石山~名古屋の積雪量変化
雪見道中フィールドワーク
1) はじめにー雪見道中フィールドワーク―
大雪警報が出ていた2月8日、名古屋での山仲間の新年会に出席するため、石山から東海道線の各駅停車に乗り、道中(写真1の左)の雪見をしながら積雪量分布とその変化を観察した。新幹線は雪で遅れが出ているニュースが流れていたので、在来線のほうも気にしていたところ、滋賀県では湖西線と米原以北の路線が減便とのことだったが、石山から名古屋までの東海道線には遅れは出ていないとのことで、雪見道中フィールドワーク(写真1の右)を楽しむことができたのは幸いであった。
午前中の往路では岐阜県側の関ケ原周辺の積雪量が最も多かったが、午後の往路では積雪量が多い地域が滋賀県側の柏原や長岡周辺に変化するとともに、滋賀県中部の能登川や八幡の積雪量が午前中よりも午後のほうが増えていたことが分かった(写真1の右)。その原因は、ひまわり画像の雪雲分布から、雪雲の収束帯が午前中は琵琶湖から関ケ原町の今増峠方向に分布していたのが、午後になると琵琶湖から甲賀町の鈴鹿峠(写真1の左)の方向になったため、降雪分布が変化したことによると解釈できた。そのことは、さらに広域的な滋賀県の降雪分布(資料1)をみると、卓越風が西風だと北部の余呉町などの地域の積雪が増える「北雪」タイプになり、そして卓越風が西から北へと変わるにつれて、雪雲の収束帯が琵琶湖から関ケ原の今増峠方面から甲賀市の鈴鹿峠方面に変化したので、積雪量分布の特徴が「中雪」タイプになったことによると解釈できた。
写真1 (左)石山~名古屋の鉄道路線図と(右)石山~名古屋の積雪量変化の目視観察資料
資料1
琵琶湖の雪―プロローグ―
https://glacierworld.net/regional-resarch/japan/biwalake/snow-of-biwa-lake-prologue/
写真2 石山の(左)自動車を覆う積雪と(右)瀬田の唐橋の積雪状況
今回のブログ内容は下記の通りである。
1)はじめにー雪見道中フィールドワーク―
2)観測方法と積雪量分布
3)まとめー積雪量分布とその変化―
4)追記―今西錦司氏と寺田寅彦氏の環境認識―
2) 観測方法と積雪量分布
写真3 往路で撮影した(左)米原と(右)近江長岡駅周辺の積雪状況
積雪量の観測は石山~名古屋間(写真1の左)の車窓からの目視で、民家の屋根雪や放置自動車の屋根、または田んぼの畔に垣間見えた積雪断面の状態から判断した(写真1の右)。目視であるので観測した積雪量には誤差を含むが、復路で観察した16:47の関ケ原の積雪量15㎝(写真1の右)と午後7時のニュースで放送された関ケ原の積雪量18㎝の値を比べると、それほど大きな誤差がないことが分かった。積雪が1mを超えるような場合は目視観測の精度は落ちると思われるが、数10㎝前後の積雪なら、ほぼ5㎝単位で観測する目視観測でも積雪量を十分評価できるのではなかろうか。
写真4 往路で撮影した(左)関ケ原と(左)垂井駅周辺の積雪状況
往路の各地点の積雪状況は、出発地点の石山周辺の積雪は2㎝(写真2)で、米原や近江長岡(写真3)に向かうにつれて、守山(3㎝)、野洲(5㎝)、八幡(5㎝)、能登川(7㎝)で、写真4の関ケ原と垂井の写真に見られるように、彦根~大垣間は10㎝だが、関ケ原周辺の積雪量が最も多かった。また、写真5の岐阜と名古屋周辺の積雪状況が示すように、穂積から岐阜が5㎝、一宮の3㎝をへて、名古屋に近づくと積雪は0㎝となっていた。
写真5 往路で撮影した(左)岐阜と(右)名古屋周辺の積雪状況
そして復路は暗くなりかけていたので、写真撮影は難しくなったが、名古屋から西岐阜が0㎝、穂積3㎝、大垣5㎝、垂井10㎝、関ケ原15㎝で、柏原から長岡が20㎝で最も大きな積雪深を示した。その後は、醒ヶ井15㎝、米原10㎝、彦根と南彦根5㎝、河瀬から八幡が10㎝と増え、篠原5㎝、野洲3㎝と減少し、守山~石山で積雪量は0㎝となった。
午後の復路の積雪深から午前の往路のそれとの差(△Hs)はそれぞれの場所の積雪深変化(㎝)を示す。全行程で最も積雪深が増えたのはプラス10㎝の柏原と長岡の2地点で、関ケ原と醒井および八幡のプラス5㎝、そして能登川のプラス3㎝で、その他の地点は変化なしかマイナスであったので、最も積雪深が大きかったのが、午前中の岐阜県側の関ケ原から午後は滋賀県側の柏原と長岡の地域に変化したこととともに、滋賀県南部の能登川や八幡地域の積雪量が午後になって増えたことが明らかになった。
3) まとめー積雪量分布とその変化―
積雪量が最も大きかったのは、往路では関ケ原周辺で、復路では柏原や長岡周辺であったが、復路のもう1つの特徴は滋賀県中部の能登川から八幡にかけての地域の積雪量が増大していたことだった。積雪量の変化は降雪をもたらす雪雲の移動経路の影響を受けるので、当日2月8日12:00(写真6の左)と17:00(写真6の右)のひまわり画像を参考したところ、ひまわり画像中の白い点線が示すように12:00では雪雲の収束帯が琵琶湖から関ケ原町の今増峠方向に分布していたのが、午後の17:00になると琵琶湖から甲賀町の鈴鹿峠の方向に変化しているので、この変化が午前と午後の積雪量分布の特徴に表れたことを示している。そのことはさらに広域的な滋賀県の降雪分布(資料1)の特徴から、卓越風が西風だと北部の余呉町などの地域の積雪が増える「北雪」タイプの分布が表れ、そして卓越風が西から北へと変わるにつれて、雪雲の収束帯が琵琶湖から関ケ原の今増峠方面から甲賀市の鈴鹿峠方面へと変化したことによって積雪分布が「中雪」タイプになったことが反映し、最も積雪量が多かった地域が岐阜県から滋賀県に移動するとともに、滋賀県の中部地域の積雪量が増加したと解釈できた。
写真6 2月8日のひまわり画像;(左)は12:00と(右)は17:00の雲の分布
4) 追記―今西錦司氏と寺田寅彦氏の環境認識―
東海道線ぞいの民家の特徴について今西錦司氏(1940)は、その雪止め瓦の分布について、「東は木曽川付近ではじめて現れる。その出現率は垂井-関ケ原間60%、関ケ原-柏原間の分水嶺付近で74%の最高率を示し、それより柏原-近江長岡間の63%・・・ついに守山以西にはほとんどこれを見ることができなかったのである。このように東海道線を通じて、その分布範囲が関ケ原、柏原付近を中心とした地域に限られているのも、一方では東海道線における積雪の分布状態と密接な関係にあることを示すものにほかならない」(資料2)と報告している。雪止め瓦の出現率が高い関ケ原、柏原付近が2月8日の積雪深が最も大きかったので、今西氏が指摘する「積雪の分布状態と密接な関係にある」ことが確かめられた。ただ、昔の東海道線はゆっくり走っていたので、各地域の雪止め瓦の出現率を調べることができたのであろう。現在は、かなり速く走るので、写真解析でもしない限り、今西流の観測手法は望めないようだ。
また住民の生活様式と環境について、寺田寅彦氏(1934)は「昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠実であった。過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に堪えたような建築様式のみを墨守して来た。それだからそうした経験に従って造られたものは関東震災でも多くは助かっているのである。大震後横浜から鎌倉へかけて被害の状況を見学に行ったとき、かの地方の丘陵のふもとを縫う古い村家が存外平気で残っているのに、田んぼの中に発展した新開地の新式家屋がひどくめちゃめちゃに破壊されているのを見た時につくづくそういう事を考えさせられたのであったが、今度の関西の風害でも、古い神社仏閣などは存外あまりいたまないのに、時の試練を経ない新様式の学校や工場が無残に倒壊してしまったという話を聞いていっそうその感を深くしている次第である」(資料3)と述べている。今西氏の報告した雪止め瓦の分布の特徴も、寺田氏の「時の試練に堪えたような建築様式のみを墨守して来た」住民の知恵を反映した建築文化だと思われる。
資料2
今西錦司(1940)
積雪雑記. “山岳省察”、弘文堂
資料3
寺田寅彦(1934)
天災と国防
「経済往来」1934年11月号
2025年2月11日火曜日
石山~名古屋の積雪量変化 雪見道中フィールドワーク
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