2023年12月18日月曜日

琵琶湖水位考

琵琶湖水位考

1)  はじめに

毎日新聞 2023/11/27(資料1)によると、「滋賀県は27日、少雨の影響で琵琶湖の水位が基準水位からー65cmとなったため庁内に連絡調整会議を設置した。設置は202111月以来2年ぶりで、「環境などへの影響を調べるとともに節水を呼びかける」という。琵琶湖水位が-75㎝になると渇水対策本部を、さらにー90cm以下に達すると、知事を本部長とする渇水緊急対策本部を設けて対応することになっている。

琵琶湖は「近畿1450万人の水がめ」と呼ばれ、琵琶湖水位が注目されている。私は、瀬田川沿いの散歩で京滋バイパスの橋下に示されている毎日朝6時の水位・放流量の表示板(P1P2)を写真で記録することにしている。デジカメだからこそできることだが、一種のフィールド・ノートのつもりだ。そのフィールドノートを見ながら、琵琶湖の水位・放流量を示す表示板に表示されている「水を大切に」(P1)の視点から琵琶湖水位考を報告する。

資料1

琵琶湖の水位ー65センチ 明智光秀の城跡も顔出す 「節水を」

https://mainichi。jp/articles/20231127/k00/00m/040/206000c

P1) 京滋バイパスの橋下にある表示板   P2) 表示板に示された水位・放流量

 

2)  琵琶湖水位

 琵琶湖水位は湖岸5か所の水位の平均値で示されるが、1992年までは瀬田川の唐橋にある鳥居川水位観測所(P3)の値で明治以来計測されてきた。鳥居川水位観測所は琵琶湖より下流にあるので、従来の鳥居川水位は現在日々報告されている琵琶湖水位よりも10㎝程度低い。そのため明治29年(1896年)の最大水位+378cm は唐橋東側の夕照山西光寺門前の石柱に示されている(P4の矢印)が、現在の水位の換算すると+390cm程度にもなる。当時の豪雨のすさまじさとともに、人間による環境破壊が進んだ琵琶湖集水域の浸食作用によって、唯一の流出河川である瀬田川周辺が土砂で埋まり、流れにくくなったため、出水時の琵琶湖水位が著しく上昇してしまったことを示しています。

 

P3) 唐橋の鳥居川水位観測所      P4) 西光寺の最高水位を示す石柱(矢印)

琵琶湖では、明治前半までは水位上昇が大きな問題であった。洪水にしばしばみまわれていたからである。琵琶湖のかつての水位上昇の原因は人為的な山地の破壊で、多量の土砂が琵琶湖に流入・堆積し、琵琶湖からの流れを堰きとめるようになっていたからとみなせる。

琵琶湖から流出する瀬田川の南郷には1905年(明治38年)に旧洗堰が、その下流に1961年(昭和36年)に現在の洗堰(P5)が設けられているので、琵琶湖は一種のダムといえる。従って、琵琶湖水位は、集水域の降水量と河川流入量、南郷の洗堰および他の流出箇所である京都への琵琶湖疎水(P6)と宇治発電所用水路(P7)への放流量、および琵琶湖からの蒸発量のそれぞれの兼ね合いで決まります。

P5) 南郷の洗堰          P6) 京都への琵琶湖疎水  P7) 宇治発電所用水路

それでは、かつての琵琶湖の水位上昇速度はどのくらいになるのか。まず5千年ほどまえの縄文遺跡が、最近の水位-2mの湖底に広く分布する(粟津遺跡など)ことから推定すると、湖岸地域の沈降を無視すると、縄文時代からの水位は2mほど上昇したことになる。すると、平均水位の上昇速度は1年で0.4mmである。しかし、縄文時代はその後の新しい時代よりも、より自然と共存する生活環境だったから、山地破壊などは少なかったと考えると、近代の環境破壊の激しかった時代の値と比べれば、縄文時代の上昇速度はもっと少ないはずだ、と思う。その証拠に、戦国時代の長浜の太閤井戸や資料1にも報告されている明智光秀の坂本城の城跡が、琵琶湖水位が-1mちかくになると、現れることから見積もると、5百年ほど前の戦国時代からの水位上昇速度は1年で2mmとなる。どうやら、戦国時代からの上昇速度は縄文時代よりは1桁ほど大きいようだ。いずれにしても、琵琶湖は歴史時代を通じて水位が上昇し続けているのは、人間による環境破壊が時代とともに進んできたことを示す、と解釈できる。

P5P7は2023年12月7日に撮られた写真で、南郷洗堰(P5)では、10ある水門のうち左右の2水門からしか放水していない。琵琶湖からの1日の合計放流量は、 南郷洗堰からは毎秒25トンだから1日216万トン、琵琶湖疎水からは毎秒9トン程度の場合は1日78万トン、宇治発電所用水路からは毎秒約45トンと言われているので1日389万トンで、合計683万トンになります。この値は近畿地方の1450万人の1日使用量685万トンにほぼ匹敵します。ちなみに、琵琶湖水位1㎝は670万トン程度ですので、琵琶湖水位1cmの低下で近畿地方の大部分の人達の水資源を賄っていることになる。琵琶湖水位1㎝といえども、面積が約670km2と大きいので莫大な水資源になる。ただ、琵琶湖からの放流量に占める宇治発電所用水路からの割合が半分以上にもなることを忘れてはならない。

ところで、琵琶湖集水域で降水量がなかった12月6日の水位―70P8)が、12月7日にー71㎝(P9)になり、琵琶湖水位が1低下したのは、近畿地方の1450万人の1日使用量を琵琶湖から放流したことを示している。このまま、通常の放流状態と少雨傾向続けば、琵琶湖水位は1日1㎝程度低下する可能性が高いので、1月には渇水対策本部設置の水位-75㎝からさらに低下し、知事を本部長とする渇水緊急対策本部ができる水位ー90cm以下に達する可能性がある、と推察せざるを得ないのは残念である。さらに、琵琶湖地域の冬の雪や雨にも恵まれなければ、2月には1994年に記録した水位ー123cmに迫ることも覚悟せねばなるまい。

P8) 12月6日の表示板                              P9) 12月7日の表示板

ところが、12月2日から5日までの洗堰の放流量が毎秒25トンと一定であるのに、琵琶湖水位が4日間ー69㎝と同じ値を示した(P10P11)のは、流入河川水量の寄与とともに、琵琶湖疎水と宇治発電所用水路からの放流量減少があったのかもしれない。そのことを示すように、2023年12月7日の琵琶湖疎水では放流量がゼロで、琵琶湖疎水の底が見えていた(P6)のである。しかしながら、放流量全体から見れば、その割合の少ない琵琶湖疎水よりも、前述したように、その割合が大きい宇治発電所用水路からの放流量をできるだけ抑えたほうが琵琶湖の水資源の保全にとって現実的な方策になると思うのだが、どうだろうか。

P10) 12月2日の表示板         P11)  12月5日の表示板

 

3)  琵琶湖の水位変化と環境変遷

  琵琶湖は、古代や中世、前近代を通じて内陸の水上輸送・交通の要衝であった。江戸時代には、何百もの15トン級の船が湖上を行き来していたといわれる。奈良や京都時代の首都は琵琶湖に近いため、首都の繁栄は、北前船などによって運ばれた食料などを琵琶湖の船によって運ばれる物資に依存していた。19世紀になって鉄道が敷かれると、内陸航路は急速に見捨てられ、琵琶湖は水資源としての重要な、新しい役割を担い始めた。京都へ湖水を運ぶ琵琶湖疏水が1890年に建設され、京都に水資源や電力を供給し、東京遷都によって衰えた京都の復活とともに、淀川を通じて供給される湖水は近代的な工業・政治の中心としての京阪神地域の都市開発に大きく貢献した。琵琶湖の水資源は1950年代の後半に始まった戦後の急激な経済成長にとってさらに重要なものとなったのである。したがって、琵琶湖総合開発計画(1972ー1991年)と呼ばれた国家的な観点からの大きな水資源開発計画が始まった。琵琶湖の持つ意味が物の流れから水の流れに変わったのである。

かつての琵琶湖岸には遊水池の役割をする内湖などの池や沼が連続的に分布していた(P12)。琵琶湖周辺の平野部はもともと水田だが、その地下は軟弱な泥の地層そのもので、水田になる前は池や沼であったことを示している。自然はもともとうまくできているもので、琵琶湖に入る前にまず第1段階の湖岸の遊水池で水量・水質調整を行なう湿地があった。そして、第2段階の琵琶湖の役割を経て、淀川流域全体を見ると、第3段階の調整機能として宇治・枚方地域の巨椋池があった(P13)のである。このような段階的な構造が琵琶湖・淀川流域の水循環に関する自然構造になっていたが、この第3段階目の機能も第1段階と同様に開発のための埋立てによってほぼ消滅した。琵琶湖総合開発の基本的な性格は淀川流域全体からみると、第1段階や第3段階の貴重な自然の調整機能を果たしてきた地域を改変・開発してきた歴史のなかで、水資源利用の目的で、最終的には環境保全のための調整機能を、第2段階の役割をしてきた琵琶湖だけに一局集中化させたものと解釈できる。従って、ますます琵琶湖に負担がかかってしまう開発を行ってきたのである。

 

P12)  琵琶湖の内湖分布     P13)  かつての巨椋池の分布

近年の琵琶湖周辺では、観光やリゾート開発も著しく進んでいるが、皮肉にも、琵琶湖が水資源と湖のリゾートとしてますます重要になってきたときに、琵琶湖の水質は富栄養化によって急速に悪化した。富栄養化は1960年代には未処理の工業排水によって引き起こされたが、1970年代および1980年代になると、水質汚濁防止法(1970)の施行で工業排水への規制が厳しくなったため、家庭排水による栄養塩の負荷が相対的により重大になる。琵琶湖集水域の都市化と人口増加の進行もこの傾向に拍車をかけた。琵琶湖と淀川流域の環境課題に関与する滋賀県は、日本の内陸水の汚染に対して、一連の条例を施行することによって率先して取り組んできた。例えばその一つが、1980年に日本で最初に取られた有リンの合成洗剤の禁止であった。加えて、活発な住民運動の影響によって、琵琶湖の水質は改善の兆しを見せてきた。

 そこでまず始めに、琵琶湖総合開発計画を考えてみる。これは政府と関係府県である滋賀県や京都府、大阪府、兵庫県の行政機関が共同で行う多目的総合計画で、この計画は、一つには下流の大都市に琵琶湖からの水の供給量を増大させるための水資源開発と、他方、洪水対策や水質保全を目的にしている。その目的のために、湖水位の変動幅が相当大きくなり、数年に1回程度の頻度で異常高・低水位が発生する。このような新しい状況に対処し、また洪水時に湖岸低地の浸水を防ぐために、平均湖水位からの高さ2.6mの湖岸堤が湖岸線沿いに建設されている。このことが湖岸の湿地植生をかなり破壊したため、住民の反対運動を引き起こした。一方、琵琶湖総合開発計画によって集水域の人口密度の高い地域では、下水道網と高次の下水処理施設の建設が行われ、富栄養化の制御に十分役立つことが期待されている。

 つぎに、琵琶湖総合開発計画以来、滋賀県は国と協力したり、または独自に、次のような環境政策を進めてきている。

a)重要な自然のエコトープと美しい景観を保護する目的で湖岸沿いの私有地の購入。

b)本来の公共の目的ための特別な場合を除き湖岸沿いの干拓の禁止。

c)湖岸地帯の3つの管理地域区分の設定:第1地域は自然の湖岸エコトープ保全のため人工化を加えない保護地域、第2地域は自然景観が基本的には保護され、ある種のレクレーション活動が許される地域、第3地域は多かれ少なかれ自由な土地利用が許される地域である。この区分に基づいて、各地域の規制は担当機関が直接管理しているが、現状は湖岸沿いの非常にせまい地帯だけに適用されている。そのため、この様な管理原則が近隣の私有地にも拡張されることが望ましい。

 d)湖岸から一定距離内で周辺の景観と調和しない建物や建設作業を管理する、いわゆる景観条例の施行。

 進行しつつある水資源・観光開発と自然保護の競合はおもに次の3つの観点に表れる。

 1)観光客の増大による湖への栄養塩負荷の増大。

 2)湖岸植物群落やエコシステムの破壊または衰退による生物学的多様性と水質浄化作用の減少。

 3)自然および文化的に引き継がれてきた景観の損失または破壊。

 富栄養化を引き起こす重要な物質であるリンの負荷に関しては、家庭系排水が年間の総負荷量1501kg/日(1985年)の37%を占めているが、そのうち観光客の占める割合は10%以下である。しかしながら、近い将来大規模なリゾート開発が行われると、ほとんどのリゾート地域は公共下水道のない郊外にできるので、湖への栄養塩負荷の重要な原因になる可能性がある。

 湖岸の湿地帯の植生を保護しようとする住民の抗議に答えて、ヨシやヤナギ、ハンノキなどを堤の前面に残すよう、湖岸堤の設計が変更された。ヨシ帯の回復もまた人工的な植栽によって試みられているが、保存または回復地域は湖岸堤建設によって失われた面積よりもはるかに少ないのが現状である。さらに、開発設計者が親水性の公園景観に変えるため、湖岸湿地の森林や低木林地帯を狭くしがちなことが、湖岸植生に悪影響を与えている。ヤナギやハンノキが残されている地点はこのようにして破壊されようとしている。計画者と住民、社会に対して自然湖岸のエコトープとその機能の価値を理解してもらうために、さらなる努力が必要である。

 景観設計には慎重な決定が必要とされるが、誰にでも受け入れてもらう決定をするのは難しい。それにもかかわらず、湖岸景観の望ましい設計に関していくつかの基本的な原則があるべきである。たとえ洪水や侵食に対する湖岸線の保護のために人工的な構造物が必要なときでさえも、湖岸湿地の重要性は言うまでもないことで、湖岸の連続的な緑地帯の後背地に目だたないように配置することが望ましい。湖上の船からの景色は湖の顔であるので、できるだけ自然に、そして美しく保全すべきである。

 滋賀県は琵琶湖の現状と課題について「琵琶湖に流入する汚濁負荷の低減により、富栄養化については改善傾向が見られる一方で、難分解性有機物の増加や栄養塩バランスの変化といった新たな課題や、水草の大量繁茂やオオバナミズキンバイなど侵略的外来水生植物の増加、外来魚の増加や在来魚介類の減少といった生態系の課題も顕在化している。さらに、森林の荒廃による多面的機能の低下、ニホンジカ等による獣害、琵琶湖と暮らしの関わりの希薄化など、琵琶湖を取り巻く環境にも多くの課題が生じており、琵琶湖が直面する課題は多様化するとともに、より複雑なものとなっている」との観点から、琵琶湖の環境課題解決のための方策を行っている。

 

4)  むすび

琵琶湖の「びわ」は、もともとの住民であるアイヌ系の縄文人の言葉では「水が出る、湿った土地」の意味があるといわれ、2000912日の東海地方の洪水被害をうけた西枇杷島町の「びわ」と共通性があると思われる。こちらは楽器の琵琶、むこうは果物の枇杷を当て字にしているが、語源は同じであろう。つまり昔の住民は、われわれが失いかけている地域環境の特徴を把握し、かつそれへの心構えをしていたことを示す。寺田寅彦(1934)が“天災と国防”の中で「昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠実であった。過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に堪えたような建築様式のみを墨守して来た」と述べているように、地域環境と共存してきた住民の伝統の知恵を忘れてはならない。

 日本人の考え方の大部分は依然として経済的な開発志向だが、共通の社会的財産としての自然美と調和した景観を保全しようとする意識は、ゆっくりとではあるが成長し始めている。はたして、そのような見方・考え方が成熟するまで、しばらくのあいだ待つべきだろうか、それとも、その見方・考え方の成長を早めることができるだろうか。そこで、自然の巧みな構造・機能に学び、それぞれの段階ごとの調節機能が働くような方策が環境改善のためのヒントになる、と思う。広域的な環境問題を解決する場合も、琵琶湖集水域や淀川流域に見られたローカルな各段階ごとの機能をできるだけ回復させることは必要であるが、自然が豊かであったかつての縄文時代にいきなり戻るのは非現実的としても、環境保全のための調整機能を一局集中化させられてしまった琵琶湖への負担をできるだけ和らげることが環境保全のためにも肝要であろう。京滋バイパスの橋下に示されている琵琶湖の水位・放流量を示す表示板に「水を大切に」(P1)と表示されているのはそのことを訴えている。