AACH備忘録(13)
木崎さん(2)ー思い出ー;二題
木崎さんの3回忌に追悼集を出版するというので、当初は下記1)「ヒマラヤ上昇論夢想」と2)「木崎さんは根っからの自由人!」を書いたが、一人が2つも出すのははばかれたことに加えて、個人的な内容が多い「木崎さんは根っからの自由人!」は取り下げて、木崎さんの自然観が感じられる「ヒマラヤ上昇論夢想」を投稿することにした。なお、編集幹事からの「寄稿文は1500字~2000字を目途、刷り上がり2ページ程度」の指摘にそって執筆するとともに、追悼集がカラー印刷かモノクロ印刷かが不明だったので、下記1-1)のカラー写真用とともに1-2)の白黒写真用の原稿も用意した。
1ー1)ヒマラヤ上昇論夢想(カラー写真用原稿)
木崎さんの「わたしは山脈が上昇するひとつのモデルを作った」というヒマラヤ上昇論(木崎甲子郎;北海道新聞コラム「オーロラ」1985/06/29)とその展開はこうなっている。「山脈の内部にあるミグマタイトと呼ぶ花崗岩の岩体が直径数キロの火の玉状に上がってくる。というのは、花崗岩は地殻の内部ではいちばん軽い岩石だから、地球の重力場では、水中の気泡のように上昇する。それが地層を押し上げて山脈を作ったにちがいない。(中略)そこで、共同研究者であったコンピューター使いに数値実験をしてもらった。が、結果は悲観的であった。たしかに、花崗岩体は1万年にやく1メートルの速度で上昇してくる。だが、地表はどうみても数百メートルしか隆起しないのである。これでは山脈どころではない」。そこで木崎さんは、「まだこのモデルをあきらめたわけではないが、新しいモデルを探してネパールくんだりに夢を追いかけている」と記している。
図1 クンブ地域の地質スケッチ 図2 ヒマラヤ山脈形成のメカニズム
そこでまず、図1のクンブ地域の地質スケッチを見てほしい。世界最高のチョモランマ峰周辺の約20キロメートル四方のクンブ地域の大部分には赤色と茶色で示す花崗岩とミグマタイトが、チョモランマ峰の頂上部分に緑色で示すイエローバンドなどのテーチス海堆積物がわずかに分布している。なお、図1中の赤矢印はチョモランマ峰基部に貫入する図2の火の玉状の花崗岩体の位置を示す。はじめに指摘しておきたいのは、木崎さんが強調する火の玉状花崗岩またはそれに類するミグマタイト岩体がチョモランマ峰周辺の広大な基盤のいたるところに分布し、大きさが約2キロ四方の図2の火の玉状花崗岩の百倍程ものスケールで、チョモランマ峰の土台を支えている実態である。
僕の考えるチョモランマ峰形成(図2)の上昇要因としては1)インド亜大陸のアジア大陸への衝突と潜り込みによるせり上がりと木崎さんが指摘する2)火の玉状花崗岩による上昇、そして下降要因としては3)チョモランマ峰直下の北側に滑り落ちる正断層活動と4)風化現象による浸食作用である。2015年5月のようなヒマラヤの大地震時にそれらの値が変化し、最高峰を形成すると解釈している。
木崎さんは「直径数キロの花崗岩」では「地表はどうみても数百メートルしか隆起しないのである。これでは山脈どころではない」と一見さじを投げているかのようだが、約2キロ四方の火の玉状花崗岩やミグマタイト岩体がその百倍程あったら、単純計算で、数百メートルの百倍、つまり数万メートルになり、ヒマラヤ山脈が成立するのではないか、とまずは夢想する。
ところが、木崎さんが描いたその地域の油絵(図3)には、イエローバンド(黄色の文字と矢印)らしき地層はあるのだが、図2の火の玉状の貫入花崗岩が描かれていないのである。ヒマラヤ山脈の形成に重要な要素として強調する火の玉状花崗岩の地質構造を木崎さんが見逃すはずはない。画面左からの雲が遮って見えにくくしたとしても、木崎さんなら見つけ出すはずなのだが、それとも、木崎さんは図2の火の玉状花崗岩の露頭を見ていなかったのかもしれない。
図3 木崎さんのチョモランマ峰の油絵 図4 アンナプルナⅡ峰を眺める木崎さん
だから1974年の、木崎さんの初めてのヒマラヤの旅で、案内役の僕としては図2の大露頭を見ていただきたかった。だがモンスーンの雨期に入ったクンブ地域のその現場にカトマンズから行くのはアプローチの点で困難だったので、雨期でも交通の便の良い中央ネパールのポカラ周辺のアンナプルナⅡ峰南のマディ川上流域に行くことになった。その時の木崎さんは、モンスーン雨期の霧の晴れ間に、「新しいモデルを探して」と思われるが、アンナプルナⅡ峰をあかず眺めていた姿(図4)が印象的だった。
最後に、世界最高峰の変遷を夢想することにする。イエローバンドなどのテーチス海堆積物を頭にかぶるチョモランマ峰は頂上部分の浸食によってテーチス海堆積物を失うと、将来のチョモランマ峰は頂上まで花崗岩の山体に変わり、高度を失うであろう。すると、世界一の座をカラコラム山脈のK2峰などにゆずるかもしれぬ。逆に、頂上まで花崗岩の現在のマナスルやマカルー両峰などもかつては頂上部に数百メートルの厚さのテーチス海堆積物をのせていたと推定できるので、その当時の両峰などが世界一の高さを競っていたのかもしれない。しかしその後に、頂上部のテーチス海堆積物が浸食され、花崗岩の山体になると、両峰とも高度を失い、チョモランマ峰に世界一の座をゆずったのではないか、などとの以上の夢想で木崎さんのヒマラヤ上昇論を補強したいのだが、はたして、泉下におられる戒名「山岳院甲徳居士」の木崎甲子郎さんは、僕の夢想をただの妄想と一笑にふすであろうか。「甲徳」とともに「高徳」でもあった「山岳院居士」さん! 合掌。
1-2)ヒマラヤ上昇論夢想(白黒写真用原稿)
木崎さんの「わたしは山脈が上昇するひとつのモデルを作った」というヒマラヤ上昇論(木崎甲子郎;北海道新聞コラム「オーロラ」1985/06/29)とその展開はこうなっている。「山脈の内部にあるミグマタイトと呼ぶ花崗岩の岩体が直径数キロの火の玉状に上がってくる。というのは、花崗岩は地殻の内部ではいちばん軽い岩石だから、地球の重力場では、水中の気泡のように上昇する。それが地層を押し上げて山脈を作ったにちがいない。(中略)そこで、共同研究者であったコンピューター使いに数値実験をしてもらった。が、結果は悲観的であった。たしかに、花崗岩体は1万年にやく1メートルの速度で上昇してくる。だが、地表はどうみても数百メートルしか隆起しないのである。これでは山脈どころではない」。そこで木崎さんは、「まだこのモデルをあきらめたわけではないが、新しいモデルを探してネパールくんだりに夢を追いかけている」と記している。
図1 クンブ地域の地質スケッチ 図2 ヒマラヤ山脈形成のメカニズム
そこでまず、図1のクンブ地域の地質スケッチを見てほしい。世界最高のチョモランマ峰周辺の約20キロメートル四方のクンブ地域の大部分には灰色で示す花崗岩とミグマタイトが、チョモランマ峰の頂上部分に格子模様で示すイエローバンド等のテーチス海堆積物がわずかに分布している。なお、図1中の矢印はチョモランマ峰基部に貫入する図2の火の玉状の花崗岩体の位置を示す。はじめに指摘しておきたいのは、木崎さんが強調する火の玉状花崗岩またはそれに類するミグマタイト岩体がチョモランマ峰周辺の広大な基盤のいたるところに分布し、大きさが約2キロ四方の図2の火の玉状花崗岩の百倍程ものスケールで、チョモランマ峰の土台を支えている実態である。
僕の考えるチョモランマ峰形成(図2)の上昇要因としては1)インド亜大陸のアジア大陸への衝突と潜り込みによるせり上がりと木崎さん指摘の2)火の玉状花崗岩による上昇、そして下降要因としては3)チョモランマ峰直下の北側に滑り落ちる正断層活動と4)風化現象による浸食作用である。2015年5月のようなヒマラヤの大地震時にそれらの値が変化し、最高峰を形成する、と解釈している。
木崎さんは「直径数キロの花崗岩」では「地表はどうみても数百メートルしか隆起しないのである。これでは山脈どころではない」と一見さじを投げているかのようだが、約2キロ四方の火の玉状花崗岩やミグマタイト岩体がその百倍程あったら、単純計算で、数百メートルの百倍、つまり数万メートルになり、ヒマラヤ山脈が成立するのではないか、とまずは夢想する。
ところが、木崎さんが描いたその地域の油絵(図3)には、矢印で示したイエローバンドらしき地層はあるのだが、図2の火の玉状の貫入花崗岩が描かれていないのである。ヒマラヤ山脈の形成に重要な要素として強調する火の玉状花崗岩の地質構造を木崎さんが見逃すはずはない。画面左からの雲が遮って見えにくくしたとしても、木崎さんなら必ず見つけるはずなのだが、それとも、木崎さんは図2の火の玉状花崗岩の露頭を見ていなかったのかもしれない。
図3 木崎さんのチョモランマ峰の油絵 図4 アンナプルナⅡ峰を眺める木崎さん
だから1974年の、木崎さんの初めてのヒマラヤの旅で、案内役の僕としては図2の大露頭を見ていただきたかった。しかし、モンスーンの雨期に入ったクンブ地域のその現場にカトマンズから行くのはアプローチの点で困難だったので、雨期でも交通の便の良い中央ネパールのポカラ周辺のアンナプルナⅡ峰南のマディ川上流域に行くことになった。その時の木崎さんはモンスーン雨期の霧の晴れ間に、「新しいモデルを探して」と思われるが、アンナプルナⅡ峰をあかず眺めていた姿(図4)が印象的だった。
最後に、世界最高峰の変遷を夢想することにする。イエローバンドなどのテーチス海堆積物を頭にかぶるチョモランマ峰は頂上部分の浸食によってテーチス海堆積物を失うと、将来のチョモランマ峰は頂上まで花崗岩の山体に変わり、高度を失うであろう。すると、世界一の座をカラコラム山脈のK2峰などにゆずるかもしれない。また逆に、頂上まで花崗岩の現在のマナスルやマカルー両峰などもかつては頂上部に数百メートルの厚さのテーチス海堆積物をのせていたと推定できるので、その当時の両峰などが世界一の高さを競っていたのかもしれない。しかしその後に、頂上部のテーチス海堆積物が浸食され、花崗岩の山体になると、両峰とも高度を失い、チョモランマ峰に世界一の座をゆずったのではないか、などとの以上の夢想で木崎さんのヒマラヤ上昇論を補強したいのだが、はたして泉下におられる戒名「山岳院甲徳居士」の木崎甲子郎さんは、僕の夢想をただの妄想と一笑にふすであろうか。「甲徳」とともに「高徳」でもあった「山岳院居士」さん! 合掌。
2)木崎さんは根っからの自由人!
「先生呼ばわりはやめてくれ」と言われた木崎さんの初めてのヒマラヤ行きに同行したアンナプルナの山旅は忘れがたい。時は1974年、木崎さん50歳、僕33歳だった。その時以来、僭越にも木崎さんと呼ばせていただいているが、なにせ、北大地質教室の卒業論文に修士論文も指導していただいたのだから、僕の心の中ではいつも木崎先生だった。
ヒマラヤに初めて来た時の木崎さんはすでに北大を離れ琉大に移っており、僕は名大に世話になっていた。お互いに当時の安保闘争で揺れる古巣の北大を追われるようにして、離れ離れになっていたことが影響したのだろうか。木崎先生から木崎さんへと変化した呼称の要因は、以後面倒御免の意を示す別れの通達か、ひょっとすると「木崎スクール」からの破門通告だったのかもしれない。だからなのだろう、1980年代に行われたヒマラヤ共同研究の木崎隊のメンバーへの呼びかけは僕にはついに来なかった。
北大の地質教室といういわゆる学び舎から追い出された我々は新天地のヒマラヤで羽ばたかねばならなくなった。そこで、まず「山岳博物館」構想を進めるとともに、研究者のカトマンズ宿泊施設「ヒマラヤ・バーワン(館)」を牛木久雄さんの命名で1974年に作り、その2年後の1976年からは、渡辺興亜さんが中心なり資金を集め、白石和行さんと僕が設計し、ネパールの友人である故クサン・ノルブ・タワーさんの敷地に「カトマンズ・クラブ・ハウス」を建てた。そして、ヒマラヤの地質や氷河などに関する共同研究が進展し、それらの宿泊施設を利用した人たちのヒマラヤ研究に関する成果が「ネパール・ヒマラヤの地質研究」と「ネパール・ヒマラヤの氷河と気候に関する研究」として結実し、1973年度と1980年度の第10回と第17回の秩父宮記念学術賞を授賞することができたのである。ヒマラヤでは、行くたびに感じられたことではあるが、古巣の北大地質教室ではかなわなかった、憧れていた限りない自由な研究の雰囲気にひたることができた。
今となって考えると、「学び舎を失った我々がヒマラヤの新天地で羽ばたかねばならなくなった」状況を沖縄からつぶさに観ていただろう木崎さんは、一種の「木崎先生という鳥かご」から独り立ちするように、あたかも「獅子の子落とし」の故事のごとく、僕を自由に羽ばたくようにしてくれたのではあるまいか。つまりそれは、木崎さん特有の自由教育の実践だった、と思われるのである。そこにも、何物にも代えがたい”自由”の意味を僕に教えてくれたのが木崎さんだったことを感謝とともに改めて思い出す。
白石和行さんの「名誉会員 木崎甲子郎先生を偲ぶ」(資料1)のなかで、「先生は、鉱山技師であった父親について、各地の炭鉱や鉱山を移り住んだため,小学校を5回、旧制中学を2回も変わりましたが、それを嫌と思うどころか、次の転校先を楽しみにしていたということです。放浪癖とも表現されていました」と白石さんが指摘する「放浪癖」は僕が感じた木崎さんの新天地を目指す根っからの自由人を象徴しているような気がする。木崎さんが北大から琉球大学に転身を決意した原点も自由に憧れる放浪癖にあったのかもしれぬ。僕自身も、1963年から1966年までの東回りの地球一周旅行では、北極海調査で得た軍資金で、ヨーロッパや西南アジアを自転車等で旅行し、ネパールの地質氷河調査隊に合流した後に帰国し、約2年半にわたる放浪の旅を経験したので、その旅の間に感じた自由を尊ぶ実体験が ”木崎さんの放浪癖”に合い通じるのを感じる。
木崎さんは、1990年の琉球大学退官時に刊行した「ネパールの旅―スケッチ集―」(資料2の「ご挨拶」)で、「大学のいいところは、自由と寛容の精神が満ち溢れていることで、それに甘えて、ずいぶんと好き勝手なことをさせてもらい、今考えてみると、よくやらせてくれたと思うばかりです」と木崎さんは述べているのだが、まさしくその「自由と寛容の精神」を実践的に教えてくれた木崎さんには重ね重ね感謝したい。
ところで、アーティスト木崎さんの誕生は、初めてのヒマラヤに出発するとき、奥さまから「年をとったら趣味のひとつも持つものよ」と絵具とスケッチブックを持たされたのが始まり(資料2の「あとがき」)だそうですが、琉球大学退官後は、教え子の事務所の一室を借りているという那覇市内のアトリエ(写真1)でヒマラヤなどの油絵を描くようになった。それもまたアーティストとしての木崎さん独特の自由な生き方を示しているようだ。その木崎さんから贈っていただいた油絵「ペリチェの朝 2003 Jan.」(写真2)を自室に掲げ、根っからの自由人だった木崎さんを偲んでいる。
写真1 アトリエの木崎さん 写真2 ペリチェの朝 2003Jan.
資料
1)白石和行(2022)名誉会員木崎甲子郎先生を偲ぶ.
http://www.geosociety.jp/uploads/fckeditor/NEWS_BN/2022-06.pdf.
2)木崎甲子郎(1990)ネパールの旅―スケッチ集―. 木崎甲子郎教授退官記念会,(有)サン印刷,86p.
やりとり
お知らせ
FUSHIMI Hiroji <fushimih@hotmail.co.jp>:
2023年3月20日(月) 4:12
林・松田両大兄ーーー伏見です
亡くなられた木崎甲子郎さんの思い出を
下記のブログに書きましたので、お時間
のある時にご覧ください。
記
AACH備忘録(13)
木崎さんの思い出;二題
https://hyougaosasoi.blogspot.com/
上記のブログに対して、下記のような意見が寄せられました。
Daigoro Hayashi <daigoro62@gmail.com>
2023/03/20 08:10
伏見碩二 様
ブログを拝見しました。
ヒマラヤ上昇論夢想 および 木崎さんは根っからの自由人!
は遠慮せずに両方とも載せるのが良いと思います。
木崎さんは本当に信頼できる弟子を持ったと感じました。
松田益義 Masuyoshi Matsuda <matsuda@mtsnow.co.jp>
自分'Daigoro Hayashi'
2023/03/20 11:10
伏見様
CC; 林兄
ブログ、大変懐かしく読ませていただきました。
木崎さんが北大を去り、以後北大探検派が求心力を失うことに繋がったように感じ、今でも残念に感じます。
僕が書いた追悼文を添付します。
内容に記憶違い等ありましたらご指摘ください。
去年、八王子のお宅にお邪魔した際にお送りすると約束した木崎先生と一緒に撮った写真の件、どうしても見つかりません。記憶違いか6年前の引越しの際に紛失したのかもしれません。写真を大切に管理する伏見さんを見習わなくてなりません。
お詫びします。
松田益義
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