2015年6月14日日曜日

2015年ネパール春調査(16) 帰国報告

2015年ネパール春調査(16)

帰国報告

お知らせ 
1) 9月6日(日)に北海道大学山岳館で開かれる講演会要旨を末尾に載せました。
ネパール報告-「2015年ネパール地震」を中心に- 
http://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/Center/activity/lecture/8th.html

2) ネパール地質学会の要旨に加えて、新たに、下記の発表原稿を表示しました。
Environmental changes of Nepal Himalaya in terms of GLOF phenomena
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/04/blog-post_17.html

はじめに
  「ネパール2015年春」計画の主な内容は、1)カトマンズ大学の講義と2)ポカラ国際山岳博物館の展示更新でしたが、2月24日~6月9日までの滞在期間中に開かれた国際氷河学会とネパール地質学会のカトマンズ会議に参加するとともに、4月25日には「2015年ネパール地震」が発生し、カトマンズ大学が休校になりましたので、下記の「ネパール2015年春」調査の報告資料がしめすように、地震関連の現地調査も行い、予定通り、6月10日に帰国しました。

記 「ネパール2015年春」調査の報告資料
(1)クアランプールからカトマンズへ;2015225
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015_02_01_archive.html
(2)「アジア高地の氷河に関する国際シンポジウム」はじまる;201533
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/03/2015.html
(3)国際氷河会議の終了とカトマンズ大学の講義開始;2015314
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/03/blog-post.html
(4)カトマンズ大学にて;201541
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/04/blog-post.html
(5)カトマンズ大学にて(2)2015417
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/04/blog-post_17.html
(6)2015年ネパール地震(1);2015429
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/04/blog-post_29.html
(7)2015年ネパール地震(2);201557
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/05/2015-2015.html
(8)2015ネパール地震(3);2015518
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/05/2015-2015_18.html
(9)2015ネパール地震(4);2015528
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/05/2015-2015_28.html
(10)ポカラ報告;201561
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/06/2015.html
(11)カトマンズ大学の講義報告;201563
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/06/2015_3.html
(12)ランタン地域の雪崩災害等に関する情報交換の進展;201564
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/06/blog-post.html
(13)2015ネパール地震(5);201567
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/06/2015-2015.html
(14)お世話になった方々;201568
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/06/blog-post_8.html
(15)KCHその後;201569
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/06/2015-kch-kch-kch-kcl-kch-kch-kch-j.html
付属(学会報告)資料
(1)国際氷河学会カトマンズ会議
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015_01_01_archive.html
(2)Kathmandu Conference of International Glaciological Society
Presentation; Why is a large glacial lake safe against GLOF? 
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/02/kathmandu-conference-of-international.html
(3)ネパール地質学会
Environmental changes of Nepal Himalaya in terms of GLOF phenomena
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/04/blog-post_17.html


写真1 天気が良いと、マナスル(左)とガネッシュ(右)がカトマンズ大学から見渡せる。


カトマンズ大学の講義
  カトマンズ大学の宿舎(International Guest House)のベランダは北向きですので、晴れた日には、西は中央ネパール・ヒマラヤのマナスル峰(写真1)から東のクンブ地域のヌンブール峰まで見わたすことができ、ヒマラヤ好きにとっては申し分のない環境でした。しかも、3月~6月の滞在期間中、毎日カッコウが鳴いてくれましたし、朝日が背後から昇るバグマティ寺院(写真2)を4月6日には拝むこともできました。それに、カトマンズのような大気汚染は少なく、吹くのは爽やかな峠の風でした。来春、また行けるのを楽しみにしているところです。

写真2 カトマンズ大学の宿舎ベランダから毎日眺めていたバグマティ寺院。

写真3 国際氷河学会で発表したリジャンさん(右)の教室の修士学生ソナムさん(左)。

  講義開始直前の3月初めには、国際氷河学会がカトマンズで開かれ、地元のヒマラヤ研究機関(ICIMOD)およびカトマンズ大学のリジャンさんの研究室の学生たちも会議の運営に重要な役割を果たしました。東ネパールのクンブ地域クンデ村の女子学生ソナムさんは地元のイムジャ氷河湖の変動について発表しました(写真3)。

  カトマンズ大学の講義*は、毎週月・水・金の3日間で、各講義は2時間です。講義は、3月初めの最初の1週間は学生控え室でしましたが、それ以降、地震発生の4月下旬までは、画像が鮮明な大型の液晶テレビのあるビデオ・コンファレンス・ルームで行いました。学生たちは、留学生5人(パキスタン人3名、インド人2名)とネパール人5名の10人でした。パキスタンの学生にはギルギットやスカルドー、またネパール人には上記のクンデやナムチェバザール出身者がいて、自分たちのふる里の環境問題に関心が高いことを感じました。

KATHMANDU UNIVERSITY LECTURE ―ENVIRONMENTAL CHANGES OF THE NEPAL HIMALAYA―
http://environmentalchangesofthenepalhimalaya.weebly.com/

写真4 カトマンズ大学の講義学生(左はリジャンさん)。


写真5 ネパール地質学会のポスター会場で(右から2人目がダンゴルさん、左は八木さん)。

  4月初めにはネパール地質学会に参加しました(写真5)。学会を主催した責任者の一人がダンゴルさんで、4万ルピー(約4万八千円)の参加費用を半額にしていただきました。会議では、山形大学の八木さん知り合いになりました。八木さんはトンボ返りのように、5月末~6月初めのランタン村の雪崩調査にも来られましたので、ヘリコプター調査の打ち合わせの際、再び情報交換を進めることができました。

国際山岳博物館の展示更新
  カトマンズ大学での講義とともにポカラの国際山岳博物館の展示更新が「ネパール2015年春」計画の主な内容で、当初は講義が終了する6月初めの帰国直前を予定していましたが、4月25日に「2015年ネパール地震」が発生し、大学が休校になりましたので、5月前半にポカラをバスで往復し、展示更新とともに、カトマンズ・ポカラ間の地震状況を観察しました。博物館の展示写真は色落ちやキズが付いたりしますので、更新が欠かせないことに加えて、今回はヒマラヤの環境変動にも関係する「2015年ネパール地震」の展示も新たに加えました(写真6)。

写真6 国際山岳博物館の自然環境の展示場で(右上はマチャプチャり峰の雪型、左下は「2015年ネパール地震」の展示を見る左の博物館事務長のライさんら見学者たち)


写真7 「2015年ネパール地震」の影響は長期に及ぶであろう。


 「2015年ネパール地震」
  「2015年ネパール地震」に関しては、前述のようにカトマンズ・ポカラ間の広域的観察を行うとともに、カトマンズ盆地内のカトマンズ・バクタプール・パタン・サンクーや大学のあるドゥリケル周辺、およびランタン地域との中間のヌワコット周辺でも地震の被害調査を行ないました(写真7)。写真7の上はヌワコット地域の状況で、リク川沿いの河川堆積物上に建っていた石積みの壁の民家は壊滅状態(左)、ネパール人が愛着を持っているヌワコット王宮の建物もやや北西に傾き、このままではトリスリ川の谷に崩れる可能性がある(右)、と思われました。

  また、古い町並みが全滅した感のあるカトマンズ盆地東端のサンクー(写真7の左下)では、修復作業にやっと入ったところで、男たちは疲れきった表情をしていましたが、女たちの顔には笑みがわずかに見られるのが救いでした。カトマンズの街の西方にあるソエンブナート寺院も大きな被害を受け、ラマ教の仏塔が上下方向の激しい揺れを示すX型の割れ目ができていました(写真7の右下)。


写真8 1970年代のカトマンズの街並み(田園風景の中に、ビンセント・タワーが見える)。

  思えば、1970年代のカトマンズは人口30万人程度の田園都市でした(写真8)。バグマティ川も清流で、魚が棲んでいたのです。空気も水もきれい、プラスチックのない生ゴミは牛や犬が処分し、燃料にする牛の糞が民家の壁に干してありました。ソエンブナートの丘の寺院から見ると、黄色い点線内のランドマークのビンセント・タワーがくっきりと見えていました。

  ところが、前世紀末からのバブル景気で人口が今では200万人を超えたと言われているように、一説によると、発展新興国の首都であるメキシコ・シティーやアンカラと同様に大気・水汚染にゴミの都市環境課題をかかえています。そのカトマンズに「2015年ネパール地震」が襲ったのです。写真8と同じ場所、同じアングルで撮った地震後の写真9が示すように、密集したカトマンズの街が地震の被害を受け、黄色い点線内にあったランドマークのビンセント・タワーは消え*、街の空き地には赤い点線内の避難民のテント村が出現しています。もう、そろそろ雨期が始まりますので、テント生活者たちの苦労が余計に忍ばれます。

2015年ネパール地震(2)ポカラ紀行
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/05/2015-2015.html

写真9 2015年の地震以後のカトマンズの街並み(ビンセント・タワーはなくなり、テント村ができる)。

  1970年代からランタン村の支援を続けている貞兼さんと1970年代の氷河調査隊を助けてくれたハクパさんが再会しました。というのは、氷河調査隊の活動終了後、安成さんが中心になって集めたハクパさんの奨学金をカトマンズ・クラブ・ハウスでハクパさんに届けてくれたのが貞兼さんでした。35年ほど前のそのことを、やっと思い出したハクパさんと貞兼さんには笑顔が蘇りました(写真10)。

写真10 貞兼さんとハクパさんの再会。

氷河湖決壊洪水(GLOF
 ハクパさんはいつもネパールの現地情報を伝えてくれていて、今回の「2015年ネパール地震」に関しても頻繁にメイルで伝えてくれています。そのハクパさんから、5月25日夜9時半頃、イムジャ氷河北西のローツェ氷河から氷河湖決壊洪水(GLOF)が発生したとの電話連絡がきました。小規模な洪水で、被害はなく、チュクン周辺の川が増水した程度だったそうです(*)

(*)EXPERTS PUZZLED BY WATER OVERFLOW IN EVEREST AREA
http://www.myrepublica.com/society/item/21661-experts-puzzled-by-water-overflow-in-everest-area.html

  ローツェ氷河の末端モレーン(氷河堆積物)は侵食によってすでに大方崩れ去っており、問題になっているイムジャ氷河などのように、末端モレーンが自然のダムになって、その上流側に大きな氷河湖をつくる心配はないので、洪水が起こったとすれば、その上流のデブリ(岩屑)に覆われた化石氷体部分にできた小規模な池が崩壊して、出水したものでしょう。*

氷河湖決壊洪水など
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015_05_01_archive.html

  ところが、帰国して間もない6月12日、ハクパさんから次のメイルが来ました。
Sherpa Lhakpa   2015/06/12  
Fushimi dai
Happy enough that you reached at home. Well, last night , local medias broadcasted GLOF at HONGOU river and the DHM team are doing survey today. 
Namaste again
Lhakpa GyaluJune 12, 2015

  さっそく現地のメディアを検索すると、「Glacial lake burst triggers floods in Solu」(*、写真11)が載っていました。ハクパさんのメイルのように、クンブ地域の東南のホング谷でGLOFが6月11日に起こったようです。記事よると、下流住民がパニックになったそうですが、被害状況は報告されていません。ホング谷の上流は峡谷で、村はありませんので、洪水が下流に到達するまでに洪水波は減衰し、河川水位はそれほど高くなかったのかもしれません。また、水文気象局のチームが現地調査を行うとのことです。

Glacial lake burst triggers floods in Solu
Friday, June 12th, 2015 | Posted by Hari Kumar Shrestha
http://www.nepalmountainnews.com/cms/2015/06/12/glacial-lake-burst-triggers-floods-in-solu/

写真11 GLOFがホング谷で発生したことを伝える6月12日のニュース。

写真12 次なるGLOFはホング谷のチャムラン峰周辺の小氷河湖(黄色の点線内)であることを予測した図。

  ネパール・ヒマラヤのクンブ地域などでは、小さな氷河湖であるMingboやLangmoche 、Saboi各氷河湖で氷河湖決壊洪水GLOFが発生してますが、Imja氷河湖などの大きな氷河湖ではGLOFが起きていないので、小さな氷河湖では上流の急な崖から雪崩などが直接湖に落下して発生する津波が湖をせき止めている末端モレーンを破壊してGLOFが起こると考えました。大きな氷河湖では、雪崩などは直接氷河湖に落下せず、より上流の岩屑(デブリ)に覆われた氷河部分に落ちるので、氷河湖に津波を発生させることはありません。そこで、次なるGLOF発生の可能性が高いのが、1970年代に2回調査したホング谷のチャムラン峰周辺の雪崩を引き起こす可能性のある急な崖を持つ小さな氷河湖である可能性が高いことを予測しました(写真12)。チャムラン峰北西部には、氷河湖面よりも2千m以上もの比高がある雪や氷河の壁があります(写真13)ので、雪崩が起きれば、直接湖面に落下し、津波を発生させて、末端モレーンを破壊し、GLOFを引き起こす可能性があると解釈しています。

写真13 チャムラン峰周辺の小氷河湖(黄色の点線内)の航空写真(GEN空撮資料)。

  そこで、衛星画像解析のエキスパートの矢吹さんに次のような依頼のメイルを送りました。衛星画像にホング谷のGLOF現象が認められるかどうか、確かめてもらうためです。

伏見 碩二     2015/06/12   
宛先: 矢吹裕伯 CC: 伏見碩二
矢吹さまーーー伏見です。
一昨日、予定通り帰国しました。今日も1つ、お願いがあります。
ハクパさんから先程「ホングでGLOF」のメイルが来ました(前述のハクパさんのメイルと写真9)
そこで、お時間がありましたら、クンブの南東部のホング谷を見て欲しいのです。
ポイントは、GLOFの谷は侵食で衛星画像に白い線で写っています(写真10)。
写真10は次のGLOFはホング谷のMt. Chamlang周辺の氷河湖(黄色点線内)
におこることを予測した図ですが、はたしてそうなっているのか、ぜひチェック
して欲しいのです。お忙しいところ大変恐縮ですが、よろしくお願いいたします。

  早速、矢吹さんからクンブ地域の衛星画像が送られてきました(写真14)。今回のGLOF発生の前日の6月10日の画像ですので、GLOFの発生の証拠は認められませんが、GLOF発生の6月11日以降の画像と比較する基礎情報になります。次の画像取得日は6月25日とのことですので、待ち遠しい感じです。なお、写真14の黄色い点線内のチャムラン峰周辺の2つの氷河湖が、写真13の氷河湖と同じで、GLOF発生の可能性が高いとみて注目しています。また、前述の5月25日にイムジャ氷河湖北のローツェ氷河からの出水の起源は赤色点線内のデブカバーの化石氷体にある池だと解釈しています。また、矢吹さんへのメイルで書いた「ポイントは、GLOFの谷は侵食で衛星画像に白い線で写っています」というのは、GLOFの侵食作用でできたアマダブラム峰南のミンボー谷のガレ場が連続し、谷筋地形が白く写っている(薄緑の点線内)ことを指しています。

  はたして、以前にたてたGLOF発生の予測がうまくいくかどうか、楽しみにしているところです。いずれにしても、地震で不安定化した氷河湖上部の急斜面の氷河や雪面に雨期の降・積雪が重なり、さらに不安定化すると、雪崩発生の可能性は高まる、と解釈できます。ネパール・ヒマラヤのGLOF災害にとっては、今年の夏の雨期(ヒマラヤの山は降・積雪期)が重要なターニングポイントになるでしょう。

写真14 矢吹さんから送られてきた6月10日の衛星画像(Landsat 8)。

今後の予定
  さて、今後の予定ですが、6月17日~19日は3回目の心臓手術で入院し、6月21日の木崎さんの卒寿の東京での会には参加したいのですが、術後の体調次第です。6月27日の北大山岳部の同窓会と7月5日の日本ネパール協会関西支部の集まりで「2015年ネパール地震」について報告することになっています。さらに7月18日にはランタン村の雪崩災害関連の研究会が東京であります。また9月初めには、北海道の日高山脈で遭難した友人たちの50年忌の集会の際には北海道大学山岳館で9月6日に講演会(下記参照)があるなど、いろいろと忙しいスケジュールになりそうですが、来春のカトマンズ大学の再講義にむけて、体調管理には十分努めていきたいと思っているところです。
  それでは、皆さまもご自愛ください。


北海道大学山岳館講演会

20150906北大山岳館講演会
”ネパール報告-「2015年ネパール地震」を中心に-” (要旨)
伏見碩二
1)はじめに
  2015224日~69日の「ネパール2015年春」計画の主な内容は、1)カトマンズ大学の講義と2)ポカラ国際山岳博物館の展示更新だったが、滞在期間中に開かれた国際氷河学会とネパール地質学会のカトマンズ会議に参加するとともに、講義を行っていたところ、4月25日に「2015年ネパール地震」が発生した(写真1)。そのため、大学が休校になったので、地震関連の現地調査も行い、610日に予定通り帰国した。

写真1 カトマンズ旧王宮の地震前(下)と地震後(上) 

写真2 岩屑雪崩で埋まったランタン村とランタンコーラ

2)住民の自然認識に関する3つの疑問

A)3~4月のカトマンズ雷雨・ランタン降雪の異常気象について
  3月後半から4月にかけてランタン地域では毎日降雪があり、放牧中のヤクがかなり死ぬ中で、「2015年ネパール地震」が発生、雪崩がランタン村を襲い(写真2)、174名が犠牲になった。住民は異常気象には気づいていたが、雪崩発生の可能性をどの程度認識していたのか?また、カトマンズでは雷雨が続き、カトマンズ盆地のように砂や粘土の湖成堆積物で覆われているところやネパール山間部のように断層活動でできた粘土層地帯では土壌水分量が大きくなり、地表が地震被害を大きくする軟弱地盤化したことに気づいていただろうか?

B1934年と1833年の地震被害について
   「2015年ネパール地震」の81年前の1934年に起こった地震はよく語られるが、さらに101年前の1833年の地震はほとんど知られていない。前者の震源地は東ネパール、後者のそれは中央ネパールである(写真3)。震源の遠い1934年の地震でも被害が出たカトマンズは、震源の近い1833年の被害はさらに大きかっただろう。地震は80年~100年毎に現れると言われているように、これらの地震被害の教訓がなぜ生かされなかったのか?

写真3 ネパールの1833/1934/2015年の震源地分布   

写真4  ヌワコット地域リク川周辺の破壊された民家

C)震度5程度で大災害になったことについて
  4月25日に発生した地震は、1995年の神戸・淡路大震災時の大津で感じた震度5程度で、日本でならあまり被害が出ないと思われたが、ネパールでは死者8千、倒壊家屋50万戸以上などの大被害が発生した。カトマンズ盆地内のみならず広域的な視点から、トリスリバザール周辺のヌワコット地域(写真4)やカトマンズ~ポカラ間のバス・ルート沿いの被害状況を現地調査し、震度5程度でなぜ大災害になったのか?、を調査した。

3)JICAの地震セミナー
  「2015年ネパール地震」発生から1ヶ月目の5月25日に、JICA主催の「Build Back Better Reconstruction Seminar for  Nepal」が 開かれた(写真5)。タイムリーな企画で、聴衆は4百名ほどに達した。セミナーの主な趣旨は地震後のネパールのより良い復興に向けての研究会だったのだが、報告内容を聞いてみると、日本の地震災害の実態や耐震家屋の実験的研究などが中心で、肝心の土台の軟弱地盤に関する研究発表はなかったのである。これでは、“砂上の楼閣”を建てるようなもので、はたして、ネパールの地震災害の具体的課題にどの程度役立ったのか?、はなはだ疑問であった。

写真5  JICAにより開催された地震セミナー  
     
写真6 パタンの無事の寺(AとB)と破壊された寺(C)

4)現地でともに学ぶ
  では、地震災害の具体的な課題解決とは何か?パタンでは、世界遺産の建造物が集中する地域で、破壊された建物(写真6のC)と被害を受けなかったもの(写真6のAとB)とが共存している。またバクタプールでも、世界遺産のストゥーパは破壊されたが、周辺の二重の塔やニャタポラ寺院の五重の塔は無事であった。2)のC)と3)で指摘したように、現地に即した課題解決に必要なことは、地震で破壊された建物と被害がないか、少なかった建物の違いや現地の地盤の特徴を調査し、民家や貴重な文化財(写真7)の保全策を明らかにすることである。さらに、住民の災害意識の向上のためには、2)で述べた疑問を解明するため、住民と研究者が協力し、カトマンズに地震博物館、ランタン村にヒマラヤ災害情報センターを設立し、現地でともに学ぶことが重要である、と考える。

 写真7 スワヤンブナート寺院の破壊した仏塔

参考資料
1)時系列ブログ<http://hyougaosasoi.blogspot.jp
2)テーマ別ウェブサイト<http://glacierworld.weebly.com
3)ヒマラヤなどの写真データベース(11万点以上)<http://picasaweb.google.com/fushimih5
4)カトマンズ大学の講義<http://environmentalchangesofthenepalhimalaya.weebly.com/

2015年6月9日火曜日

2015年ネパール春調査(15) KCHその後

2015年ネパール春調査(15)

KCHその後

写真1 新築直後のKCH(1976年)。

     白石さんとで設計したカトマンズ・クラブ・ハウス(KCH)は、ボーダナート寺院近くのクソン・ノルブ・タワーさん(以下タワーさんと呼ぶ)の敷地のなかに完成した(写真1)。1976年のことであった。KCHの建設資金は、渡辺興亜さんが中心になって日本のヒマラヤ関係者から集めた。このKCHは1990年代半ばまでヒマラヤ関係者の基地としての役割を果たすことになる。そこでまずは、写真1の玄関前にある左右2本の人の背丈よりも小さかった松の木に注目しておいて欲しい。

写真2 渡辺真之さんの隊のKCH玄関でのスナップ(1980年;左がタワーさんで、その右が奥さんのフルバ・チャムジさんか?、後列中央が渡辺真之さん)。

  その役割のひとつの例として渡辺真之さん*の隊は1980年に滞在している。写真2は渡辺さんたちのKCH玄関でのスナップで、後列中央が渡辺真之さん、左がタワーさんで、その右が奥さんのフルバ・チャムジさんのようです。なお、横山宏太郎さんからのメイルによると、「最前列、左は大村誠さん、最後列右は私、当時の汚い姿」とのことです。

*追悼 渡辺真之さん
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2013/10/blog-post_9.html



写真3 KCLの玄関前〈2003年)。松の木の成長に驚かされた。

  築後17年目で玄関前の小さかった松の木がKCHの建物以上に大きくなっている(写真3)。松の木の根が大きく張って、とくに左側の根が建物左部分の土台を持ち上げていたので、その時案内してくれたJPラマさんと「根切りする必要があるかもしれない」、と話したほどだった。建物の外壁であるが、もともとはコンクリートの打ちっぱなしで灰色であったが、全体が赤茶のレンガ色に塗られていた。

写真4 タワーさんの奥さんの墓前のJPラマさん〈2003年)。

  JPラマさんに案内していただき、2003年にKCHを訪れたが、そのすこし前に、タワーさんの奥さん、フルバ・チャムジさんが亡くなっていた。すでにKCHは契約期間が切れ、タワー家の所有になっており、旧KCHの建物は複数の家族が住むアパートに変わっていた。旧KCHを管理する女性がいたので、タワーさんの奥さんの墓前にお参りをした(写真4)。

写真5 旧KCHへの入り口(2015年)。

  サンクーへの地震調査*の行き帰りに旧KCH前を通ったのであるが、あまりの変わりように、旧KCHの場所を特定することができなかった。今回案内してもらったJPラマさんですら、ビルの合間を幾度となく確かめたうえで、ようやく、自動車修理工場(National Motors)の入口(写真5)を見つけることができた。

*サンクーで考えた。
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/06/2015-2015.html

写真6 旧KCH(赤点線内)玄関前の自動車修理工場内で写す(2015年;パノラマ写真)。

  自動車修理工場の門から中に入ると、思い出の旧KCHはあったが、修理場用のブリキの屋根が邪魔して赤の点線内の旧KCHの建物(写真6)をしかと見つめつことはかなわなかった。しかも、右側の松の木はさらに大きく成長していたが、驚いたのは、左側の松の木が枯れていたことである。大規模な根切りでもしたのであろうか。

写真7 旧KCH前の自動車修理工場内で(2015年;左が J. P. ラマさん)。

  さっそく、旧KCH前と言おうか、自動車修理工場内と言おうか、とにかくJPラマさんと記念写真(写真7)。さて、また1つ変化していたのは、外壁の窓より高い部分が白に塗られていたことであった。

写真8 旧KCH玄関(2015年)。

  玄関(写真8)から中に入ると、各部屋は従業員がすむ宿舎になっている。さらに気づいたのは、旧KCH周辺でも建付の悪い家は倒れたり、ヒビが壁に入っていたりしているが、旧KCHの建物の外壁も内部も無傷で、ヒビなどは見られなかった。

写真9 旧KCH北側の壁と窓(2015年)。

  しかも、北側の外壁をつぶさに見ても、ヒビなどは一切見つからなかった(写真9)。おそらく、タワーさんが建設時に鉄筋やコンクリートの建付をしっかりと監督していてくれたのであろう。また、縦の長さが1m半程もある大きなガラスも健在であったが、面白いことに、その大きな窓ガラスの上の方まで空色のペンキが塗られていた。1970年代の建設当時は周りにほとんど家がなく、周辺の丘陵地と田園風景がよく見えたので、ぼくらは自然の外の風景を見たいと思い、窓を大きくしたのだが、現在の住人は、目隠しのためなのか、または人工的青空を見たいという心境の表れなのであろうか。おそらく、前者であろうと思うが、どうだろう。

写真10 ボーダナート寺院入り口付近で酔いつぶれて寝込む人(2015年)。

  6月6日にサンクー調査*へ行く途中、ボーダナートに立ち寄った時、正門近くで酔いつぶれて寝込んでいる人を見かけた(写真10)。この写真を撮ったのは、実は、タワーさんの最後は悲惨で、奥さんとも別れ、ボーダナートで酒浸りだったというタワーさんを、1990年前後だったと思うが、竹中さんがボーダナートに行き、タワーさんの寝込み姿を写真に収めていたのを想いだしたからである。

*サンクーで考えた。
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/06/2015-2015.html

    20世紀末のネパールは大きく変化した時期だったのではなかろうか。ネパール・ヒマラヤ氷河調査隊を立ち上げた1973年に、東ネパール・クンブ地域のハージュン調査隊基地を建設し、調査を軌道にのせてくれたペンパ・ツェリンさん*は謎の死をとげている。一説によると、英語やチベット語などの外国語が得意だった彼は、アメリカのCIAもからんだともいわれる(カンバ族なども活動した)チベット独立運動が渦巻いた1970年代後半に、ネパールの秘密警察に利用され、最後には消されたのでは、とみられている。ペンパ・ツェリンさんの後を継いだハクパ・ギャルブさんの弟はバングラデッシュで勉強した技術者で、建設会社の責任者としては生物学科をでた畑違いのハクパさん以上に必要不可欠の人だったにもかかわらず、自殺をしてしまったのである。

  現在のネパールはバブル的な成長経済とも言われるが、21世紀が始まる直前の20世紀末のネパールは大変革の時代で、多くの人々はその波にのまれてしまったような気がするのである。旧KCHにとってなくてはならなかったタワーさんも、またタワーさん同様アルコール中毒で体を痛めて亡くなった奥さんも、そうした人たちであった。旧KCHもまたしかり、玄関前の1本の松の木は大きく成長したが、他の1本の松の木は枯れたえてしまったことがネパール社会の、同時にまた人々のこの時代の変化を象徴しているようだ。

  そのような人たちを押し流してきた20世紀末から21世紀初めのネパールに、2015年春、巨大地震が襲ったのである。

*ネパール氷河調査隊ハージュン基地建設
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2013/09/blog-post.html
*追悼 井上治郎さん
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2013_09_01_archive.html

PS
KCHの前後
  KCHの前身は、1974年、ターメルの北のゴルクファカに間借りした家および、その後にシンガダルバールの東のドビ・コーラの辺に借りた一軒家、通称「ヒマラヤ・ヴァーワン(館)」であったが、1970年代後半以降のKCHは、鶴巻さん、渡辺(興)さん、山田さん*や門田さん、および貞兼さんたちによって維持・管理されてきた。

*カトマンズ・クラブ・ハウス
北海道大学山の会 (2015年) 寒冷の系譜, 北大山岳部九十周年記念海外遠征史. pp.359-360.

   最後に、タワーさんの子供のことであるが、長男のアン・ナムギャルさんは自殺してしまったが、次男のフジ・ザンブーさんと長女のカルシャン・ディキさんはともにニューヨーク周辺に住んで、ザンブーさんは運転手、ディキさんは看護婦として豊かに生活しているそうです。ディキさんは独り住まいのようですが、ザンブーさんには2人の子供があり、ともに聡明で、医学関係の仕事をしています。ザンブーさんとディキさんともども外国暮らしとは、そのルーツは、日本やドイツでの生活が長かったタワーさんの血を受け継いでいることのあらわれではないでしょうか。