2012年9月4日火曜日

ツラギ氷河湖調査報告


ツラギ氷河湖調査報告

                               伏見碩二(ネパール・ポカラ国際山岳博物館) 

         ツラギ氷河湖(赤点は観測点、青線はGPS踏査ルート)

1)はじめに
世界各地の山岳地域は、北極や南極などの極地同様に、地球温暖化の影響を強くうけ、氷河の融解によって氷河湖が拡大し、ヒマラヤでは氷河湖が決壊し、洪水災害などに見舞われている。ネパールでは1970年代以降数年ごとに、また私たちが調査してきたクンブ地域ではほぼ十年ごとに川沿いの村々や橋・道路をはじめ発電所までもが被害を受けている(文献1)ので、ヒマラヤの環境変動の中でも、氷河湖洪水の災害問題は緊急な解明を要する重要なテーマである。
私が従事する国際山岳博物館の設立目的にはヒマラヤ地域の環境保全と地域住民の生活環境の向上が掲げられているので、このような住民生活に密接に関係する氷河の環境変動のテーマを当博物館は避けて通ることはできない。そのため、当博物館の展示更新の中で、氷河湖洪水のテーマや氷河の環境変動と住民生活への影響を取りあげ、新たな展示コーナーを設けた。そもそも私たちは、ネパールの氷河湖の洪水現象に関する初めての調査・研究を1977年に行い(文献2)、それ以降、ネパールやブータンをはじめ、チベットやインドで観測を進めてきているのである。
その研究経過の中で、ポカラに近いマナスル峰南西面のダナ・コーラ(川)上流のツラギ氷河湖が近年急速に拡大し、氷河湖の決壊による洪水の危険性が高まってきている(文献1)ことが明らかになってきた。もしかりに、ツラギ氷河湖の決壊洪水が発生すると、ネパールの大河のひとつであるマルシャディー河中流のダラパニ~ベシサハール間約30キロにわたる流域の村々の住民と施設に大きな被害が発生する、と考えられる。これまでのところツラギ氷河湖に関する研究は報告されていないので、昨年ツラギ氷河湖の予備調査を行い、下記のような結果が判明した。
2008年のツラギ氷河湖予備調査の結果の1つは、氷河湖周辺に設置した5か所の写真定点からの観測に基づき、1975年以来3回にわたる写真情報および現在の氷河末端の位置を、現地の地形的特徴と照合した結果、ツラギ氷河湖は現在幅0.5km、長さ3.3kmで、年間の湖の拡大(氷河の縮小)速度は1975年~1992年が31mで、1992年~2005年は47mになり、さらに2005年~2008年が68mの速度で加速していることが分った。このような氷河湖の拡大速度が続くと、ツラギ氷河湖は50年で6kmを超える大きな氷河湖になる可能性があり、ツラギ氷河の下流部はほとんど消滅してしまう。はたしてこの間に、氷河湖洪水が起こるかどうかを見極めるために、湖沼・氷河の本調査が必要である。マルシャンディ川上流のツラギ氷河湖の谷には、住民の遊牧活動と共存する立派な森林が残されているのに加えて、マルシャンディ本流沿いには村の民家や発電所が河床近くに立地しているので、氷河湖の決壊洪水が発生したときの対策を事前に周知しておく必要があると思われる。
           ツラギ氷河の2008年と2009年の末端地形

2)2009年の調査概要
今回のツラギ氷河湖調査目的は昨年からの氷河湖変動を明らかにするために、1)定点からの写真撮影と氷河末端をGPS測量することに加えて、また2)氷河湖の深さを測定すること、そして3)氷河湖の決壊洪水の可能性を評価するために、モレーン構造を調査することであった。写真撮影定点は昨年のP1~5に加えて、新たに氷河末端(TT:北緯282842.99、東経822937.33)とP6(北緯282927.88、東経842914.71)を設置した。調査には日本雪氷学員の高橋昭好・石本恵生・佐藤和秀各氏が参加し、111日から13日まで行われた。

           ツラギ氷河湖の変動図

3)20082009年のツラギ氷河(湖)変動
ツラギ氷河湖の拡大(氷河の後退)速度が加速している要因としては、氷河下流部分での流動速度が縮小しているところに、温暖化で、氷河末端のカービングが活発化していることが考えられよう。さらに、カービングは氷河末端部の氷体が座礁状態から湖中に浮き上がるようになると活発化するので、氷河底の地形が深くえぐれているか、または次章で述べる最近の水位上昇も影響していると解釈できる。

           ツラギ氷河湖の水位低下を示す湖岸地形

4)測深結果と氷河(湖)津波
測深のための自航式ボートは大きいため、無村地域のキャラバンでは運搬に困難があるので、ポカラで自動車タイヤ3個を組み合わせた手漕ぎ式のゴム・浮き輪を利用することにした。当初が氷河湖中央部から末端部までの中央線沿いの測深を予定していたが、山谷風、特に日中の谷風が強いため危険と判断し、末端部での測深調査を行った。
測深結果から、末端部から上流側70mまでは深さ10m程度の湖中段丘があり、70mから130m地点までは30度程度の急傾斜面が続くが、そこから200mまでは10度程度の緩傾斜で氷河湖中央部の湖心に向かって徐々に深くなっている地形プロファイルが明らかになった。氷河湖末端から70m以上の湖心方面の湖底地形はもともとの氷河湖湖底の地形面を保存しているが、末端部から70mまでの水深10m程度の湖中段丘は最近の水位上昇過程における侵食作用で形成された地形面と解釈できる。
ところが、約10mに達する最近の水位上昇にもかかわらずツラギ氷河湖のモレーン・システムは安定さを保っており、GLOFを発生させてはいないことから、ある程度までの水位上昇に対しては、ツラギ氷河湖のモレーン構造は耐えることができることを示している。この点は次章でも述べるように、クンブ地域のイムジャ氷河湖も同様な性質をもつモレーン特性があることから、両氷河とも当面はGLOFを引き起こす可能性は少ないと思われる。そこで、かつてロールワリン・ヒマールのツォー・ロルパ氷河湖で水位を低下させる目的で大規模な排水水路を建設したことの妥当性を再評価する必要があるのではなかろうか。ツォー・ロルパ氷河湖のモレーン・システムがツラギ・イムジャ両氷河湖と同様に安定性が高いものであれば、大規模な土木工事は不必要であった可能性があるのである。イムジャ氷河湖問題と同じように、ツォー・ロルパ氷河湖の下流域でも、GLOFの危険情報に影響をうけている住民がいる(文献3)ことを見過ごしてはならない。自然に人工的な手を加える前には、まずもって、自然を良く見て、学ばなければならない、と考える。
また、118日の午前1015分の測深測定時に氷河(湖)津波を観測することができた。氷河末端の崩壊(カービング)音の後に振幅プラス・マイナス30cm、打ち寄せる波と引く波の周期は1分程度の氷河(湖)津波を約4分間のビデオに収録することができた。湖心では、打ち寄せる波と引く波がぶつかりあってできる思われる三角波が朝日に輝いているのも観測された。このような氷河(湖)津波の影響については、次のGLOFの可能性との関連で考察する。

           東ネパールにおけるGLOF関連地図

5)GLOFの可能性
ツラギ氷河湖のモレーンの幅は100m以上もあり、構造的にもイムジャ氷河湖のそれに匹敵するので、巨大地震でも起きないかぎり、当面はGLOFの可能性は低いと解釈できる。しかしながら、ツラギ氷河湖が現在の速度で拡大し、氷河湖が氷河涵養域との境の落差約700mのアイス・フォール(図7)に達する約50年後には、涵養域からの氷塊が直接氷河湖に落下するのに加えて、それ以上の落差があるピーク29などからの岩塊が氷河湖に落下するようになると、クンブ地域のラグモチェ(ディグ)氷河湖のGLOF要因として推定されたように、氷河(湖)津波が巨大化し、そのためモレーン堆積物を破壊し、GLOFを発生させる可能性も将来は考えられるので、留意が必要である。
マルシャンディー中流の川沿いのタールは堰きとめ湖の堆積物上の村である。もともとネパール語のタールは、ポカラのフェヴァ・タールのように大きな湖を示す。タール村の人に聞くと、村ができてわずか5~60年だという。道理で、村のゴンパ(寺)は新しい。だとすれば、わずか5~60年前に大洪水が発生し、村の下流のタルベシ周辺に発達する門のような狭い地形で谷がせき止められ大きな湖が出現したことを示している。マルシャンディー川上流のヒムルン・ヒマール周辺のネパールでもひときわ顕著な巨大氷河群からGLOFが発生した可能性も考えられるだろう。当面はツラギ氷河湖からのGLOFはないとしても、たとえ小規模なGLOFでも来ようものなら、現河床すれすれのタール村はひとたまりもなかろう。なにせ、夏の雨期でさえも、村の一部に越流水が流れ、民家が水没しているのである。マルシャンディー中流の村々は、おしなべて河床からの比高が小さいので、現河床からの比高が10m前後で、とくに川幅が狭く、地形的に門(函)のような地形になっているシャンジェ・ジャガート・カルテ・ダラパニなどの村々などは将来に問題を抱えているといえよう。また、1994年のブータンのルゲ氷河湖のGLOF時に見られたように、ツラギ氷河湖のあるダナ・コーラ沿いなどのように直径1mにも達する針葉樹の森林が発達しているので、洪水でなぎ倒された大量の流木が押し寄せ、被害を大きくすることにも留意しなければならない。

          ナチェ村の太陽光発電装置を修理する高橋昭好氏

6)他調査機関の動向と住民対応
昨年には見られなかったICIMODGPS基点マークが末端モレーン部に見られたこと、またやはり末端モレーン部分であるが、(外国人が設置したといわれている)水位計と気象観測ポールが破壊されたままになっていたのを見ても、ネパール国内外ともに、ツラギ氷河湖問題が関心をもたれていることがうかがえる。またつけ加えるならば、このことは住民との関係の重要さをも示している。文献3でも示されているように、住民の協力なくしては観測機器が壊されるなど、現地の調査・観測はけっして順調には進まないことを肝に銘じておくべきである。その点で、今回はツラギ氷河湖のあるダナ・コーラ谷の最奥の村であるナチェ小学校のソーラー発電装置(秋田県立大の方々が設置してくれていた)が故障していたのを修理したり、ナチェの村民から帰りには歓迎送別?を受けるほどの友好関係を作ることができるなかで、調査結果を伝えることができ、ある程度は住民とのうまい関係を作ることができたと思っている。
今年1123日のネパールの新聞「カンティプール」の1面の題字下の巻頭写真にツラギ氷河湖の航空写真が掲載されており、氷河湖の決壊洪水の危険性が指摘されているのも、ネパール社会での関心の高さを示してはいるが、単に危機感をあおるだけでなく、正確な情報を伝えたうえで、研究者だけでなく住民に対しても適正な対応をする必要があると考える。


               GLOFに対する適切な対応を求める住民たち

7)共同研究体制
共同研究体制については、1)所属する部局内部と2)外部との関連が重要である。まず1)については当初
下記のレターを国際山岳博物館側からでていたが、博物館を管理するネパール山岳協会の組織的な内部問題のため、調査支援が得られなかったため、上述したように日本雪氷学会員三氏が参加してツラギ氷河湖調査を実行した。ネパール国内には同様なさまざまな問題があるが、ネパール山岳協会内部の組織が十分機能するのをまずもって期待したい。また2)のその他外部機関との連携であるが、ネパールで氷河湖問題を精力的に行っているのはICIMODであるが、従来は衛星画像解析中心で、現場のフィールド・ワークにはもうひとつ不熱心であったが、上記のように今年からはツラギ氷河湖でも調査をはじめたのはうれしいかぎりである。ただ彼らのように、氷河湖末端モレーン部分のGPS測量中心ではGLOFの発生可能性などを評価できないので、氷河湖全体像の観測体制の視点確立に向けて、適当な時期をみて、彼らとも議論したいと思っている。その他にも国際的な視点からは、外国隊の調査活動の水位・気象観測の跡もあることに加えて、まさに来月中旬にはコペンハーゲンで地球温暖化などをメイン・テーマにした国際会議が開催されるなかで、時あたかも、ネパール政府としても熱心な取り組みをはじめているを考慮して、ツラギ氷河湖だけではなく、広くヒマラヤのGLOF問題を総合的に関連各国で検討するために、JICAにも一肌脱いでいただきたいと切に希望する。

6 November, 2008
JICA staff who it may concern,
The Tulagi glacier lake in the south-west of Mt. Manaslu has been rapidly expanding since 1975 and the glacier lake outburst flood (GLOF) becomes the environmental issue of people who live in the Marshandi river basin near Pokhara, so it is important to make observations of the lake and inform them the possibility of the GLOF disaster.
    We , stuffs of International Mountain Museum, think it is necessary that Dr. Hiroji Fushimi will go to make glaciological observations on the Tulagi glacier lake from 19 November to 1 December as the preliminary surveys, however our staff will join the next main observations next year if possible.
Sincerely yours,
Bal Prasad Rai
Chief Administrator
International Mountain Museum

8)参考文献
1) Fushimi, H. (2008) Sightseeing disaster of the higher Himalaya in Nepal. Report of the seminar; “Challenges for the promotion of Japanese Tourist in Nepal” organized by JICA Alumni Association of Nepal and held at Hotel Himalaya in Kathmandu on 29 August, 2008.
2) Fushimi H. et al. (1985) Nepal case study, catastrophic flood. Techniques for prediction of runoff from glacierized areas, International Association of Hydrological Sciences, 149, 125-130.
3)武田 剛 (2008) 地球異変余禄http://doraku.asahi.com/lifestyle/earthphoto/080707.html
「ツォ・ロルパから10キロ下流に下ると、川沿いに立つベディン村に着いた。人口は約370人。もし湖が決壊すれば、約15分で村は大洪水に飲み込まれるという。外国の援助で設置された警報装置。太陽電池は盗まれ、装置も故障しており、全く役に立っていなかった。大洪水に備え、村人たちが石積みのえん堤を作っていた。出稼ぎで、村には若い男性が少ないため、女性たちが総出で働いていた。中には赤ちゃんを背負ったお母さんも川原で集めた石をかごに入れて運ぶ女性たち。重さは20キロほど。手伝いで私も担いでみたが、あまりに重く、数歩でへたり込んでしまった。えん堤は背丈ほどの高さもない。こんな堤防で大洪水が防げるのか心配になった。」

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