2012年9月6日木曜日

ネパール調査2011春報告


ネパール調査2011春報告


皆さま、地震・津波・原発災害の三重苦で日本は大変なことと思いますが、まずは、ポカラよりナマステ!

2011年春のネパール調査を行う前に下記「5)その他のその他」で述べる東南アジア旅行の番外編が加わりましたが、今回の調査目的は、1)ツラギ氷河湖の変動調査、2)巨大アンモナイト採集、3)ヒマラヤ写真データベースの整備でした。4月初めの暴風雪による積雪(上写真)にくわえて、著しい倒木で道がふさがれ、今回のヒマラヤの氷河湖調査は古希の身にはかなりしんどいフィールドワークとなったが、まずはそれぞれの項目ごとに報告します。多少とも、皆さまの参考になれば幸いです。また今回も、前回報告したように、”Lte” Expedition (ポーター賃、晩酌つきのロッジ代、氷河湖BCではフライシートの屋根のもとポーターと一緒の生活、しめて1日2千ルピー)だった。今後とも体が続くかぎり Lite Expedition で、と思っています。

1)ツラギ氷河湖(43日~18日)1-1.氷河末端位置の変動

ツラギ氷河中央部の末端位置は201010月とほぼ同じであったが、変化といえば、右岸と左岸側の氷河表面が崩落していること(上写真)であった。したがって、2008年と2009年当時のような、湖面にたくさんの氷山が分布するような活発なカービングによる氷河末端後退・氷河湖拡大はみられなかった。

つまり、経年的氷河(湖)変動図(上写真)が示すように、2010年以来は氷河湖および氷河の谷方向の長さには大きな変化は認められていないのである。その原因としては、氷河底が基盤または湖底に座礁し、活発なカービングが発生しないため、氷河の末端位置の変動が小さくなったものと解釈している。

1-2.水位低下
今回の調査期間が春であるため、秋の時点とは異なり、ツラギ氷河湖は結氷しており、氷河湖下流の末端モレーン近くでは水位上昇時に形成された湖の表面氷の一部が、湖水面より50cm高い湖岸汀線に連続的に残されていた(上写真)。つまり、冬期間の結氷後に氷河湖水位が50cm低下したことを示している。

また、長期間の水位低下傾向は、2009年のGPS踏査軌跡が2005年のグーグルアース画像の湖水面上に、湖岸線に並行して描かれていることからもうかがわれるが、直接的には、1996年のネパール水文気象局(DHM)隊などの氷河湖末端の写真(上)および彼らのコンクリートで固定された水位計の位置を比較すると、1995年以来、約2mの水位低下が起こっていることは明瞭である。このことは、流出口の低下や流出量の増大で、(ツォーロルパなどのような人工的な導水路を造らなくても)ツラギ氷河湖自体が、GLOFなどの災害発生リスクを高める水位上昇への事前防止機能を発揮しているものと解釈できないだろうか。もし、その解釈が妥当なら、GLOF対策とはいえ、人工的な大規模土木工事は慎重にすべきだと考える。ましてや、ツラギ氷河湖の場合は堰きとめている強固な末端モレーンが二重に取り囲んでいるので、クンブ地域のイムジャ氷河湖と同様に、直下型の巨大地震でもない限り、GLOFの発生はまずなかろうと思われるから、当面は、人工的な土木工事の必要性はないであろう。

1-3.透明度増大
今回の調査時ではツラギ氷河湖からの流出水の透明度がこれまでの秋の調査時に比べて、増大し、清流のような感じを抱いたのは意外であった。そのことは、ダナコーラ中流の橋付近から、それより上流の氷河湖の流出口まで、あたかもいわゆるグレーシャー・ミルクならぬ清流が観察されたのである。このことは、1996年のDHM隊などの氷河湖末端の前述の写真(上)との比較で明らかなように、それ以来の水位低下で形成された池(写真上のP2)の透明度が増大しているのは、グレイシャー・ミルクの氷河性粘土が流入を閉ざされた池で沈殿した(実際に池の底には粘土が堆積している)ことを示している。このように、氷河性粘土はグレイシャー・ミルクの流入や氷河湖内部の対流や風などによる撹拌作用がないがぎり、沈殿し、透明度が増大するのであろう。今回は冬から春にかけての寒期で、グレイシャー・ミルクの氷河融水の流入が少ないうえ、湖面が凍結していたため、風などによる撹拌作用が働かないため、氷河性粘土が沈殿し、氷河湖からの流出水の透明度が増大したものと解釈できる。


2)巨大アンモナイト採集(314日~17日)
国際山岳博物館の展示のため、安藤久男氏、赤羽久忠氏および地元のハリダイ・トラチャン氏とアカル・グルン氏の協力のもとに、カリガンダキ上流のムクティナート周辺でのアンモナイト採集を行った。当初はメートル級の巨大アンモナイトをもくろんでいたが、現地で観察した1m前後の大きな円形の岩塊(ノジュール;写真上)内部には石英などの鉱物が形成されており、もともとアンモナイトがあったとしても、変質作用を受けて、化石が変化し、現在はアンモナイトが残っていないものと解釈できた。もともとの化石が、どのようにして変質していくのか、さらに石英などの鉱物にいかにして置換するのかは、新たな課題になるであろう。今回の調査では、巨大アンモナイトの採集はできなかったが、ジャルコット周辺で1030cm程度のアンモナイト化石を採集することができた。

ところが驚いたことに、現地住民が所持する30cm程度の岩石に3個ほどのアンモナイトが残る化石(写真上)の値段が2.5万ルピー(約3万円)と言われ、手が出なかった。さらに聞いたところでは、ポカラの土産店の直径30cm級のアンモナイト化石の値段は数十万ルピー(数十万円)もするとのこと、ますます唖然とさせられたものである。

ムクチナート寺院に飾られている直径25cmのアンモナイト化石(写真上)は、ネパール語でサリグラムと称し、ヒンズー教のヴィシュヌー神として崇められているそうだが、あたかも五穀豊穣、子孫繁栄を願うインドのリンガ信仰のような感じがしたものである。

3)写真データベース(312日~428日)
干場悟氏の尽力で、すでに約75千枚のヒマラヤ関連の画像を公開しているが、今回整備した約2万枚は順次(うち38百枚は公開済み)公開し、近日中に公開画像合計数は95千枚になる予定ですので、ぜひ下記をご覧ください。
http://picasaweb.google.com/fushimih5

4)その他

4-1)森林火災
冒頭に倒木のことを述べたが、ダナコーラ中流域の橋から石小屋までの5キロほどの左岸側の倒木はすさまじいものであった。その地域は、人為的と思われる放牧の目的で山焼き(牧草地の拡大や牧草の芽生えを良くするために)が行われている。そのため、森林火災(写真上)が起こり、直径1mを超える大木の枝葉がなくなったところへ、4月初めの暴風で、風が林間を通り安くなると同時に、大木といえども幹周辺部が焼け、強度が弱くなっているので、強風で軒並み倒されたと解釈できた。特に、巨木の根の近くは空隙(うろ)ができている場合が多いので、風に対して抵抗するすべを失っていたようだ。これらの現象はとりもなおさず、もともとの原因が人為的森林火災にあることを忘れてはなるまい。

4-2)住民との関係
今回も一昨年設置したマナスルやアンナプルナⅡ峰がよく見える瀬戸純氏の追悼碑(下記の場所)で、北大山岳部先輩の宮地隆二氏の分骨を行ったが、幸いなことに、一昨年の追悼碑はそのまま保存されていた。一方、例えばクンブ地域のラマ寺院のあるタンボチェに建っている日本人の追悼碑が破壊されているように、この種の外国人による建造物は地元住民によって破壊されるのが常であり、前述の1996年のDHM隊の気象観測施設も破壊(写真上)され、太陽電池などが盗まれているのをみても、私たちの行動を地元住民に十分理解してもらうことが不可欠である、と考える。私たちはダナコーラの最奥の集落であるナチェ村の人たちとの関係を大切にし、一昨年の調査時には、高橋昭好リーダーがナチェ学校の故障していた太陽電池機材(秋田県立大学の方々が設置したもの)を修理したことなどが、追悼碑の保存とともに、調査時における食料やその他の物資補給に十分プラスに働いているのではないか、と考えている。今回の氷河湖調査の帰りには、マナスル三山が見渡せるポーター(ラム・チャンドラ・シャヒさん)のパンティ・ダーラ村に招かれ、彼の親族の結婚式に参加できたことや岳友の古川宇一さんが40年ほど前に世話になったマナンのティリチェ村を訪ね、コマル・ガレさんから歓待を受けたことも懐かしい住民との関係の思い出になっている。
追悼碑の場所
地名:アルバリ(ナチェから2時間半)
GPS位置:北緯283022.41、東経842228.93、標高3059

5)その他のその他
5-1)東南アジア旅行(215日~38日)
現在は、日本・マレーシア間の飛行機代が場合によっては5千円の時代(すぐにネット注文しないと完売とのこと)で、そのての情報に長けている前述の干場悟氏(趣味が旅行・コンピュータ・語学とのこと)に安切符を手配していただき、ネパール調査の前にマレーシアとタイを、干場流旅行術(現地住民と同じように、タクシーなど使わず歩き、レストランに行かず屋台で食べ、宿はバックパッカーと同じ安宿に泊まる)で旅行しました。主な場所は、クアランプール、マラッカ、カンチャナプリ、アユタヤ、コタバルなどの初めてのところで、なかなか楽しいものでしたが、古希の身には少々しんどいものでした。それらの旅行地の中でも、とくにマラッカの“博物館の街”には感心しましたので、宣伝させてもらいます。マラッカの各博物館は小規模なものですが、船や建築、独立、王宮、キリスト教、回教などといったテーマごとの博物館が街の中心の教会遺跡周辺に配置され、朝は住民が各博物館周辺や岡の教会遺跡を散策するのです。気候は熱帯的で、赤い花をつけるマメ科の大木やショウガに似た植物は、ポカラの夏を思い出させてくれました。驚いたことに、マラッカの大きな病院(Medical Center)が、クアランプール空港・マラッカ間の直通バスを1日4便走らせて、滞在型の医療観光策を実施しているのです。そのバスだけを利用すれば、クアランプールの大都市に泊まらなくても、クアランプール空港から直接マラッカに来て、安宿で長期滞在し、博物館街などを見て回るのもお勧めのコースなのではないでしょうか。なにせ、マレーシアは産油国でガソリンは1リットル約50円、高速道路は発達しているので、交通の便利さはこの上もなく、日本のジャスコやイオンのスーパーなどもある近代的な国です。次回のネパール調査も、バンコック経由のタイ航空の飛行機代は高いので、マレーシア経由になるでしょう。以上、「その他のその他」は余談でしたが、ぼくのネパール調査はまだ残っているので、近い将来、新たなフィールド・データで報告させていただきたいと思っています。


それでは皆さま、ひとまず、雷鳴とどろくポカラよりナマステ!(2011430日早朝記す)

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