ハージュン物語ー現地調査の新たな展開に向けてー
1) ハージュン日誌
2024年5月15日の夜、長岡の佐藤和秀さんから「名大の藤田さんの所からお借りして、ハージュン日誌 No.6(写真1)をコピーさせていただきました。忘れていた懐かしい日々を思い出しています。よろしかったら、下記よりダウンロードしてご覧ください」というメールが寄せられた。日誌には、「1976年4月28日 井上・岩田・横山・伊藤 47コの荷物と共に、ハージュン入り。ナムチェからハクパも同行。全員高山病の症状もなく入山。やはり半年ブランクにすると、ずいぶんいろんな事が変わっていてとまどう。明日からやらねばならないことがいっぱいある。気象機械は全部こわれているし、小屋の屋根をはりかえなくては。とりあえず今日は酒をのんで寝ることにする」などと書かれている。すると、佐藤さんのメールの翌16日には安成さんの「ほんとに懐かしく、拾い読みしています。48年前のことがつい昨日のことのように思い出されます」のように、かつての隊員6名がつぎつぎとメールで応え、それぞれの思いを語ったのである(追記1)。我々の青春時代のひと時を過ごした東ネパールはクンブ地域のハージュン基地で行われた氷河調査の体験がよほど忘れがたいのであろう。佐藤さんが紹介してくれた日誌はその「No.6」(1976/04/10~10/28)にあたり、ハージュン日誌は冒頭の「名大の藤田さんの所」、すなわち名古屋大学・大学院環境学研究科・地球環境科学専攻・大気水圏系の藤田耕史研究室に保管されている。
写真1 ハージュン日誌No.6
ハージュンとは観測基地があった地名で、我々は日々の出来事を日誌に記した。それが、ハージュン日誌である。1973年に学生だけで1年間の調査活動をおこなったハージュン基地をめぐる思い出をここでは「ハージュン物語」と題して「海外調査と現地住民とのかかわり方」や「現地調査の新たな展開に向けて」の観点に注目して述べるが、おそらく、かつての隊員それぞれの「ハージュン物語」があることであろう。何はともあれ、半世紀前のことである。ネパール・ヒマラヤ氷河調査隊のハージュン基地を根城にし、活動していたのは30歳前後の若者たちであった。我々にとってはまさに青春時代の活動の発露である。ある者は新婚夫妻で登場し、またある者は子供に基地の地名を採用するほどだった。1973年の学生によるネパール・ヒマラヤ氷河調査隊は翌年から名古屋大学の樋口敬二教授を隊長とする旧文部省の海外学術調査隊になり、1978年まで続いた。
写真2 ハージュン日誌No.1
ハージュン日誌No.1のはじめにぼくは「1973年4月7日 土曜日 今日はバザールの日である。 2日前に、小須田とペンパ・ツェリンはクンデに下った。小屋用の資材調達と買い物のために。現在のところ、この小屋は完成度50%である。すきま風、雨もり、fire placeや水場のことなど、これから作業すべきことが山ほどある。我々には時間が山ほどあるから、単調な生活に色をつける意味でも、この作業に我々は喜びを見出すであろう。肉が食いたい。カトマンズをでていらい、proteinを口にしていない。小須田の買物の中心は、ヤクのdry meat片足分を手に入れることだ」と記した(写真2;資料1)。資金に恵まれない学生貧乏隊故の食料事情のためもあり、ぼくは1973年の春と夏の現地調査で10キロ痩せ、その後の秋と冬に行った調査隊の軍資金稼ぎでは、10キロ太り返すという大きな体重変化を経験した印象深い1年になった。というのは、その軍資金稼ぎは沖縄海洋博へ展示する巨大アイスコアを北極海のT3氷島で採取するプロジェクトで、アメリカ基地の贅沢な食事のお陰で太り返すことができたのであった。
資料1
ハージュン日誌 Lhajun Diary
https://glacierworld.net/regional-resarch/himalaya/glacier/lhajun-diary/
2) なつかしの樋口研サロン
地球を旅していた1960年代から‘70年代がなつかしい。1963年から3年程かかった日本→北極海調査(1年半)資料2→ヨーロッパ自転車旅行(3ヶ月)資料3→西アジア貧乏旅行(半年)→ネパール・ヒマラヤ地質氷河調査(半年)資料4→日本への東回りの地球一周の旅と1970年代のネパール・ヒマラヤ氷河の毎年調査で、そこはかとない自由の味を知ったからである。当時の大学環境は安保闘争の時代だったが、安保闘争のいわゆる「政治的」な闘争には、どうしても、自由の実現を感じることができず、未知の「海外調査」のなかに青雲の志を燃やすなかに、新たな自由を求めていたのかも知れない。お互いに闘っていたいわゆる民青と三派の安保闘争両派の友人たちからは「のんびりと、海外調査などしていられるかい」と白い目でみられていた。安保闘争の余韻が残る当時にあっては、学園闘争の渦中にある彼らにとってみれば、暢気にヒマラヤに行くことなどは理解しがたかったことであろう。さらに、ぼくのいた北大の地質教室はお互いの考えかたが違うと、学問上の議論もしないという不自由このうえない教室だったのである。そこで。ぼくは自由な新天地を求めた。
資料2
1963Arctic
https://glacierworld.net/gallery/Arctic/1963Arctic/index.html
資料3
1965Europe
https://glacierworld.net/gallery/Europe/1965Europe/index.html
資料4
中央ネパール Central Nepal Himalaya Geological and Glaciological Expedition 1965.
中央ネパールヒマラヤ地質氷河調査隊
1970年前後、名古屋大学の樋口敬二先生の研究室には、ぼくとおなじように、ヒマラヤなどの新天地のフィールドをめざす若者がたむろしていた。樋口研究室401号室、ぼくたちが「サロン」と称したその部屋からは、多くの若者がアジアや北・南極、北・南米、アフリカなどに旅立って行った。そこは、グローバルな旅を醸造する発酵樽であったようだ。「規模雄大」をもってする中谷宇吉郎先生の流れをくむ樋口先生の、あの「地球からの発想」(資料5)的な旅をつくるサロンは「名古屋大学探検部」的な雰囲気があったようだ。北大山岳部の先輩の渡辺興亜さんが中心になって行われていた「比較氷河研究会」の活動過程をつぶさに体験できたことは、多くの影響をぼくにあたえてくれた。そこで生まれた学生によるネパール・ヒマラヤ氷河調査計画の先遣隊員として、北大山岳部の小須田達治さんとともに、まずは調査隊の許可を取り、そして東ネパール・クンブ地域に基地を建設し、氷河調査を軌道にのせるために、1973年2月、カトマンズに向かった。
資料5
地球からの発想. 樋口敬二著, 新潮社, 1972年12月.
なつかしの樋口研サロン
https://glacierworld.net/academic-conference/nagoya-univ/higuchi-salon/
2016年ネパール通信15 サロンからヒマラヤへの想い
https://glacierworld.net/travel/nepal-travel/nepal2016/salon-to-himalaya/
3) 調査許可取得とハージュン観測基地建設
学生によるネパール・ヒマラヤ氷河調査隊の先遣隊員としてカトマズ入りしたぼくは、政府官庁のあるシンガダルバール地区内にある外務省で調査隊の許可を得るための交渉をはじめた。当初は、従来方式で「Glaciological Expedition to Nepal」の計画書だったが、その計画書ではネパール外務省の調査許可がなかなかもらえなかった。「to Nepal」では「外国(日本)からやってきたよそ者によるネパールへの」氷河調査隊というニュアンスが強すぎたのだろうか。調査許可の交渉進展のため、申請書がどの担当者の机まで上っているかを確認するため外務省に日参し、ネパール人との付き合いが増し、ネパール語もいけるようになると、ぼくの考え方もだんだん変わってきた。(よし、できるだけ現地主義でいこう。)そこで、「Glaciological Expedition of Nepal」の計画書に変えたのである。直訳では「ネパールの氷河調査隊」、英語の略称がGEN。略称だけでは見えないが、GEとNのあいだに”of”が入っている。すると、交渉2ヶ月後、ネパール外務省は調査許可証を発行してくれたのである。ネパール・ヒマラヤ氷河学術調査隊の名称; Glaciological Expedition of Nepalの略称GENはゲンと読めるので、験(げん)が良くなることを内心ひそかに期待したのである。
待ちにまった調査許可証を手に入れるや否や、ぼくと小須田さん(注)は東ネパール・ヒマラヤのクンブ地域に向かい、世界最高峰チョモランマ(エベレスト)峰のふもとに、地元の人たちに協力してもらいながら、ペンパ・ツェリンさんの協力で観測基地を建設することができた(写真3)。基地の地名ハージュンは、ペンパさんによると、平和な平らな土地の意味があるとのことで、地元の人たちの発音を聞いて英名を「Hlajung」としていたが、「神の地」を意味するチベットのラサの英名は「Lhasa」であるので、「Lhajung」なのかもしれない、とも思ったりしている。かつての氷河作用によって堆積した平らなモレーン(氷堆石)の丘に建設されたハージュン基地の背後にはチョモランマ峰から流れてくるクンブ氷河末端のロブチェ峰(6090m)が、また注意深い人なら、写真3のペンパさんの顔の右にチョーオユー峰(8201m)が聳えているのがわかるであろう。
写真3 調査基地建設(左からペンバ・小須田両氏)
写真4 気象観測をするハクパさん
こうして1973年4月、ハージュン調査基地が完成し、1年間におよぶ学生によるネパール・ヒマラヤ氷河調査隊のフィールド・ワークがはじまった。隊員が基地に不在の時は、調査隊の活動を手伝ってくれた地元シェルパ民族のペンパ・ツェリンさんと彼の後を継いだハクパ・ギャルブさんが観測とともに、基地の管理を行ってくれた(写真4)のである。
(注)
小須田達治さんは2024年4月7日に亡くなられた(資料6)。
資料6
追悼 小須田達治さん
https://glacierworld.net/travel/recollection/memorundam-kosuda-tatsuji/
大名旅行ではやっていけないぼくたち貧乏学生隊は、食料などの衣食住をはじめとして、荷物運びでも現地の人たちの協力なしにはやっていけないのだから、好むと好まざるとにかかわらず、(現地主義)を取らざるをえなかった。たとえば薪についても地元の理解が必要で、シェルパの人たちが住むヒマラヤでは、モンスーンの雨期には「宗教上の理由で煙をだしてはいけない」との申し出が住民からあった時も、それでは現地で調査活動ができなくなるので、地元のディンボチェ村の人びとと何回にもおよぶ協議をおこなったうえで、やっと理解してもらい、炊事用の火をたくことを許可してもらったのである。この「煙」問題の経緯については、調査隊の活動を最初から手伝ってくれたペンパさんが1973年5月28日の日誌で次のように書いている。「We may not able to stay at this place in Lhajung during the monsoon. Nobody can stay around Dingboche or nobody can make fire until the end of August. I am not sure, but they say that the smoke of fire effects to the barley and potatos. I told to the head man of Dingboche that, above the Dingboche which place is called Nangajung, anybody can stay, so why can we not be allowed to stay here? But, he didn’t reply me. I hope that we can talk with him and we will able to stay here.」
以上のように、地元の人たちと話し合いをしながら、1年間におよんだ学生たちによるネパール・ヒマラヤ氷河調査が行われたのである。
4) ”to→of→for”へ変化したネパール・ヒマラヤ氷河学術調査隊GENの名称
1973年春から1978年秋までの6年におよぶネパール・ヒマラヤ氷河学術調査隊の正式名称は Glaciological Expedition of Nepal である。隊員が日本からきている隊だから、GE”to”N(ネパールへの氷河調査隊)であって、GE”of”Nでは表現としておかしいという意見もあった。しかしながら、英語の表現が少しくらいおかしくとも、GE”of”Nだと、(現地主義)の感じがでているではないか。1960年代までのネパール・ヒマラヤの氷河調査隊は、GE”to”Nの時代だった(図1)。山登りなどの外国隊と同様、よそ者の時代といえよう。そして1970年代になると、3)章の調査許可の取得経過で述べたように、GE”of”Nの観点がめばえたのである。そしてさらに、クンブ地域のアマダブラム峰南側の氷河湖の決壊による1977年の洪水災害の発生を契機として、1980年代からは自然災害や温暖化とも関連したGE”for”N(ネパールのための氷河調査隊)の段階になってきている(資料7)、のではなかろうか。
図1 氷河調査隊の名称変化(Nepalの前置詞に注目)
資料7
KU Lecture 2015 – 2017
1-2. Student’s research activities in Nepal Himalaya
https://environmentalchangesofthenepalhimalaya.weebly.com/1-2studentrsquos-research-activities-in-nepal-himalaya.html
5) そうか、あれから、もう半世紀たったのか!
東京の牛木久雄さんから2023年7月、電話が突然来て「カトマンズのハクパさんからGEN50周年になるがどうするのか?」と知らせてきたという。そこで彼は、「GEN members got old and they are physically difficult to join gathering in Kathmandu.As a conceivable choice, we are suggesting you to be a host of a Zoom event on 50 years anniversary of GEN.」と返事をしたそうだ(追記2)。彼の電話は、名古屋の名越昭男さんの家からというので、静養中?と伝えられていた名越さんとも話すことができ、元気そうな声にまずは安心することができた。牛木さんは名越さんの見舞いに行っていたようだ。すると、ハクパさんからは依然として「Zoom会議よりもカトマンズでの開催」を示唆する「Physical is better fly off from Japan to Kathmandu even to experience changes rather than Zoom.」とのメールがきた(追記2)ので、牛木さんの考え方を支持する「Thank you sending us a good proposal of our GEN Golden Jubillee. But, you know, some of us, including me, it’s hard to go to Kathmandu for it. So, I would recommend you to take the Wushiki San’s suggestion of the Zoom meeting.」との返事(追記2参照)をだしておいたのだった。
そうか、ネパール・ヒマラヤ氷河学術調査隊(Glaciological Expedition of Nepal)を1973年春に立ち上げて、それから、もう半世紀たったのか!(資料8)
資料8
ネパール・ヒマラヤ氷河調査隊(GEN)50周年の思い出(1)
―そうか、あれからもう、半世紀たつのか!―
https://glacierworld.net/travel/recollection/memory-of-gen-01/
6) 関係者たちへの鎮魂
ネパール・ヒマラヤ氷河調査隊の活動を手伝ってくれたペンパ・ツェリンさんとハクパ・ギャルブさんはともにクンブ地域のクンデ村出身で、義兄弟である。二人が生まれたクンデ村はシェルパ族の聖山クンビーラ峰(5765m)の麓で、ぼくは1970年の夏から冬までの半年間滞在し、ギャジョ氷河を調査した時の基地の村だったので、そこで彼ら二人を知ることができた。
6-1) ペンバ・ツェリンさん
チョモランマ峰初登頂者のエドモンド・ヒラリーさんのクンデ病院で働いていた英語の上手なペンバ・ツェリンさん(写真1)は1973年の東ネパール・クンブ地域のハージュン観測所建設の立役者ですが、1970年代半ばに彼は突然行方不明になってしまったのである。一説によると、英語・チベット語などの語学に堪能な彼はネパールの秘密警察に利用され、挙句の果てに消されたのではないか、ともいわれている。1970年代のネパール情勢には、チベット独立を目指すダライ・ラマのカンパ軍などの動きがネパール北部の山岳地帯であり、その動きに関連する南のインドや北のチベット・中国、はては第3国のアメリカのCIAまでからんだベールにつつまれた闇の情勢の中でペンパさんは消息を絶ったようだ。
いつもながら数カ月のネパールの旅の終わりも近づき、カトマンズ空港に向かう2011年5月9日朝、1970年代から世話になっているハクパ・ギャルブさんから悲報が伝えられた。故ペンパ・ツェリンさんの妻ニマ・ヤンジンさんが昨夜亡くなり、今朝火葬が行われるとのことであった。そこで、ハクパさんの車で空港へ向かう途中、荼毘が行われていたカトマンズのバグマティ川岸のテクに送ってもらい、約30名ほどのシェルパの人たちが参列していたニマ・ヤンジンさんの火葬に参列することができた。
ニマさんの荼毘の脇で涙を流していた逞しい体つきをした長男のウルケン・モランさん(当時28歳)と一方やせ形の長女ツェリン・ドマさん(当時26歳)に会うことができ、二人の風貌からペンパさんのなつかしい面影を思い出すことができた(写真5)。
かつて、1965年以来長いことつきあった故クサン・ノルブ・タワーさんの奥さんを弔らった時は、彼の息子であるフジ・ザンブーさんと娘さんのカルシャン・デキさんにあったが、その二人は現在、それぞれアメリカでタクシー運転手と看護婦としての新しい人生を築いているが、はたしてウルケンさんやツェリンさんの将来ははたしてどうなるのかと一抹の不安を覚えながら、出席していた1979年にチョモランマに登頂したアン・フルバさんに別れの挨拶をして出発時間が迫る空港に向かった。カトマンズからバンコックへの飛行機では、ヒマラヤにしばしの別れを告げるために左窓側の席をとり、さっそく北方のヒマラヤの方向を眺めたが、早くも発達した積乱雲のため、ガウリシャンカールと思しき双耳峰が雲間に見え隠れしたが、チョモランマなどがあるクンブ地方は、あたかも雨期のような厚い雲に閉ざされていた。おそらく、ヒマラヤの神々の座も涙し、ぼくたちの友人たちを弔うかのようだった。
写真5 ペンパさんとアマダブラム峰(右下)と彼の娘ドマさん(中央)と息子モランさん夫妻
写真6 1970年のハクパさん(右から二人目)と彼の弟パルデンさんと(左上)
6-2) ハクパ・ギャルブさんの弟パルデンさん
ハクパ・ギャルブさんはネパールの古い友人で、一番長く付き合っている一人です。1970年のエベレストスキー隊の後、ギャジョ氷河の調査をしている時に、クムジュン村のヒラリー学校からクンデ村に帰る彼に会ったことがある。写真6はその時のもので、右から2人目がハクパさんで、4人目が弟のパルデンさんで、左上は彼ら兄弟である。ハクパさんはクンデ村の友人たちの中では番長的なリーダー役をしていたのが印象的だった。
ネパール・ヒマラヤ氷河調査隊の当初から手伝ってくれたペンバ・ツェリンさんの後をついだのが彼の義弟のハクパ・ギャルブさん(資料1)だった。ハクパさんは観測基地の整備や地元住民との折衝から食事のまかないをするとともに、日本人隊員が不在の時には、観測を実施し(写真4)、記録をとり、日誌をつけることまで、実に多岐にわたって調査隊を助けてくれた。
現在は、日本の丸新志鷹建設会社カトマンズ事務所長を勤め、西ネパールのカルナリ川農業灌漑大規模施設やカトマンズへ水を供給するメラムチ流域の道路開発をするとともに、ネパールはもとよりブータンなどでも学校や道路建設の仕事をしている。最近では、2015年のネパール地震で壊れた学校を再建するJICAの仕事もしており、訪ねてきたユニセフ親善大使の黒柳徹子さんと話したことを誇らしげに話してくれたのである。ネパールへ行くことを告げると「Welcome to your JIKKA any time!」(あなたの実家へはいつでも歓迎!)と、日本語交じりの心温まる返事をくれるネパールの友人である。ハクパさんの弟、パルデンさんはバングラデシュで勉強した技術者だったので、ハクパさんの建設会社の責任者としては必要不可欠の人だったにもかかわらず、シェルパ族とは異なる女性と結婚した家庭環境なども影響して、自殺をしてしまったそうだ。我々のネパールの友人たちは、1970年代のネパール社会の大きな変化の中で翻弄されてきたようだ。
6-3) クサン・ノルブ・タワーさん
前述した故クサン・ノルブ・タワーさんは1965年の中央ヒマラヤ地質・氷河調査隊に参加した後、日本に来て、ぼくたちと札幌で下宿することになったが、その間、タワーさんの言行録なる次のようなメモを書き留めたことがある。「子どもの時から行きたいところたくさんあった。4才でラマ教のタンボチェの寺に入り、15才の時チベットへ行った。仏教の言葉、ものすごく上手になった。タンボチェのお寺に帰ってみると、外国人がたくさん来たから、外国に行きたくなった。お寺の偉い人と喧嘩になったので、200ルピーお金だしてお寺やめた。カルカッタへ行って商売し、カトマンズで金もうけた。日本へ来てよかったのは、車の免許とったこと、歯の病気なおしたこと、スキーもした。どこへ行っても、いちばんいい国はないよ。あなた日本が一番いいと想う?どこへ行っても、悪いとこあるでしょ。中国きらいだね。チベット人の国とった。中国は夜きた」。
タワーさんはタクシーや旅行関係の会社を順調に経営し、円満な家庭生活を送っていたのであるが、晩年は不幸の連続で、自殺した長男ナムギャルさんと奥さんのプルバ・チャムジさんからも見放され、家庭は崩壊し、アルコールに溺れ、ホームレスの生活を余儀なくされた結果、ラマ教のボーダナート寺院で息を引き取ったのである。だがその奥さんも、最後はアルコール中毒で命を落とした。
1970年代の激動するネパール社会にあって、それぞれの家庭も個人もその変化に翻弄されていったのはタワーさんの家族だけではない。前述したように、GENのはじめに尽力してくれたペンパ・ツェリンさんは1970年代後半に失踪し、ペンパ・ツェリンさんの後を継ぎ、樋口先生を隊長とするネパール・ヒマラヤ氷河調査隊の活動を支えてくれたハクパ・ギャルブさんの弟、パルデンさんは自殺した。我々のネパールの友人たちは、1970年代のネパール社会の大きな変化に翻弄されてきたようだ。
6-4) 瀬古勝基さんのカトマンズ・クラブ・ハウス(KCH)日誌
ところが、そのような不幸の側面はネパールの友人たちだけのことではない。我々の仲間の瀬古勝基さん(資料8)もまた消息不明になってしまった。瀬古さんは1996年秋の雪氷学会北見大会の頃に失踪することになったが、その1年前の1995年10月のギャジョ氷河の共同調査と半年前の1996年3月にカトマンズで開かれた「Ecohydrology of High Mountain Areas」国際会議にともに参加し、彼とネパールで過ごした日々十ともに鳥海山の山旅(写真7)が忘れられない。今でも、カトマンズ中心部の繁華街、アソン・バ ザールなどを歩いていると、瀬古さんがふっと現れてくるのでは、と思う時がある。
写真7 瀬古さん(右)と鳥海山頂で(1993/10/18)
写真8 KCH日誌に書いた瀬古さんの図(1996/03/29)
その瀬古さんは、1996年3月29日のカトマンズ・クラ ブ・ハ ウス(KCH)日誌で上に示すような図(写真8;資料9)を書いている。図の縦軸はActive(Pathos,感性)-Passive(Logos,論理)、横軸が Apparent(Constructive,活動)-Suggestive(Reflective,思考)である。そこに、「酔っぱらいながら覚えていることばを考える。“人は信念とともに若く、疑惑とともに老いる。”」と記している。またその2日後の3月31日の日誌には、「Ecohydrology of High Mountain Areas」国際会議のアナウンス資料がはりつけてあり、「久々のKCH滞在、滞在期間を伸ばしたため、1人、当地に留る。久々にネパールのペースに慣れる」、と「久々」の表現を2度繰り返して書き、4月4日のには、「飛行機の切符が取れ、本日帰国致します。今回も大変勉強になりました。すこし冷えた頭で“人は信念と共に老いる”のか・・・名大 水研 瀬古」、と記名している。しかしながら、瀬古さんが描いた図には、「多様な学問&コミュニケーション」と説明しているだけで、瀬古さんが占めるべき位置は図中に示されていないのだが、この半年後に失踪する彼の心の内面が図の縦軸と横軸のとり方や、彼の表現である“人は信念とともに若く、疑惑とともに老いる”から“人は信念と共に老いる”へ変化した表現に現れているのではなかろうか。
その国際会議のことは3月30日の日誌で、ぼくは次のように書いた。「瀬古兄とともにEcohydrology会議に参加し、本日帰国する。今回の会議については、色々と学ぶことが多かった。とくに、ドイツとイギリスの活躍が目立った反面、日本のヒマラヤ研究者の参加が少なかったのは残念の一語につきる。Scientific Strategyの面からも反省すべきことと思われる。また、キラン・シャンカール・ヨガチャリヤさんを中心とするネパール側の熱意(将来のヒマラヤ研究に対する)を十分にくみ取る事ができたのも収穫であった。それに対して、どのように答えるべきか。宿題が残されている、と想う」と記したのであった。なお、ここで紹介したカトマンズ・クラブ・ハ ウス(KCH)日誌は北海道大学山岳館で保管されている。それでは次に、海外調査と現地住民とのかかわり方について、中国雲南省の梅里雪山で亡くなった井上治郎さんを偲ぶとともに、彼の考え方の引用が長くなるため、次の7)章で紹介する。
資料9
追悼 瀬古勝基さん
https://glacierworld.net/travel/recollection/seko-katuki/
7) 「我々は研究者であって教育者ではないのだ」ー海外調査と現地住民とのかかわり方ー
1973年春の井上治郎さんは、京都大学のヤルン・カン峰登山の後、ネパール・ヒマラヤ氷河調査隊にくわわり、ハージュン基地には7月から11月まで滞在している。この章の題名は、その時の井上さんの言葉である。メンバーの多くは、毎日のできごとや感じたことをかなり意欲的に日誌に書いているが、彼はハージュン周辺滞在125日のうちわずか4日しか書いていない。彼の日誌記入率?は4/125=0.032は例外的にすくないほうなのだが、その彼が日誌を記入したのは、ハージュン基地を去る直前の4日間だけのことであった(資料10)。
だが、その4日間の彼の日誌を見ると、記入率は低いといえども、彼が日誌を書くことに意欲がなかったわけでは決してない。というのは、その4日間の日誌には、ヒマラヤ調査のありかたや現地の人たちとのつきあいかたが、8ページにわたりじつに意欲的に、あたかも別離の情にたえられず堰をきったかのように書いている。表題の言葉もふくめて、その内容が彼自身をよく表しているとともに、調査隊の基本的な問題にふれているので長くなるが、紹介する。ヒマラヤ調査などを実施してきた者にとっては、海外調査の基本的なありかたのなかでも、とりわけ現地の人びととのかかわり方が重要な課題で、井上さんはそのことについて、個性的な筆づかいで次のように記している。
写真9 ハージュン基地と点線内は気象観測地点(背景はカンテガ・タムセルク両峰)
写真10 阪神淡路大震災直後、井上治郎さんの仏壇前に座る自宅の母上
「こちらへ来てからずっと伏見氏と牛木氏の会話について考えている。日く、”我々のデータをヒマラヤ住民やネパール人民に還元すべし”。しかし私にはやはりこれはナンセンスとしか思えない。それをやるにはおそらく今の数倍以上のエネルギーが必要だろう。我々は研究者であって教育者ではないのだ。少なくとも私は未知の領域へ来て、研究(データをとること)で頭がいっぱいだ。とても遊びに来たシェルパに自分が今何をやっているか、説明しているヒマはない。勿論、その重要性は認める。地温計や雨量計がパクラレルのも、そういうコミュニケーションの不足からだろう。しかし、それなら観測を開始するまえに、全クンブのシェルパを集めて説明会を開けというのか?それぐらいなら自分はそのようなことは不測の事態としてアキラメた方が良いような気がする。日本の観測でも器械がこわされることはしょっちゅうある。まして教育程度の低いネパールでは仕方あるめえ。日本でも剣沢の雪渓を毎年はかるような仕事を一体何人が理解してる?小生もよくわからない。はまぐり雪に測量棒を立てておいても放ったらかしだったら、夏の終わりには殆どイタズラされているだろう。我々の今度のデータは政府にリポートせねばならぬ。しかし、私の予想では、それらは数年間ホコリをかぶって、そのうち火事で焼けるか、あるいは廃棄処分になるかだろう。私はそれらを積極的に活用するようネパール当局に働きかける気は毛頭ない。そんな事はどっかの国のボランティアがやればよいのダ。そんなヒマがあれば自分はちょっとでもデータが欲しい。研究結果としてネパールは今後このようにすべきだという話がでてくるのは良い。しかし、最初から何もわからない状態で、何かネパールの為になることないかな?というような研究態度はまちがってると思う。そんなことするなら、クンビーラの南斜面に太陽電池でもバラまいて、クムジュン・クンデの村々に発電してやる方がずっとましだ。シェルパやネパール人達がヒマラヤ高山地帯の利用について目を向け、その研究にのり出すのは何十年か先だろう。日本でも、その埋蔵遺跡や文化資産に目をつけたのはたまたま赴任してきた外人教師であった。我々は決して招かれてネパールに来ているのではない。彼らは自分達の国土に対する自覚もないのに、そういう教育、あるいは国土開発に似たようなことをはじめるべきだというのはバカげている。彼らにとって今なすべきことはヒマラヤ以外にワンサとある。我々はただ我々の仕事を如何にスムースになすかということのみを考えればよい」(11月10日)
ここには、5月初めにハージュン基地に滞在した牛木久雄さんとの議論をもとにぼくが日誌に書いた「牛木氏と地域研究についての話題。彼の主張する”カトマンズにヒマラヤ研究所をつくり、我々の研究結果をネパール人に還元すべし”という考えに同感」(5月1日)という記事に対する井上さんの「我々は研究者であって教育者ではないのだ」という考えかたから発想する彼一流の現実主義的な?観点が率直に語られている。海外調査を経験した人なら、たとえ自分中心の見方といわれようとも、つつみ隠さずに心を打ち明けている彼の考え方にも共感を覚えるのではなかろうか。なお、牛木さんが主張した「ヒマラヤ研究所」の構想は、ヒマラヤ・バーバン(館)をへてカトマンズ・クラブ・ハウスとなり、山岳博物館へとつながっていった(資料11)。
はじめに紹介した11月10日の井上さんの日誌の前文には、「夕方、マカルーの残照を30分ぐらいみていた。何だか去るのが惜しくなってくる。静寂が立ちこめる中で夜のとばりは徐々におりてくる。そして2つだけ明るいチョーオユーとマカルー、パンボチェから下の谷は霧でつつまれている。ペンパはバルー(犬の名)を従えてヤクのフンを拾ってる。百葉箱ごしにみるわれらがハージュン。これまでのことをいろいろと回想してると不覚にも涙がひとすじ..落ちませんでした」とあり、感受性豊かな彼の青春のおもかげを見るおもいがする。その文章につづいて、表題に象徴されるような海外学術調査に関する彼の考え方が展開されているのである。その前日の11月9日の日誌の最後には「今夜は満月リッヒがキレイダヨー---!」と彼は書いているので、11月10日の夜のとばりにつつまれて、百葉箱ごしにハージュン基地を見つめる彼には、満月にちかい月光がふりそそいでいたことであろう。
さて、将来のことである。氷河からやがて解放されて再登場する40代の変わっていないであろう彼が、彼の年齢の倍近い我々にむかって、なにを語るだろうか。率直にかたりかける彼のことだから、わたしたちひとりひとりをきびしく叱咤してくるやもしれない。青春時代の面影をとどめているであろう彼に、年老いた我々ははたして真面に対峙することができるだろうか。その日の到来を、舐目して待ちたいところだが、実のところ、恐ろしい気がするのである。なぜなら、京都で行われた彼の葬儀に参列した我々とともに、たくさんの子供たちまでもが彼を見送りに集まっているのを見たとき、彼は研究者であるばかりか、これは以前から感じていたことであるが、彼は教育者でもあったことを確信したのである。だから、「我々は研究者であって教育者ではないのだ」と記した井上さんではあったが、研究者としての我々のみならず、教育者としての我々をも評価するのではないか、と恐れたからである。なにやら、そのことを考えると、おたおたしてはいられない。はたして、彼と対峙する時、ネパール・ヒマラヤ氷河調査隊をひとつの契機としてすすめてきたわたしたちの学術調査の基本的な考え方はどのような進化をとげているであろうか?それを、彼はどうみるであろうか?
資料10
追悼 井上治郎さん
「我々は研究者であって教育者ではないのだ」
https://glacierworld.net/travel/recollection/inoue-jirou/
資料11
宮地隆二さん-山岳博物館ことはじめ-
https://glacierworld.net/travel/recollection/miyaji-ryuji/
安藤さんの事業集大成は「国際山岳博物館」
https://glacierworld.net/travel/aach-memorandum/aach10-andoh/
8) ハージュン観測基地のその後
クンブ地域の氷河観測基地を作るために1973年4月にはじめてハージュンを訪れた時、かつての放牧小屋があったが、荒れはて、したがって夏の放牧時期でも放棄されているのではないか、と感じた。我々は住民と相談し、そこを観測基地にしたが、観測生活をしていた1970年代には、地元の人が誰も苦情を行ってこなかったのをみると、放牧地としては利用価値がなくなっていたのかもしれない。しかし2013年秋に観測基地(写真11)を再訪すると、かつてわれわれが住んでいた石小屋は2つに分割されているのに加えて、周辺には新たな石小屋が3つほど建てられていた(資料12)。夏の放牧時期になると、5軒ほどの家族がハージュンに住み、ヤクなどの家畜の放牧をするようになっているのだろう。この変化から、ハージュン地域が1970年代にくらべて多くの家畜を養うほど、土地の生産力が高くなったのではないか、と解釈できる。おそらく、地球温暖化とともに、牧草を育てる水分条件が好転していることを示すようだ。
この再訪時に、かつてのハージュン基地の玄関前で、花崗岩の転石に掘った「GEN」の文字を見つけた(写真12)。「GEN」の文字を掘った転石には覚えがなかったので、1970年代から世話になっているハクパさんにメールで聞くと、次のような返事がきた。「Well, it was curved around 1975 with SAKANAKA Tetsuo who were with me at Lhajung station for one sole year.」 また、掘られた「GEN」の文字、「G」や「E」の文字の溝に、だいだい色の地衣類が生えているところから、もともと掘られた時は白色の花崗岩だが、30年ほどもすると、地衣類が侵入してくることを示す。だいだい色などの赤や黄色系統の地衣類が最初に侵入し、その後に黒い地衣類が取って代わる変化がみられるようなので、やがてハージュンの地衣類も周辺のタウチェ峰の岩壁と同様に(写真11)、黒い地衣類に変わっていくことであろう。すると、太陽の日射をより吸収し、周辺地域の温暖化を加速するばかりか、夜間凍結した岩石を昼間の日射で溶かす融解再凍結による風化作用を強化する要因にもなる可能性が推察できる。
写真11 その後のハージュン観測基地。背後の山はタブチェ峰(6495m)
写真12 観測基地の転籍に掘られたGENの文字
資料12
2013秋調査旅行余話(1)
ハージュン観測基地
https://glacierworld.net/travel/nepal-travel/nepal2013/neoal2013_02episode/
9) 現地調査の新たな展開に向けて
かつて私は滋賀県立大学の学生とともにネパール中央部のランタン・ヒマラヤを旅した時に、「急速な都市化(文明化)に苦しむカトマンズ的な人たちなどが、サーベル・タイガーのように定向進化的に滅亡の道をたどろうとも、いぜんとして自給的・リサイクル的な生活を営むヒマラヤ高地の山村の人たちは、将来ともども悠久なる生活の営みを続けていける可能性(実力)を秘めている、と考えたい。そう解釈するのは、はたして開発途上国の南側からみれば、楽観的すぎるであろうか、それとも先進国の北側からみれば、悲観的すぎるであろう か」と記したが、車輸送の系統発生を経ずにイムジャ氷河湖にブルドーザーが突然出現し、近代的な大工事の時代にジャンプしたことを知ると、どうやら車輸送のないクンブ地域の将来も永遠の楽園であるシャングリラではありえず、電話時代を飛び越えて携帯を使用しながら牛追いをする子供たちがいるヒマラヤ高地の山村の人たちの現在のソフト面やブルドーザーの侵入によって近代的大工事時代に突入したクンブの人達のハード面の楽観論を否定せざるをえなくなりそうだ(資料13)。
ところが、危機感を訴えているクンブの住民たちは、実際にはイムジャ氷河湖をはじめ、氷河湖決壊洪水(GLOF)を引き起こしたクンブ地域の各氷河湖を見てはいない人が多く、自分で判断できないため、必要以上にこれまでの調査隊の「危険」情報に惑わされているようだった。そこで、住民と一緒に、イムジャ氷河湖と、これまでにGLOFを引き起こした氷河湖のモレーン構造の特徴を現地で見ながら、その実態や対策について相互に対話をしていくことが住民に安心感をもってもらうために必要だと考える。彼らの指摘する「対策」とは人工的な排水用の水路を建設するような単にハードでトップダウン的な大規模工事ではなく、住民の心のケアー対策を考えたソフトでボトムアップ的な住民参加型で氷河災害への理解を深めることが必要な段階にきている、と思われる。
1970年代に行われたネパール・ヒマラヤ氷河調査隊で井上治郎さんがいみじくも指摘した「シェルパやネパール人達がヒマラヤ高山地帯の利用について目を向け、その研究にのり出すのは何十年か先だろう」という7)章で紹介した視点は、カトマンズ大学の講義の中で育ってきた地元のシェルパ族の氷河研究者(資料14)が活躍している現在では、地元の研究者との共同研究が必須のテーマになってきているとともに、ヒマラヤで行われる現地調査や研究のあり方も、地域住民との関係において、住民参加型で災害対策などへの理解を深めることが現地調査の新たな展開に向けて忘れてはならないであろう。
資料13
イムジャ氷河湖に重機出現―歴史はジャンプするー
https://glacierworld.net/home/change-of-imja-work/
資料14
カトマンズ大学の講義報告
https://glacierworld.net/travel/nepal-travel/nepal2015/nepal2015_12ku-lecture/
追記1 ハージュン日誌に関する元隊員たちのメールの投稿経過
1) 送信日時: 2024年5月15日 21:18
差出人: 佐藤和秀
件名: ハジュン日誌 No.6(1976.4.10〜10.28)
皆様
佐藤和秀です。
名大の藤田さんの所からお借りしてハジュン日誌 No.6をコピーさせていただきました。忘れていた懐かしい日々を思い出しています。よろしかったら、下記よりダウンロードしてご覧ください。
FILE: ハジュン日誌 No.6(1976.4.10〜10.28).pdf
URL: https://36.gigafile.nu/0714-da3c23c09efe16cefc4f892d23311e124
ダウンロード期限: 2024年7月14日(日)
2) 2024/05/16 00:20
佐藤和秀さん: (CC:皆さん)
GEN’76のハージュン観測所撤収までの半年間のハージュン日誌No.6のpdf版、ありがとうございました。ほんとに懐かしく、拾い読みしています。48年前のことがつい昨日のことのように思い出されます。実は、私もハージュン日誌No.1~No.6を、名大に居る時にハードコピーしたものを持っていますが、長い間、研究室で眠っています。
メールをいただいたついでに。昨年5月に『モンスーンの世界』(中公新書)を出版しましたが、文理融合の内容のせいか、評判は二つに分かれてしまったようです。つい先日、ある教育出版社から連絡があり、この本の第7章「日本の風土と日本人の自然観の変遷」の一部が、東京の杉並学院高校の国語の入試問題になったとのことで、びっくりしました。
あまりご興味はないかもしれませんが、一応添付いたします。よかったら、「解いて」みてください(笑)。中3の受験生には、ちょっとむつかしい気がしますが。
安成 哲三
3) 2024/05/16 04:35
佐藤さまーーー伏見です
ハジュン日誌 No.6を見ることができ、大兄のご努力に感謝します。半世紀前の我々の青春時代の面影が感じられて懐かしい思いです。ハジュン日誌についてはNo.1を下記で紹介していますので、ご覧下さい。No.6ではハクパさんのお世話になったことが分かりますが、GEN当初のNo.1(資料1)ではペンパさんの活躍などが書かれています。
4) 2024/05/16 17:48
佐藤さん
送付ありがとうございます。去年10月のネパール旅では、Lhajung まで行きつけませんでしたが、この日誌をゆっくり読ませてもらい、思い出すことにしましょう。ょうど私がLhajungにいた時ですね。
大畑
5) 2024/05/16 21:39
佐藤和秀
安成様
入試問題 全くわかりません(笑)
伏見様
ハジュン日誌No1 ありがとうございます。 最初の基地建設の生々しい記録ですね。1973年4月から8月は第15次南極観測隊で渡辺さんと南極越冬中で、真っ暗なみずほ基地で格闘中でした。
岩田様
私の知る限りでは、他のナンバーのPD化はされていないと思います。名大にあることがわかり、藤田さんに見せてもらえるかとお聞きしたら、いつでも来てどうぞと言われましたが、現役でもなく、簡単に名古屋まで行けないので、着払いで送ってもらいました。すぐ返却予定でしたが、催促もないので2年近くもお借りし、スキャンし、先日お返ししました。
大畑様
日誌の最後の方にお名前があったのでご案内しました。
佐藤和秀
6) 2024/05/16 23:47
佐藤さん: 上田です
1976年は、いっしょにクンブとショロンの小型氷河をいくつも巡りましたね。ハジュン日誌のせっかくのご配慮は、ぼくの目では活用できず残念です。添付ファイルの写真からも、ハジュン1976を思い出してください。
追記2 ネパール・ヒマラヤ氷河調査隊の50周年記念会をめぐるメール経過
1) 牛木久雄
Sent: Sunday, July 9
Subject: GEN anniversary
Dear Lhakpa Gyalu,
Sorry for my long silence.
Last Friday I went to Nagoya to see Nagoshi.Then I gave a call to Fushimi from there, and we talked about the matter on GEN. The first GEN mission consisted of Fushimi, Nagoshi and Lhakpa !! I remember built-new Lhajung Observatory, you established, with GEN flag. I said to the two members that Lhakpa, as a mission member, gave me several mails, reminding me of 2023 as 50 years anniversary of GEN.
As you wrote, the best anniversary should be celebrated in Nepal. However, GEN members got old and they are physically difficult to join gathering in Kathmandu.As a conceivable choice, we are suggesting you to be a host of a Zoom event on 50 years anniversary of GEN. You may have many experiences of participation in Zoom. Please consider the possibility of using Zoom.If you schedule the event in this fall, in Oct., Nov., or Dec. we will be happy, particularly myself.
Regards,
Wsuhsiki
2) LHAKPA GYALU SHERPA
Dear Sirs
Your mail has been acknowledged.Physical is better fly off from Japan to Kathmandu even to experience changes rather than Zoom. It is gift of Covid-19 the Zoom so ..a virtual. I got email from Mr. Takenaka ji he said there is gathering of Dr. Higuchi Laboratory in November ?
Stay healthy
Lhakpa Gyalu Sherpa
July 11, 2023
3) FUSHIMI Hiroji
2023/07/11
Lhakpa Ji,
Thank you sending us a good proposal of our GEN Golden Jubillee. But. you know, some of us, including me, it’s hard to go KTM for it. So, I would recommend you to take the Wushiki San’s suggestion of the Zoom meeting probably sometime in this fall.
PS
The [gathering of Dr. Higuchi] you mentioned is for his 96th and his wife’s 90th birthday.
Sincerely Yours,
Hiroji Fushimi
2024年7月1日月曜日
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