットまで追跡できるので、チベット起源が考えられるともいわれている(文献61)。これらのことからグルン族の起源にまつわる話としては西方起源はないのだが、他の三方向つまり南方、東方と北方起源の可能性があることになってしまう。ヒマラヤ山脈の高地の人たちはいつ、どこから、やってきたのだろうか。
  同じくヒマラヤ山脈の高地に住むシェルパ族の起源に関しては、これまでのところチベットから移住してきたことが知られていたが、彼らのくわしい移住経路や年代などの歴史は不明とされてきた(文献62)。ところが最近シェルパ族の歴史についての研究が進み、興味ある報告がなされている。
  オーピッツはシェルパ族の民族移動に関して「十六世紀に回教徒がチベットに侵入し、それによってチベット中央部から追われたシェルパ族はチョー・オユー峰の西にあるナンパ・ラ(峠)を越えて、現在彼らが住む東ネパールのソル・クンブ地方に移住してきた」と述べている(文献63)。
  ところが民族移動を引き起こす社会人類学的な原因があっても、自然環境の作る移動経路の容易さが保証されていないと、民族移動は完成しないと考えられる。なぜならば民族移動の完成は力の弱い女や子ども、家畜、生活用具などのすべてを伴う移動を意味するのであるから、もしヒマラヤ山脈に氷河が発達していたとすると越えるのが困難になるからである。船を持たなかった最初のモンゴロイドがアメリカ大陸に民族移動するためには陸橋や氷の橋といった移動経路の容易さを保証する自然の条件が必要であったことであろう。
  ヒマラヤ山脈には、一般にその南側に断層崖が発達している。北側のゆるい斜面とはちがって、南側の崖は数百メートルから時には千メートルに達することがある。だからソル・クンブ地方の峠はどれでも簡単に越えられるものではない。ナンパ・ラは例外的な峠である。なぜかというと、この峠にはゆるやかな氷河がかかっているからである。
  毎年ポスト・モンスーンになるとシェルパの人たちは家畜とともにこの峠を越えてヒマラヤ山脈北側のティングリ村まで商いに出かける。この峠にかかる氷河の規模があまりにも大きくなりすぎても、また氷河がなくなりヒマラヤ山脈南面の急崖があらわれても、彼らの移動は困難となるであろう。はたしてシェルパ族が移動してきた時にもこの峠にはほどよい規模のゆるやかな氷河がかかっていたのであろうか。




  図9はクンブ地域の氷河面積を横軸にとり、縦軸に時間をとってある。また氷河の拡大にともなって形成されたモレーンや気候変動の指標となるC14年代や遺跡の年代測定の結果と、関連事項として内陸アジア変動帯およびその周辺でのヒマラヤの自然史にかかわる出来事をヨーロッパの氷河変動とともに示している。  氷河の歴史で述べたようにクンブ地方の氷河は十六世紀に拡大した可能性があり、それはシェルパ族の移動と同時期となっている。十六世紀は現在よりほんの数百年前にあたり、このような短い期間の地形変化は無視できるので、十六世紀の氷河の拡大をもたらした原因は主として降水量増大や気温低下などの気候条件に求められる。十六世紀ごろの内陸アジアの関連事項を見るとタクラ・マカン砂漠の遺跡群、シルク・ロードの再開、西域の河川水量の増大といった出来事が報告されている(文献64、図9)ネパール中央部のカリ・ガンダキ上流、アンナプルナ山塊の北側に当たるムクティナート地方はラマ教とヒンドゥー教の両方の巡礼地として有名である。ムクティナート地方にはたくさんの廃虚や洞穴の住居跡が見られる。現在のムクティナート地方の村の位置よりも200メートル高い所にある廃虚の壁材として用いられた針葉樹のC14の分析によってこの壁材の年代は十四世紀を示した(図9F)。このようにタクラ・マカン砂漠やネパール・ヒマラヤの現在の村々の上限よりもさらに高い所に村々が栄えていたことや、シルク・ロードの再開や西域の河川水量の増大といった出来事は、気候変化と密接に関係している、と考えられる。オーピッツが述べているシェルパ族の移住は1533年であり、十六世紀の氷河拡大を示す試料のC14の年代は1540プラスマイナス110年BPで1430年から1650年の間であることを示している(図9B)。
  C14による年代は誤差を含んでいるので正確な年代は求められないが、氷河が拡大してしまったとすると民族移動は困難となると考えられるので、十六世紀の氷河の拡大時期はオーピッツの報告が正しいとすると、1533年よりも後に起こったといえるだう。すなわち1533年から1650年の間ということになる。シェルパ族の祖先は、この時期の氷河拡大を知っていることであろう。
  ネパールの山岳民族の中でも最大の人口を持つのは約50万のタマン族である。シェルパ族のように2~3万の人口を持つ小さな民族が多いネパールでは、タマン族は人口に関する限り大民族である。タマン族はもともとはチベットからネパールに移住してきた民族であり、移動時期から三つに分類される、といわれている(文献61)。最初(第一波)にネパールへ移住してきたタマン族はチベット古来のシャーマニズムの影響を強く持っており、第二波のタマン族はシャーマニズムと仏教の両方の影響を持ち、仏教がチベットへ伝来しはじめのころに移住し、そして最も新しい第三波のタマン族はシャーマニズムの影響は少なく仏教の影響を強く受けている、といわれている。何回かの移住の波を持つタマン族の人たちも、ネパール・ヒマラヤの氷河の拡大を知っていることであろうか(図9C)。  このようにヒマラヤ地域の山岳民族の移動時期と氷河の拡大期が相前後して起こっている場合がある。氷河変動などに見られる自然環境の変化は内陸アジアの人間のみならず生物界の変遷にも深くかかわっている、といえよう。
  気候変化は、土壌と植生にも影響を与える。クンブ地域のナムチェ・バザール付近のザロックには、かつての大規模な氷河の拡大期に形成されたモレーンが分布している。このモレーンが覆うレス(黄土)層中に少なくとも三層の炭化木を含む腐植土層が見られる。この腐植土層はドゥド・コシ(川)上流域のクンブ地域をはじめとし、ヒンク地域、ホング地域など広範囲に分布し、ある所では三層見られたり、また別のモレーン上では二層見られることもある。このことから、この腐植土層の年代は氷河拡大時期を示すモレーンや河岸段丘の年代を推定する手がかりとなる。この腐植土層のうち、最も古い層と新しい層から採取した炭化木のC14の年代はそれぞれ6100BCと17世紀であった(図9DI)。三層の腐植土層のうちの第二層の年代はいまのところ不明であるが、これらのことから少なくともクンブ地域では6100BCと17世紀そして現在に、植生に覆われる気候条件があり、上記の年代の間には植生の見られないレスの堆積する時期のあったことを示している。 
  ネパールの首都カトマンズには少なくとも厚さが数百メートルを超える(注21)湖成堆積物が見られる。この堆積物からは新生代後期の象の化石が報告されているので(文献30)、かつてのカトマンズの湖は数百万年の歴史を持っているといえる。この湖が干上がった時期については伝説以外にはっきりとはわからないが、カトマンズ近郊のゴカルナに見られる湖成堆積物上部の泥炭層のC14による分析の結果、カトマンズの一部の人たちが燃料として使うこの泥炭層の年代は約三万年前であった(図9K)。現在亜熱帯的なカトマンズは約三万年前には湿地が広がり、現在の気候とは違って泥炭を作る寒冷な気候が支配していた。
  この湖成堆積物を覆う洪水性堆積物中の土器をネパール人研究者のカーナルとディキシットの両氏が調査している(文献65)。
  この洪水性堆積物から採集されたカトマンズの土器には炭化物が見られ、そのC14による年代は一世紀であった(図9H)。この時代にカトマンズ盆地に住んでいたのは現在のネワール族の祖先といわれるリッチャヴィ時代の人々であると思われる。しかしこのリッチャヴィの人々の五世紀以前の歴史は明かでない、とされている(文献66)。また、この土器の見られる堆積物よりさらに下位の堆積物から、やはりカーナルは磨製石器を発見している。
  ネパールでは磨製石器のことを〝バゼラドゥンガ〟と呼んでいる(図10)。 〝バゼラ(またはバズラ)〟は物が衝突する様子を表現する言葉とのことで、また〝ドゥンガ〟は石のことなので、ネパールの人たちは磨製石器は〝天から落ちてきた石〟で、森の中から見つかる、という。この石器はふつう鉄分を多く含んでいる。私はこの種の磨製石器をランタン・ヒマール南のバルクで、カトマンズ近郊のカカニで、ポカラで、そして東ネパールのイラムで見ている。また東ネパールのクンブ地域にはこの種の石器はないが、ソル地域には見られるとのことである。この磨製石器はヒマラヤ山脈南面の丘陵地に広く分布するものと思われる。  この鉄分を含む磨製石器が鉄鉱石とすると、材料となったと思われる鉱石はネパールの丘陵地に産し、そこには鍛冶屋のカーストのカミンの人たちがいて小規模な製鉄業を営んでいる。ネパールの丘陵地に広く分布すると考えられる磨製石器は、これらカミンの人たちから伝播していったのではなかろうか。
  ソル地域のシェルパの人たちはシェルパ族移動の第一波として十六世紀に来たとされ(文献63)、この石器がソル地域にあってクンブ地域に見られないことや、クンブ地域のシェルパの人たちがそもそも〝バゼラドゥンガ〟という言葉を知らないことから見ると、この磨製石器は十六世紀のあとまでクンブ地域の第二波以後のシェルパの人たちが移住して来る前まで使用されていた可能性も考えられる。  いずれにしても、この石器のことはまだよく調べられていないようだ。ネパールの人たちは腹痛のときにこの石器をくだいて飲むとよく効くといっている。石器時代にヒマラヤ山脈をながめて暮らした人たちの生活もまたヒマラヤ地域の自然史にとって興味ある将来のテーマとなるだろう。

図10 中央ネパール・バルク村の石器

19) ヒマラヤの地域区分

  このようにヒマラヤ地域の気候、氷河や生物などの地域特性を見てみると、ヒマラヤ地域は西部、中部、東部の三地域に区分できるといえる。そして西部と中部ヒマラヤ地域の境界はクマウン・ヒマラヤ周辺に、そして中部と東部ヒマラヤ地域の境界はブータン・ヒマラヤ周辺にあると考えられる。東部ヒマラヤはまずもって夏の降水量の多い地域であり、生物地理学的にも雲南地域の生物群との類似性が強い。また西部ヒマラヤ地域は乾燥域となっており、その生物群は中近東やヨーロッパとの類似性が見られる。ネパール・ヒマラヤ地域は対照的な両地域の移行帯としてとらえることができる。このことが、カラコルム山脈から西部にかけての大規模低位氷河、中部ヒマラヤの小規模高位氷河、そして東部ヒマラヤの大規模低位氷河という氷河現象の地域性にあらわれている。こうして自然現象から見ると、メイスンなどの登山を中心にしたヒマラヤ地域の区分やガンサーなどの地質学からの区分はともに細かすぎ、しかも、ともすれば政治的ともいえる細区分のため、民族学的にはともかく、自然科学的根拠に問題がある。
 また、ヒマラヤ地域の南北方向の地理的概念に関しては、ヒマラヤの地質、河川、氷河、気候の地域特性から、ヒマラヤ地域の北は地質学的に第一級の構造帯となっている超塩基性岩類の分布とほぼ一致するツァンポー河とインダス河とを結ぶ地域から、南は上昇する内陸アジア変動帯の南限としてのシワリーク丘陵地までが内陸アジア変動帯南部地域としての共通の自然史をもつ地域としてとらえることができる。
  地形的雪線の分布や河川系の特徴などからヒマラヤ山脈は内陸アジア変動帯南部地域の自然を南北に分ける境界となっていない場合が見られている。例えば、氷河の氷体温度の測定は中国人研究者の施によってヒマラヤ山脈北側の氷河群に対して、また前や田中によってヒマラヤ山脈南側の氷河群に対して行われ、ヒマラヤ山脈の北側の氷河群も南側の氷河群も、ともに冷たい氷河群の系列に入ることを示唆している(注16)。ヒマラヤ山脈の南側に当たる東ネパールのクンブ地域の氷河群には、ヒマラヤ山脈の南側によく見られる岩屑を多量に含んだ氷河とともにヒマラヤ山脈の北側に見られるような暖かい地形にかかる岩屑をほとんど含まない氷河や岩石氷河が共存しているし、またヒマラヤ山脈の北側に当たる北西ネパールのグルラマンダータ周辺にはヒマラヤ山脈の北側によく見られる暖かい地形にかかる岩屑量の少ない氷河とともに、ヒマラヤ山脈の南面に見られるような岩屑を多量に含んだ氷河や岩石氷河が共存している。
  このことは、ヒマラヤ山脈によってその南側と北側の氷河群の性質が異なる(文献5)と考えるよりも、両者の氷河群には氷河群としての同質性とともに異質性をも見ることができる、といえる。雪線の最も高い地帯が、ヒマラヤ山脈の北側にあるトランス・ヒマラヤに当たることは、夏のモンスーンがヒマラヤ山脈を越えてその北側にまで影響を与えていることを示すと考えられ、このことからヒマラヤ山脈の北側にも、その南側の氷河群の性質が見られてもよいと思われる。チベット高原を中心とする内陸アジア変動帯全域の上昇によって、チベット高気圧の形成とともに中部から東部ヒマラヤにかけての夏のモンスーンが強化されるようになると考えられるが、マハバラート山脈やヒマラヤ山脈の上昇する地形が夏のモンスーンのチベット南部への進入を完全に阻止する障壁とはなっていない、といえるだろう。
  中部ヒマラヤの気候条件に与えるヒマラヤ山脈の地形条件は、マハバラート山脈と同様にむしろ二次的であって、一次的な気候区の境界となるような地形条件は、雪線の最も高い地帯となるツァンポー河とインダス河とに沿うチベット高原上のトランス・ヒマラヤによって作られている。
  ヒマラヤ山脈主稜の北面にチベット的性質を示す自然現象があらわれているが、そこには依然としてヒマラヤ山脈の南面地域の現象と共通した性質が見られることは、ヒマラヤ山脈の北面地域が内陸アジア変動帯の南部地域と中央部地域との推移帯となっていることを示している、といえよう。トランス・ヒマラヤ以南のネパール・ヒマラヤなどの氷河は中部ヒマラヤ氷河群としてとらえられ、まぎれもないチベット的自然現象はツァンポー河とインダス河とを結ぶラインの北に見いだせるのではなかろうか。このあたりにヘディンがヒマラヤ山脈のさらに北側の連山をヒマラヤの名のもとにトランス・ヒマラヤと呼んだ、彼一流の洞察が込められていると思われる。

20) おわりに

  東ネパールをはじめとする中部ヒマラヤの氷河群が拡大するためには、上昇するヒマラヤ地域の地形条件に打ち勝つように、夏のモンスーンが活発となり、降雪量を増大するようになる気候条件を考えねばならない。ところが、マハバラート山脈とヒマラヤ山脈が著しく上昇したため、そうした中部ヒマラヤの氷河群を拡大させるような気候条件は考えにくく、それとともに、カラコルム山脈や西部ヒマラヤや東部ヒマラヤの氷河群を発達させるような地形・気候条件に変化してきている、といえる。このようなヒマラヤ地域の自然環境の地域性とその歴史性は、過去から現在までの人間を含む生物に影響を与えてきたとともに、また将来のヒマラヤ地域の自然史の方向を示すと考えられるのである。
  ヒマラヤ地域の自然について、われわれが見いだす多様な地域特性の中に、内陸アジア変動帯の一つであるヒマラヤの上昇とともに変化し続けてきた自然現象の歴史性を見ることができる、といえるであろう。
  地球の歴史に登場した、かつての山岳地帯はすべてその高度を減じていった。ヒマラヤ山脈などの内陸アジア変動帯の山岳地域もその例外とはなり得ないであろう。
  ヒマラヤ地域が上昇する過程で、自然現象の地域性が出現したといえるが、悠久とも思える地質学的将来において、内陸アジア変動帯とともにヒマラヤ地域が高度を減少させ、現在見られるような地域性を持った地形・気候特性が失われてゆき、やがては新たなるグローバルな気候条件と広域性を持ったヒマラヤ地域などの地形条件とが絡み合った自然史を作り出してゆくことであろう。だがそのときはもうこの地域をヒマラヤとは呼べないかもしれない。
  ここでまとめたいと思っていたのは、ヒマラヤ地域が陸化し上昇を続けて、ついには世界最高の山岳地域となるに至る、その自然の歴史性と地域性についてであった。しかしながらなにぶんにも氷河中心の見方となってしまい、広大なヒマラヤ地域の自然史をまとめきれていない。ヒマラヤ地域を含む内陸アジア変動帯の自然史を編んでいく研究はまだ始まったばかりである。ヒマ・アラーヤの神々は依然として未知のベールを厚くまとっている。
  冒頭で述べたヒマ・アラーヤ・バーワンは1977101日テーチス研究所として発展し現在に至っている(『テーチス・リサーチ』第一号、1979年、テーチス協会)。ヒマラヤ地域をはじめとした内陸アジア変動帯は、新生代後期の一つの極を示すものであり、地域学としての総合性を持っていると思われる。しかし内陸アジア変動帯の研究は、それ自身で完結する地域学でありえない。グローバルな自然史との関連性を忘れてはならないであろう。
  1979630日の朝日新聞夕刊に「谷川岳に氷河遺跡の波紋」と題して次のような記事が見られた。記事の主旨は氷河遺跡が天然記念物に指定されれば、観光に利用したいのだが、観光開発にストップがかかるので地元で問題になっているとのことだ。だが興味を覚えたのは、日本人研究者はこの谷川岳の氷河遺跡が氷河時代の後期(約二万年前)のものと考えているのだが、「西ドイツなどの氷河学者に立ち合ってもらったうえ結論を出す」という点であった。これはなんとも気の弱い話ではなかろうか。私は今西錦司のいう「セオリーの奴隷になっている人ばかりなんや。わしは奴隷になるぐらいやったら死んだ方がよっぽどましや」(『今西錦司の世界』1975年、平凡社)という重みのある発言を思い出すばかりである。
  このヒマラヤ地域の自然史をまとめるにあたりテーチス協会の多くのかたがたにコメントをいただいた。中でも木崎甲子郎、渡辺興亜、在田一則、名越昭夫、松田益義の諸氏からは行き届いた指摘をしていただいた。これらの諸氏に感謝する次第である。また、カトマンズにて独力で考古学調査を進めておられるカーナル、ディキシット両氏に、そして約四年半にわたるフィールド調査をともにしたヒマラヤの高地の人たちにも併せて感謝する次第である。なおC14の年代測定のための分析は学習院大学の木越研究室にて行われた。
  最後に、これを書き終えた197996日の朝日新聞に再び雲南省で800万年前のほぼ完全な猿人の頭骨が三指馬、象、サイ、バクなどの新生代後期の動物とともに発見されたことが報道された。ヒマラヤの自然史と関連する新しい発見の報告を紹介して、筆をおきたいと思う。

                           ホング谷上流のホング・ヌップ氷河湖からチャムラン峰を望む。

〈注〉

1 Contributions from the Tethys Society, No.25
  Troll,C.(1972): The three-dimensional zonation of the Himalayan sys-  tem. Geoecology of the high-mountain regions of Eurasia, edited by Tr-  oll C.,Franz Steiner Verlag GMBH, Wiesbaden,p.264-275.
3 石井博(1977)「民族の分布」『朝日小事典ヒマラヤ』川喜田二郎編、朝日新 聞社、43-44ページ。
  インド測量局が再測した時には、頂上に測量用ボールを立てていないので、 詳しい高度を出す場合には頂上の位置などの誤差が問題となる。また中国は青 島の海水準を基点としていると報告しているのに対し、インド測量局の基準点 はベンガル湾またはアラビア海にあると考えられ、これら両基点の平均海水準 の値は異なっていることと、またヒマラヤ地域周辺でのジオイドの形の算定方 法や大気の密度差による角度の修正方法も両者で異なってくると思われるが、 それらが互いにうち消し合って両者ともほぼ近い値となったと考えられる。
  テーチス海が次第に縮小してゆき中生代後期に貨幣石が堆積したのをもって 陸化したことを1860年代に西チベットを探検したストリックザ(StolicKza,Me  mo.Geol.Survey of India,1864)が報告した。
  内陸アジア変動帯の地震の分布を見ると、深さ100キロ以浅、マグニチュード  四以上の地震は、ヒマラヤ山脈やパミールから天山山脈などの山岳地帯に広く 分布する。しかしその深さ100キロ以深、マグニチュード四以上の地震は、この 対曲構造が発達するヒマラヤ地域の西端と東端にしかあらわれていない。深発 地震と対曲構造とが、どのように関係するかについてはうまい説明がなされて いないようだ。  
  ストラッチィは南北方向の運動を重要視していないようだ。またこの花こう 岩は、第三紀のものと考えられているが、彼はその時代を古生代前期より古い ものとしていた。彼は、ヘディンよりも前にカイラス、マナサロワール湖周辺 を調査しており、サトレジ河の源はラカス湖であることをすでに報告している。8  スウェン・ヘディン(1925)『探検家としてのわが生涯』山口四郎訳、白水 社、1966年。
  1956年のスイスのエベレスト・ローツェ隊隊員のミューラーは、遠征隊終了 後もクンブ氷河に残り、氷河流動測定や質量収支の観察を続け、ヒマラヤ山脈  のふもとに当たるクンブ氷河の一年間の降水量が300400ミリしかないことを 見いだした(文献41)。一方、上田はクンブ地域内の降水量分布について「ヒ マラヤ山脈の主稜に近づくにつれて降水量は減少するが、氷河の分布する稜線 付近の降水量は谷の中の降水量よりも多い」[Ageta,Y.(1976): Characteris-  tics of Precipitation during Monsoon Season in Khumbu Himal. Seppyo,    Special Issue,38,84-88]ことを述べ、地形的な対流活動によって形成される  積雲が氷河の涵養にとって重要であることを報告している。また樋口は、ネパ  ール・ヒマラヤでは夏期の降水量の60%が夜間雪として降ることの効果につい  て、「もしも夜間の降雪が昼間に雨として降ったら、ヒドン・バレー地域のリ  ッカ・サンバ氷河の末端は後退し、現在よりも70メートル高くなる」[Higuc-  hi,K. (1977): Effect of the Noctural Precipitation on the Mass Balance  of the Rikha Samba Glacier, Hidden Valley, Nepal. Seppyo, Special Iss-  ue,39, 43-49]と述べネパール・ヒマラヤの氷河の形成にとって夜間の降水量  の多いことの重要性を指摘している。
10  1979年の雪氷学会にて講演した施雅風[Shi Yafeng (1979): Some achieve-  ments on mountain glacier researches in China]は、東部ヒマラヤの氷河は  長さが33キロあり、末端高度が2 530メートルであることを報告した。
11  チベット高原を中心とする内陸アジア変動帯の上昇地域は、冬期の放射によ って冷やされたシベリア地域の大気が南へ流れ出すのを防ぎ、この変動帯の北 側に大気を蓄えるダムの役目を果たしているといわれている。中村一は、大気 大循環の数値実験から、チベット高原などの地形条件が東西風を減速させ、高 圧帯を北上させたことによってユーラシア大陸では乾燥地帯がチベット付近で は高原の北側にあり、アフリカやアメリカなどと比べて北上していることを論 じている。中村一(1978)「数値実験から見た大気大循環に対する山岳の力学 効果」『天気』第25巻第9号、1-26ページ。
12  このような大規模な氷河拡大があったとする考え方に対して、ハイムとガン サーはクマウン・ヒマラヤの調査から〔アーノルド・ハイム、アウグスト・ガ ンサー(1938)『神々の御座』尾崎賢治訳、あかね書房、1967年〕、そして今 西はネパール・ヒマラヤのマルシャンディ川流域の調査から(文献38)、とも にヒマラヤの氷河が大規模に拡大したことに疑問を投げかけている。
13  The Late Cenozoic Glacial Ages, edited by K.K. Turekian(1971), Yale   Univ. Press, PP. 606.
14  I.D. Hooker (187597): Flora of British India.フッカーの生物地理学的 研究はその後の研究者に強い影響を与えたが、当時鎖国状態となっていたネパ ールの資料が次第に集まってくると、フッカーの西部ヒマラヤと東部ヒマラヤ 区分の中間に、中部ヒマラヤ植物区を分ける考え方がチャタルジー(1940)に よって出された。また地理学者のシュペート〔Spate, O.H.K.(1954): India    and Pakistan.London.〕も、ヒマラヤを東西に三区分している。          
15  北村四郎(1956)『砂漠と氷河の探検』木原均編、朝日新聞社。北村は、日  華区系の植物分布がヒマラヤ山脈の南を通り、アフガニスタン東部のヌーリス タンまで続いていることを示し、ヒマラヤ地域は植物分布の連続した通路でヒ マラヤ地域を生物地理学的に区分できな  い、と報告している。
16  施、その他(文献56)は19665月にヒマラヤ山脈北側のロンブック氷河で氷 温測定を行い、表面から3メートル以下で摂氏零下四度を、またヒマラヤ山脈 の南側の氷河の氷温については、前(1976)が19748月にクンブ氷河表面2メ ートルで摂氏零下二度を、そして田中(1980)はクンブ地域の南に当たるショ ロン・ヒマールの氷河の氷温が197869月に、表面から10メートル下で摂氏 零下三度~零下五度となっていることを報告している。Academica Sinica (19  75): Basicfeatures of the glaciers of Mt. Jolmo Lungma region, southe-  rn part of the Tibet Autonomous region China Scientia Sinica, Vol.18,   106130. Mae,S.(1976): Ice temperature of Khumbu Glacier.Seppyo, Vol.  38 Special0 Issue,3738. Tanaka,Ageta, Y.and Y.,Higuchi K.(1980): Ice  Temperature measurement in the surface layer of Glacier AX 010,Shorong  Himal, East Nepal. Seppyo. Vol.41,Special Issue,55-61.
17 この発見とともに同時代の氷河の堆積物も報告され、この氷期が竜川氷河と 命名された、とのことである。
18  ストラッチィ(文献25)やハーゲン(文献30)も述べているように、水蒸気 の供給地として古ガンジス海(ガンジス平原が海であった時代)とともに、西 方からの水蒸気輸送経路に当たるカスピ海、ベルシャ湾などの地史的変化など も、ヒマラヤ地域の降水量パターンに大きな影響を与える、と考えられる。
19  東ネパール、クンブ地域のロブチェ氷河などでは、現在の氷河末端とは離れ、  かつて氷河末端付近に多量の岩屑をかぶった化石氷体が見られる。このことは 現在の岩屑量の少ない氷河がかつては岩屑量の多い氷河(ロッキー氷河と呼ん でおく)であったことを示しており、いわゆる氷河とロッキー氷河とが互いに 移行することを示している〔Fushimi,H. (1977): Structural studies of gl-  aciers in the Khumbu Himal. Seppyo, 39, Special Issue,30-39〕。また、さ  らに氷河の涵養における降雪の寄与が減少し、逆に岩屑量が増加すれば、ロッ  キー氷河は岩石氷河へと移行することが考えられる。クンブ地域には、これら  の岩石氷河やロッキー氷河やいわゆる氷河が分布しており、各氷河がいかに変 化してきたかという氷河群の歴史と、質的に異なる各氷河の分布の特性とから、 氷河群の歴史性と地域性を作ってきた支配要因を明らかにすることによって、 将来の氷河像をを描くこともできるだろう。
20  藤井によって、氷河表面を覆う岩屑が2センチ以上になると融解が抑制され、 0.5センチで最も融解が進むことがヒマラヤの氷河で確かめられている。〔Fu-  jii,Y.(1977): Field Experiment on Glacier Ablation under a Layer of D-  ebris Cover.Seppyo,Special Issue, 39, 20-21〕。下流域よりも上流域の方が  岩屑量が薄く、薄い岩屑は太陽の輻射熱をよく氷体に伝えるために、ロブチェ  氷河などでかつての氷河の中流域が解けさったと考えられる。
21  カトマンズ盆地の天然ガス調査のためにボーリングがおこなわれ、湖成堆積 物は数百メートルから1000メートルもの厚さがあるともいわれていたが、森林 成生と丸尾祐治による重力調査の結果、最大650メートルであること(Person-  al Communication)が明かとなった。
22  Fushimi, H. and Ohata, T.(1980): Fluctuations of glaciers from 1970   to 1978 in the Khumbu Himal, East Nepal.Seppyo, Vol.41 Special Issue,p.  71-81.
23  Muller,F.(1970):Inventory of glaciers in the Mount Everest region.
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    Higuchi,K.,Fushimi,H.,Ohata,T.,Takenaka,Iwata,S.,S,Yokoyama,K., Hig-  uchi,H., Nagoshi,A. and Iozawa,T.(1979): Glacier inventory in the Dudh  Kosi region, East Nepal. Riederalp Workshop, Sept. 1978, IASH publica-  tion  No. 126.

                             マナスル峰南西のツラギ氷河湖とフンギ・ピークを望む。

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42  F.ミュラー。1978年スイスで催された氷河台帳についてのシンポジウムで、 樋口敬二名大教授が聞いた Personal Communication による。
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54 松田雄一(1975)「ヒマラヤを越える渡り鳥」『シンポジウム・ネパール、 第四回ネパール研究学会報告』63-76ページ。
55 Hahn, D.G. and Shukla, J.(1976): An Apparent Relationship between E-  urasian Snow Cover and Indian Monsoon Rainfall, Journal of Atmospheric  Science, Vol.33,p.2461-2462.
56  中国科学院蘭州冰川凍土砂漠研究所冰川研究室(1974)「我国西蔵南部珠穆 朗瑪峰地区冰川的基本特性」『中国科学』1974年第四期383-400ページ、牛木久 雄訳、『雪氷』(1976年)381号、32-51ページ。
57 横山宏太郎(1978)「カラコルムの氷河の形態的特徴(序)」『日本雪氷学 会秋季大会講演予稿集』124ページ。
58 水津重雄、西村寛、西村浩一(1978)「カラコルム氷河調査(Ⅲ)-ビアフォ  氷河の流動と質量収支-」『日本雪氷学会秋季大会講演予稿集』128ページ。
59 Department of Hydrology and Meteorology (1977): Climatological Reco-  rds of Nepal, Ministry Food, Agriculture and Irrigation, Nepal,pp.366.60 古川宇一(1974)「グルンの人々の由来について」『シンポジウム・ネパー ル、第三回ネパール研究学会報告』77-82ページ。
61  黒田信一郎。19799月に「第八回ネパール研究学会」で開いた Personal    Communication による。
62  Haimendorf, F.(1964): The Sherpas of Nepal. Oxford Book Co.,London,   pp.298.
63  Oppitz, M.(1974): Myths and Facts, Reconsidering some data concerni-  ng the clan history of the Sherpas. Kailash, Journal of Himalayan Stu-  dies, Vol.,No.1 and 2,p.121-131.
64 保柳睦美(1976)『シルクロード地帯の自然変遷』古今書院。
65  MM・ディキシット、M・カーナル。197612月にカトマンズで開いた Per-  sonal Communication による。
66  神原達(1977)「古代・中世のネパール」『朝日小辞典ヒマラヤ』川喜多二 郎編、朝日新聞社、74ページ。

                                     ポカラから望むマチャプチャリ峰。

補遺

  本文の原稿を五年ほど前に書いてから、出版に至る間に、ヒマラヤ研究は大きく前進した。
  まず、1980年には北京で、青蔵高原科学討論会が開かれ、約240名の中国人と18ケ国から約80名の外国人研究者が集まった。なかでも、中国人研究者によるヒマラヤを含むチベット高原周辺の広範囲にわたる調査が急速に進み、今後中国人研究者の成果を抜きにしてはヒマラヤを語ることができなくなった、との感を深くした。この討論会終了後には、長いこと禁断の国であったチベットへの旅行が許可され、私たちは、トランス・ヒマラヤからヒマラヤ山脈までのチベット高原を横断し、カトマンズに達したのだった。
  また、日本人研究者による1970年代から80年代にかけてのヒマラヤ研究も見逃すことはできない。名古屋大学水圏科学研究所の樋口敬二教授を隊長とするネパール・ヒマラヤ氷河学術調査隊やヒマラヤ山脈のダイナミックスに関する研究(琉球大学、木崎甲子郎教授隊長)、言語学を中心とする社会人文学調査(東京外国語大学、北村甫教授隊長)などの組織立った研究が進んだ。これらの計画的な研究班とは別に、個人レベルでの広範囲にわたる調査や登山隊に加わった隊員による研究成果は、例えば、日本ネパール協会のシンポジウム・ネパール(理事、筑波大学、川喜田二郎教授)やテーチス海地域自然史研究会(代表、名古屋大学、渡辺興亜氏)、ヒマラヤの自然氏を語る集い(代表、京都大学霊長類研究所、和田一雄氏)によって集積されつつある。このような日本人研究者の活動は、ネパール・ヒマラヤに集中している傾向が見られるとはいえ、80年代に入ってからもますます活発となってきている。  そして、国際的にもMAB(国際生物学事業計画)や国連大学の活動と関連したネパール・ヒマラヤの植生分布図やハザード・マップ(Hazard Map)などがまとめられつつある。  以上のような1970年代中ごろから80年代にかけてのヒマラヤ研究の目覚ましい進展があるので、新しい成果を書き加えたいところであるが、ページ数の都合でできなかった。
 最近のヒマラヤ研究に関しては、                           
  「内陸アジアの氷河群-氷河現象の地域性と歴史性について-」地球、2巻、3号、201210ページ、1980年。
  「内陸アジアの自然-青蔵高原科学討論会の報告とチベット高原の見学旅行-」地球、2巻、10号、707726ページ、1980年。
  「ヒマラヤの自然史概説」シンポジウム・ネパール、第7回・第8回ネパール研究学会発表論文集、日本ネパール協会、4761ページ、1980年。
  にまとめ、私の考えを述べているので、興味のある方々はぜひ参照いただきたい。
なお、本文は「ヒマラヤの自然史. ヒマラヤ研究, 原真・渡辺興亜編, 山と渓谷社, 1983, 179-230.」 で発表したものを改編した。

                                     マナスル峰西面の夕焼け。