2022年4月8日金曜日

AACH備忘録(11) ヒマラヤの木崎さんのことなどー思いつくままにー

 

AACH備忘録(11)
ヒマラヤの木崎さんのことなどー思いつくままにー

伏見碩二

1)はじめに

木崎さんがとうとう逝ってしまった今、しきりに、木崎さんとのヒマラヤ行きを思い出す。木崎さんはもともと南極とともにヒマラヤをも目指していたが、初めてのヒマラヤ行きがやっと実現したのは、50歳の1974年だった。その時の僕は、1973年に学生によるヒマラヤ氷河調査隊(GEN)の許可取得・調査体制(資料1)の立ち上げを行った際にお世話になった方々と相談しながら、翌年の1974年は、30年後に実現することになる山岳博物館(Mountain Museum)設立(資料2)の為にカトマンズで計画書作りをしながら、ネパール山岳協会やネパール王だった故ビレンドラさんの義理兄にあたるクマール・カドガさんなどの関係者との折衝をしていた。そこに木崎さんが現れ、木崎さんの初めてのヒマラヤ行きのお供をさせていただくことになったのである。僕はこれまでに通算20回ほどヒマラヤ通いをしているが、この旅が木崎さんとの初めてであるとともに最後のヒマラヤ行きになった。

そのヒマラヤの旅で、実は「先生呼ばわりはやめてくれ」と木崎さんから通告されたのだ。以来、心中では依然として木崎先生の思いが強いのだったが、僭越にも木崎さんと呼ばせていただいている。なにせ、北大地質教室の卒論にくわえて修士論文も指導していただいたのだから、当然のごとく、僕には木崎(大)先生であった。両論文指導の他にも、19631965年の北極海調査への参加に関しては隊長の楠宏さんへ、さらに北大低温科学研究所での氷の実験許可に関しては若浜五郎さんへ木崎さんから話をつけてくださるなどの研究面でのサポートも常にしてくれていたのである。

ところで、ヒマラヤに初めて来た時の木崎さんは既に北大を離れ琉球大に移っており、僕はと言えば名古屋大にところを変えていた。お互いに、当時の安保闘争で揺れる古巣の北大を追われるようにして、離れ離れになっていたことなどがおそらく影響したのだろうか。以上のような僕の心の中での木崎先生から木崎さんへと変化した呼称の要因は、木崎さんからの、以後面倒御免の意を示す別れの通達か、おそらく、ひょっとすると「木崎スクール」からの破門通告だった、のかもしれない。

だからなのだろう、1980年代になって行われることになったヒマラヤ研究の木崎隊のメンバーへの呼びかけは僕にはついに来なかった(ただ一度だけ、那覇で開かれた木崎隊の研究会に外部の者として参加できたことはあった。その研究会後、木崎さんからテントを借りて、西表島を西から東へ横断する一泊2日の一人旅を楽しんだことを思い出す)。その当時の僕は、お世話になった樋口敬二さんの名古屋大学からさらに吉良竜夫さんの琵琶湖研究所に移り、滋賀県職員になった僕としては身動きがとりづらい環境になっていたことも影響したのかもしれぬ。だが、そのような境遇の変化にあっても、1987年夏の樋口隊長の西コンロン・チベット高原氷河調査隊には2か月ほども参加することが可能だったのは、樋口さんが吉良さん経由で滋賀県側に話を通してくださったからであった。

その樋口さんは享年90歳で4年前に、また吉良さんは享年91歳で11年前にお亡くなりになっているとともに、上記のお世話になった方々である低温科学研究所におられた楠さんは享年99歳で、そして若浜さんは享年94歳で、さらに木崎さんは享年97歳という卒寿を超えた高齢で、皆さま揃って去年から今年にかけて大往生を遂げられたのである。皆さまは、和田秀樹さんが提案(資料3)している「80歳を超えた人は高齢者ではなく幸齢者」であるから、真に慶賀の至りを覚えるとともに、長年にわたりお世話してくださったことに対して、心から、哀悼の意を表したい。

資料
1)学生によるネパール・ヒマラヤ氷河調査隊
ネパール通信15 サロンからヒマラヤへの想い-フィールド・ワーク雑感-
https://hyougaosasoi.blogspot.com/2016/12/201615.html
2)国際山岳博物館構想の原点
AACH備忘録(10)
安藤さんの事業集大成は「国際山岳博物館」だったのではないか。
―安藤久男さんの追悼文にかえてー
https://hyougaosasoi.blogspot.com/
3)80歳の壁
和田秀樹 (2022) 幻冬舎,  p226.


2)当時の北大理学部の地質教室

 1970年前後は、文化大革命、ケネディ大統領とキング牧師暗殺、アポロ11号の月面着陸、学園紛争、大阪万博、ウォーターゲート事件やベトナム戦争終結などの出来事が続いた世界的にも変動の時代であったようだ。我々のヒマラヤの調査活動も、それらの世界的変動の中での日本の高度成長時代を背景にしていたのではないかと思う、と今さらながら考え深い。あの三島由紀夫さんが自衛隊に決起を呼びかけた後に割腹自殺した1970年11月の事件は、ヒマラヤの氷河調査中にBBCのニュースで聞き、彼の大袈裟な振る舞いは、何と言おうか、人騒がせをする輩だとあきれ果てるばかりだった。ただ、当時の学生運動家と三島由紀夫さんが東大の安田講堂で議論を交えたことがあったことから、その議論などを経て彼らと三島由紀夫さんはお互いに幾許かの影響をあたえあった可能性があるとすると、東大の安田講堂と市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部での出来事には何らかの共通項があるかもしれぬ。

 当時の学園紛争に揺れ動いていた北大地質教室での木崎さんは、安保闘争のいわゆる全共闘系の学生活動のシンパとみられていた。木崎教室にはその筋の学生が出入りしていたからである。そのためもあって、彼らとは対立したいわゆる民青系のグループ中でも地質教室の天皇とも称されていた湊正雄さんは、今ならパワハラの類になると思うが、天皇の権威を笠に着たような態度で木崎さんを地質教室の会合などであからさまに叱責するのだった。おそらくそのことなども影響して、地質教室での肩身の狭さ、不自由さを感じて、木崎さんは新たな自由を求めて琉球大学へ移られたのではなかろうか、と僕は推察している。木崎さんと同じような肩身の狭い思いをしていたのが、ヒマラヤの地質調査もしていた教養学部の地質教室にいた太田昌秀さんだった、のではないか。その太田さんは、木崎さんと時を同じゅうして、ノルウェイの極地研究所(Norsk Polar Institutt)に転身することになったのである。湊さんたちのグループにとってみれば、学園紛争の時代にヒマラヤなどの極地なんぞにうつつを抜かす輩が気に食わなかった、のかもしれない。

 さらに、僕個人の経験を言わしてもらえれば、卒論前の3年目の終業論文の指導を湊さんにしていただいた後、「卒論は湊教室に来ないか」とさそわれたが、「木崎教室に行きます」と伝え、断ったことも影響したのか、地質教室の狭くて薄暗い廊下でその湊さんとすれ違った時に、僕が「こんにちは」と挨拶すると、彼からは「何言ってやがるんだ」とにがにがしくもしっぺ返しされた経験がある。その時にも、天皇の権威を笠に着た湊さん的性格の一端を垣間見たような気がし、木崎さんも感じていたであろう地質教室のうら悲しいアカハラ的世知辛さを覚えたものだ。北大山岳部の流れから言うと、木崎さんは僕の先輩だし、湊さんは木崎さんの先輩にあたるのだが、湊さんが山岳部の伝統的な人間関係には一顧だにもしないように感じさせるのは、何か訳があるような気がする。

 上述したような不自由な暗い経験は、まだある。名古屋大学の実験岩石学の熊沢峰夫さんが来られて、次の2)章でも触れている実験岩石学のディスカッションを地質教室でしようとした時、その場にいた民青系の助手が彼の教授に「よろしいでしょうか」と熊沢さんの目の前でディスカッション許可のお伺いを立てるのだった。考え方が違う研究者とは議論もしないという当時の地質教室にはびこっていた研究の不自由な雰囲気に、せっかく来ていただいた熊沢さんも大いにびっくりしていた。そんなこんなで、当時の地質教室は、岩石の標本箱が所狭しと積み上げられた「狭くて薄暗い廊下」のような窮屈きわまる不自由な雰囲気だったのである。ところが湊さんの定年退職後の1984年、自宅の屋根雪落下で彼が死亡してからの地質教室は、天皇不在になるとともに、しだいに変貌してゆき、やがて、虎視眈々と狙っていただろう東大一派などに牛耳られるはめになったのではなかろうか、と僕は外から見ている視点ではあるが、個人的な体験を踏まえて、そのように解釈している。

 だが、もう今では、我々を追い出した古巣の地質教室は見る影もない。いわゆる学び舎を失った我々は新天地で羽ばたかねばならなくなった。その新天地がヒマラヤであった。そこで、まず「はじめに」の冒頭で述べた「山岳博物館」構想(資料1)を進めるとともに、研究者がカトマンズで宿泊できる「ヒマラヤ・バーワン(館)」を牛木久雄さんの命名で1974年に作り、その2年後の1976年からの宿舎は、渡辺興亜さんが中心なり資金を集め、白石和行さんと僕が設計し、ネパールの友人である故クサン・ノルブ・タワーさんの敷地に建設した「カトマンズ・クラブ・ハウス」になった(資料2)。そして、それらの宿泊施設を利用した人たちなどのヒマラヤ研究の膨大な成果が「ネパール・ヒマラヤの地質研究」と「ネパール・ヒマラヤの氷河と気候に関する研究」として結実し、1973年度と1980年度の第10回と第17回の秩父宮記念学術賞を授賞することができたのである。ヒマラヤでは、行くたびに感じられたことではあるが、心から憧れていた限りない自由な研究の雰囲気ににひたることができた。そこで僕は思った。「自由こそが、第1だ」と。

(資料1)

国際山岳博物館の原点は1970年代の故宮地隆二さんの構想です。ダージリンなどにある山登り中心の”登山博物館”ではなく、世界有数の山岳地域の自然や文化研究の場としてのヒマラヤ研究センターが、彼の”山岳博物館”構想の視点でした。そして構想から約30年後、故安藤久男さんは2002年4月から2004年4月までの2年間、ポカラに滞在し、主として民族や地学そして登山の3つのテーマを中心に展示するポカラの国際山岳博物館の開設に尽力されました。

AACH備忘録(10)
安藤さんの事業集大成は「国際山岳博物館」だったのではないか。
―安藤久男さんの追悼文にかえてー
https://hyougaosasoi.blogspot.com/2021/10/v-behaviorurldefaultvmlo.html

(資料2)
カトマンズ・クラブ・ハウス(KCH)およびお世話になった人たちのその後
ネパール通信15  サロンからヒマラヤへの想い-フィールド・ワーク雑感-
https://hyougaosasoi.blogspot.com/2016/12/201615.html

 

 3)木崎さんの初めてのヒマラヤ

木崎さんの「ヒマラヤはどこから来たか」(資料3)の「はじめに」は次のような書き出しで始まる。「ぼくがはじめてヒマラヤに足を踏み入れたのは、19755月(注)のことだった。ポカラ北方の、シクリス村背後の丘の上から、終日アンナプルナ山塊を見上げて飽きなかった。帰途、ポカラのペワ湖のほとりでキャンプした夜、モンスーンの前兆の土砂降りの雨に、テントの中は川のようになり、ルックサックに腰をのせてまんじりともできず一夜をすごしたが、同行の若い伏見は水の流れに浸ったまま、いびきをかいて眠っていた。じつはその十年ばかり前から、札幌には北海道大学の若手研究者や大学院生を中心にしたテチス協会が設立されていて、全国に呼びかけてヒマラヤ研究をつづけていたのである。かれらが、ネパールの情勢を見てきてくれ、というのでカトマンズに在住していた伏見碩二と関係役所や大学まわりをしたあと、アンナプルナを見に出かけたというわけだった。」(写真1、2)

注)木崎さんの初めてのヒマラヤ行きの年月を19755月と記している(資料3)が、写真1と2の画像内の撮影年月日が示すように、19746月だった。

        

写真1)初めてのヒマラヤの木崎さん    写真2)アンナプルナⅡを眺める木崎さん

 木崎さんの専門は日高山脈などの造山帯の岩石学で、僕が卒論で指導していただいた研究は花崗岩の石英鉱物の構造、そして修論では石英同様に結晶学的には同じ六方晶系の氷河氷とその変形実験であった。通常の地質調査で得られる花崗岩体の構造は平面的なので、断面図作成で垂直的な構造を推定するが、それはあくまでも推定である。ところが、世界最高峰のチョモランマ(エベレスト)下部に花崗岩体が見られるクンブ地域のフィールドでは、巨大な火の玉状の貫入花崗岩が最高峰を持ち上げている高度差約4キロにも達する、富士山がすっぽり入る垂直的な大露頭(写真3)が展開しているのを実見できるのである。そもそもチョモランマ峰の高度は、通説のアジア・インド両大陸の衝突によるせり上がりと貫入花崗岩による上昇量と、風化作用と頂上下部のチベット側に傾斜した正断層にそって滑り降りる頂上岩体の下降量の兼ね合いで決まるので、貫入花崗岩の構造的特徴も重要であると考えている。

   

写真3)チョモランマの貫入花崗岩など    写真4 木崎さんの油絵

そこで、木崎さんには最高峰のチョモランマ(Mt. Chomolungma (Sagarmatha, Everest)を持ち上げているようにみえる火の玉状の貫入花崗岩(Intrusive Granite;赤色の文字と矢印)の大規模な地質構造を見ていただきたいと思っていた(写真3)。ところが、木崎さんが描いたその地域の油絵(木崎画室にて(Shiraishi)2016.10.1;写真4)(注)には、イエローバンド(Yellow Band;黄色の文字と矢印) らしき地層はあるのだが、驚くべきことに、重要な地質構造と考えられる前述の貫入花崗岩の姿がないのである。自他ともに認める構造地質学者の木崎さんがその重要な地質構造を見逃すはずはない。後から、描きいれるつもりであったのであろうかどうかはともかく、チョモランマ峰直下に展開する貫入花崗岩の構造に関する木崎さんの考えは是非とも聞いておきたかった。

(注)木崎さんの油絵
木崎画室にて(Shiraishi)2016.10.1
ジミーアルバム  
https://photos.google.com/share/AF1QipPDXNp0zOTJx_isbd-ocOB8rWgh_QaaSRwB_-6ZoI8gY3sWmE5ccjRfWD4ylum-uQ

さらに、木崎さんが構想していた造山帯の実験岩石学の一環とした氷の変形実験を最初に行っていた渡辺興亜さんの後を僕が継ぎ、そして松田益義さんが続けていたが、その集大成にはまだ至っていなかったので、ヒマラヤの貫入花崗岩のそのフィールドを見た木崎さんが造山帯の実験岩石学の展開についても、何を語るかを是非とも聞きたかったのである。その後の木崎さんの実験岩石学の研究の流れは、「ネパールヒマラヤ地殻変動調査」が進展する中で、林大五郎さんの数値実験シミュレーション(資料3と4)の研究手法などに結びついていったのだろう。

 しかし残念ながら、モンスーンの雨期に入った東ネパールのクンブ地域のその現場にカトマンズから行くのはアプローチの点で困難だったので、雨期でも交通の便の良い中央ネパールのポカラ周辺のアンナプルナⅡ峰南のマディ川上流域に行くことになったのである。

 6月上旬のモンスーンの雨期が始まる中、連日の霧と雨で、ヒマラヤはあまり見えなかったが、ヒルに食われながらの懐かしい調査旅行ではあった。その時の木崎さん曰く、「今回のヒマラヤは霧のスカートからのぞいただけだった。すべては、これからだ」。そしてその言葉通り、1980年代以降の木崎さんは文部省の海外学術調査「ネパールヒマラヤ地殻変動調査」を継続して行うとともに、トリブバン大学地質学教室客員教授(JICAの専門員)としてネパールの学生に講義をされてきたのは皆さんご存じの通りで、その成果は冒頭で紹介した「ヒマラヤはどこから来たか」(資料3)や「上昇するヒマラヤ」(資料4)などにまとめられている。

資料
3)ヒマラヤはどこから来たかー貝と岩が語る造山運動 (1994)  中公新書.
4)上昇するヒマラヤ (1988)  築地書館.


4)木崎さんの訃報

木崎さんの訃報は白石さんが送ってくれた下記の311日の琉球新報の記事(記1)で知った。実をいうと、昨年になるが、木崎さんにお目にかかりたい旨の話を奥様と娘さんにした時に、「昔の木崎ではありませんので」と言われて、再会の機会を頑なに強く拒絶されたので、木崎さんの容態がかなり悪くなっていたのではないか、と推察されたのである。そこで、毎朝、琉球新報の訃報欄に目をとおし、木崎さんの無事を確認することにしていた。311日早朝も琉球新報の訃報欄に木崎さんの記事がないことは確認したのである。ところが、その記事そのもの(記2)を見ると、記事の掲載時間が午前1038分になっているので、僕が目を通した早朝にはその記事は掲載されてはいなかったが、午前1038分以降に白石さんが見つけて、12時53分に知らせてくれた(記1)のであろう。木崎さんの卒寿の会を中心になって主宰してくれた彼もまた、琉球新報の訃報欄をチェックしながら、木崎さんの安否を気にかけてくれていたのであろう。

それにしても、木崎さんは226日にすでに亡くなっているのに、2週間ほどもたった311日に記事が出るのは、我々のように木崎さんを心配している関係者にとっては遅すぎるのではないか。しかも、木崎さんの主な業績として、記1と2では南極関係が挙げられているが、ヒマラヤ研究は全くふれられてはいない。そこで、琉球新報から1日遅れで記事になった沖縄タイムス(記3)を見ると、「日本南極観測隊隊長を務めたほか、ヒマラヤ研究でも知られる」と簡単に紹介されているのだが、1980年には『琉球の自然史』で沖縄タイムス出版文化賞、1985年は『琉球弧の地質誌』で沖縄タイムス伊波普猷賞を木崎さんは受賞しているのに、その賞を出した沖縄タイムスの記事が琉球新報よりも遅いのに加えて、やはり琉球新報同様に記事掲載が死後2週間ほどもたってしまったこと、さらに記事内容が簡単すぎて物足りないのは至極残念である。

 新聞記事を見て、奥様にさっそく電話すると、木崎さんの死亡後の手続きで忙しかったようで、娘さんがが助けてくれて、大助かりだったとのことです。また、ニューヨークの息子さんはコロナ禍と飛行機事情で葬式に来られなかったそうですが、時期を見て、子供さんたちが集まった時に、お別れ会をしたいとおっしゃっていました。高齢な奥さんともども、お子さん達が元気なのは何よりです。ご冥福をお祈りするとともに、一日も早く立ち直られることを祈念します。

 さらに、大森信さんのメイル(記4)によると、「木崎先生の遺灰は226日、大分の木崎家墓所に納められたそうです。戒名は山岳院甲徳居士」とのことです。なるほど、「山岳院甲徳居士」とは木崎さんらしい戒名です。ただし、「遺灰は226日、大分の木崎家墓所に納められた」と記されているが、その日は沖縄で亡くなられた日なので、大分での納骨はその日以降になったのではないでしょうか。

記1 白石さんのメイル

[AACH-TOKYO:124] 訃報 木崎甲子郎会員

白石和行 <shiraishiyokohama3@gmail.com>

2022/03/11 () 12:53

東京支部の白石和行です。

木崎甲子郎会員が2月26日に亡くなられたとのことです。今朝の琉球新報の記事を添付します。

奥様に電話でお悔やみを申し上げたところ、、家族葬を執り行い、34日にはご出身の大分の菩提寺に納骨されたとのことです。

「山の会の皆さんによろしくお伝えください」とおっしゃっていました。

取り急ぎ、お知らせまで。

記2 琉球新報の記事

南極観測元隊長、木崎甲子郎さん死去 琉大名誉教授の地質学者 97

2022311 10:38

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1483645.html

木崎 甲子郎さん

 琉球大学名誉教授の木崎甲子郎(きざき・こうしろう)さんが226日、老衰のため八重瀬町の病院で死去した。97歳。大分県出身。自宅は那覇市首里金城町。葬儀は家族葬にて執り行った。喪主は妻淑枝(よしえ)さん。

 地質学が専門で、195960年と、7980年の2度、南極観測隊に加わり、南極で調査に関わった。79年の派遣時は隊長を務めた。南極大陸の「大和山脈」の地図づくりに関わった。新石垣空港環境検討委員会の委員長なども務めた。

記3 沖縄タイムズの記事

木崎甲子郎さん死去 97歳 琉球大学名誉教授

2022312 05:00

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/924571

 琉球大学名誉教授の木崎甲子郎(きざき・こうしろう)さんが2月26日、老衰のため、八重瀬町内の病院で死去した。97歳。大分県出身。自宅は那覇市首里金城町。葬儀は家族で執り行った。喪主は妻淑枝(よしえ)さん。  北海道大学卒。地質学が専攻で日本南極観測隊隊長を務めたほか、ヒマラヤ研究でも知られる。

記4 大森さんのメイル

[AACH-TOKYO:125] Re: 訃報 木崎甲子郎会員

makomori@sk2.so-net.ne.jp

2022/03/14 () 15:06

#那覇の奥様によると、木崎先生の遺灰は226日、大分の木崎家墓所に納められたそうです。戒名は山岳院甲徳居士。ご冥福を祈ります。大森 信

 

5)おわりに

「ヒマラヤはどこから来たか」の「おわりに」の章の最初に「1980年から5年にわたったこのプロジェクトは、今思い返しても楽しいものであった。それぞれに強い個性をもったメンバーがテーマをひとつの目標「ヒマラヤはいかにして上昇しているか」に集中し、ちがったアプローチから攻めていって結論を出していく方法は、共同研究の醍醐味を味あわせてくれたものである。シベリウスは作曲をやめたあと、世界中から流れてくるかれの音楽を、短波の受信機で聞くのを老後の楽しみにしていたという。わたしもこのささやかなヒマラヤ計画の成功をなにかにつけて思い出すだろう、とひそかに感じている。」と記している。おそらく、山岳院甲徳居士さんはきっと泉下で耳目をじっとそばだてて、彼のヒマラヤ計画の成功を見聞きしていることだろう。このつたない「ヒマラヤの木崎さんのことなどー思いつくままにー」の報告も泉下の木崎さんに届くと良いのだが、と思っている。

 木崎さんが「おわりに」の章でふれたシベリウスの曲は交響詩『フィンランディア』のことだろうか。彼はフィンランドの作曲家で、帝政ロシアからの自由と独立を勝ちとろうと、音楽を通じて国民意識の形成に寄与したとされていることは、まさに現在進行中のロシアに侵略されているウクライナを思いおこさせる。ロシアと陸続きの両国民が感じるロシアの不条理な行為への抗議行動は、北大地質教室の「狭くて薄暗い廊下」のような不自由さを体験した僕としては、ロシアの隣国の方々の感じる不自由さが良く分かる。我々を追い出した古巣の地質教室は見る影もなくなったように、願わくは、不条理なウクライナ侵略を続ける不埒なプーチンさんの政権の終わりの始まりになってほしいものだ。木崎さんの無事を琉球新報の訃報欄で確認してきたように、ネットのお陰で、ゼレンスキーさんのツイッターを毎日チェックしていると、おぞましい残虐性(資料1)が感じられるプーチンさん一派の暗殺グループから狙われているゼレンスキーさんの投稿が示すグローバルに影響をあたえるさまざまな活動は、不条理なプーチンさん達からの自由の獲得をめざす崇高な行為で、心底から頭が下がる思いがする今日此頃である。

 さて、評論家の保阪正康さんは「今回のロシアの軍事行動は、基本的にはソ連時代と同じ構図であり、プーチンの政治的権謀術数はスターリンと同様であることが感じられる。私たちはこの際改めて、日本とロシアの関係をクールに見つめて教訓を確立すべきであろう。」(資料3)と述べているのだが、引き続いて、「帝政ロシアからの独立を勝ちとるために音楽を通じて国民意識の形成に寄与したシベリウス」を讃える木崎さんにあやかって、2)の「当時の北大理学部の地質教室」で述べたように、世界一周の一人旅やヒマラヤ調査を通じて自由を実感し、「自由こそ、第1」の信念を標榜する僕としては、ウクライナ人の自由を目指して闘ってきたことを示す下記の1)と2)の記事もここで紹介しておきたい。というのは、ウクライナの人々への連帯感を感じさせる、何物にも代えがたい”自由”の意味を身をもって僕に教えてくれたのは他でもない”木崎さん”だったからである。さらに、ウクライナ国歌(資料7)には自由を希求する「我等が自由の土地を自らの手で治めるのだ。自由のために身も心も捧げよう」という詞が高らかに歌われているのをみると、なぜウクライナ人がロシアの侵略に立ち向かうのかを示す基本的姿勢を強く感じる

 9月3日のゼレンスキーさんの下記ツイッターには、ただ一言、「Freedom(自由)」とだけ述べられており、ロシア軍との連日の戦いのかで、「自由」の旗印で国民を鼓舞し続けているのがうかがえる。さらに、「自由」の概念が、ウクライナ人にとっていかに重要であるかを示し、しかもこのツイッターは一日で19.5万件の「いいね」を獲得しているのをみると、ウクライナ人のみならず、世界の人々も、「自由」の視点が守るべき大切な概念であることを物語っている


さらに、(2022/10/07)の彼のツイッターには「Fight for Freedom(自由のための戦い」なるウクライナ人の強烈な主張が表明されている。


1)アメリカのワシントンに、19世紀にロシア帝国の抑圧と闘ったウクライナ詩人タラス・シェフチェンコ(資料4)の銅像が建っており、像には<抑圧下にある国々の解放、自由、独立にささげる>(資料5)と、記されているそうです。

2)また、ウクライナのチェルニヒウ・フィルハーモニー交響楽団常任指揮者、高谷光信さんは「長く国家の独立がかなわなかった土地だから人々には『我々は自由の民である』という強い信念がある」と述べているのもうなずける(資料6)。

(資料1)

2022/04/11 03:36
https://twitter.com/zelenskyyua


 

注)上記の記事はウクライナ語のみで、いつもの英語の翻訳記事がついていないのは、センシティブの内容のため、ウクライナ人専用にしたのだろうか。また、4.5万人もの「いいね!ボタン」が押されている上記の民間人虐殺の写真は2022/04/09のツイッター記事では画面に掲載されていたのだが、現在はセンシティブの理由で「表示」をクリックしないと、写真画面が見られなくなっている。それらの写真に関する毎日新聞の余録(資料2)によれば、「首都近郊では深刻な人権侵害の疑いも浮上している。激戦地だったブチャ市内には至る所に私服姿の遺体が放置されていたという。倒れた自転車と遺体の傍らに犬が座り込む写真も配信された」と報じられている。さらに、日々のニュースによって、ロシア軍によるおぞましい民間人虐殺の行為はさらに各地域でも行われていることが次々と明らかになってきている。どうにかして、狂ってしまったとしか思われないプーチンさんのロシア軍の不条理な行為を改めさせられないものだろうか。

(資料2)

毎日新聞「余録」2022/4/5

https://mainichi.jp/articles/20220405/ddm/001/070/067000c

(資料3)

ウクライナ侵攻×シベリア抑留 浮かぶスターリンの面影 保阪正康氏
2022/4/8 05:00
https://mainichi.jp/sunday/articles/20220406/org/00m/030/001000d?cx_fm=mailasa&cx_ml=column&cx_mdate=20220410

(資料4)
「シェフチェンコは民族の独立と統合の象徴なんだ。だからウクライナが危機にひんしていても、いや、危機だからこそ、人々は彼の生誕記念祭を祝わずにいられないんだ」。記念祭では、外国の参列者代表がポーランド語や英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語で彼の詩を朗読した。藤井さんも日本語で朗読するよう依頼を受けた。選んだのはこんな詩だ。

 <わたしがウクライナに住むことができようとできまいと/それはわたしにはどうでもいいこと。(中略)だが、わたしにがまんできないことがある/もしウクライナを悪意にみちた者ども/ずる賢い輩が眠り込ませ、/身ぐるみ剥いでから、炎の中で目覚めさせるとしたら/おお、それがどうしてわたしにとってどうでもいいことであろうか> 

ウクライナの「国民的詩人」シェフチェンコ 民族の独立と尊厳の象徴 翻訳者・藤井悦子さんに聞く   毎日新聞 2022/4/21
https://mainichi.jp/articles/20220421/dde/012/030/011000c?cx_fm=maildigital&cx_ml=article&cx_mdate=20220424

(資料5)

故郷の詩は滅びない=小倉孝保

https://mainichi.jp/articles/20220408/ddm/002/070/091000c

(資料6)

音楽にできることは? ウクライナに20年の日本人指揮者の思い

https://mainichi.jp/articles/20220403/k00/00m/040/122000c?cx_fm=mailyu&cx_ml=article&cx_mdate=20220405

 (資料7)
ウクライナ国歌
http://www.worldfolksong.com/national-anthem/ukraine.html
運命は再び我等に微笑まん
朝日に散る霧の如く 敵は消え失せよう
我等が自由の土地を自らの手で治めるのだ
自由のために身も心も捧げよう
今こそコサック民族の血を示す時ぞ!

(追悼文)

 では次に、本報告とも関係する木崎さんの追悼文として、吉田克人さん(参照1)と渡辺興亜さん(参照2)のメイル資料を投稿順に掲載するとともに、地質学会のニュースに掲載された白石和行さんの「名誉会員 木崎甲子郎先生を偲ぶ」(参照3)を添付します。吉田さんの「一事が万事すべて学生のやる気と発想を面白がり、ある面では先生自身もここからインスピレーションを得ていたのではなかったかとも思います」や渡辺さんの「木崎先生は専ら聞き役であったが我々を大きく包み込む度量を持たれていた」という表現の中にも、また白石さんが「北大でも琉球大でも、闊達で懐が広く深い木崎先生の周囲にはいつも若い後輩、学生たちが集まっていました。先生は若者たちの話を何時間でも聞きながらアドバイスや励ましの言葉をかけていました」とも述べているように、木崎さんの自由を尊ぶ生き方の一端が感じられる。僕も感じていたことではあるが、すでに上記した「何物にも代えがたい”自由”の意味を身をもって僕に教えてくれたのは他でもない”木崎さん”だった」ことをここでも読みとることができる。

参照1

木崎先生訃報に接し

20220311日 午後 10:33

木崎先生の訃報に当たり謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

小識は北大地鉱時代ジミー門下の最後の卒業生で、卒論では2年間(1970〜72)中〜南日高十勝側の核心部を調査しました。その際、先生から研究指導教官らしい口うるさい指導を受けた思い出は全くありません。いつもジミーの研究室にはRoomAACHの仲間をはじめ“頭の悪い子元気な子”がたむろし、もっぱら聞き役が先生でした。指導の一端を話せば、変成岩の構造形成史のイメージが湧かなかった時“ハチその露頭を納得いくまで何時間、何日でも見つめ観察したらいいよ”との助言で、急傾斜露頭を数日間にらめっこして自分なりのストーリーを構築した記憶があります。一事が万事すべて学生のやる気と発想を面白がり、ある面では先生自身もここからインスピレーションを得ていたのではなかったかとも思います。卒業後にチリに行くことを決めた時も、お前なら何とかやれるんではとおだてられて、前向きに送り出してくれました。その後もジミーの好きなパイオニアスピリツを受け継ぎ毎年故西村ゴンちゃんらと中部パタゴニアの空白地域の調査に出かけそれなりの成果を手に沖縄に報告に行った時はずいぶん喜んでくれました。このように自分のターニングポイントにはいつもジミーが見守ってくれました。改めて心底より感謝すると同時に安らかにお休みくださるよう願っております。吉田はち拝

参照2

木崎先生追悼原稿

渡辺 興亜

2022/03/29   16:34

追悼:木崎甲子郎先生

昭和36年(1961)の秋頃,山に関係する映画を山岳部の連中で鑑賞する機会があり,前の席で大柄な人物と盛んに南極談義をしているOBや上級生達がいた.その大柄な人物は南極から帰国された木崎甲子郎先生であった.北大山岳部から第1次観測隊に中野征紀,佐伯富男,菊池徹,小林年さんらが参加されていたが在札の方が少なく,当時の現役には南極はまだ遠い存在であった.帰国早々の木崎先生を身近で接した時,安藤,宮地さんらと稚内で犬ぞり訓練をされた事も思い起こし,南極が急に近く感じられたのである.その頃からご自宅に山岳仲間としばしばお邪魔し,酒杯を片手に夜遅くまで山登り,海外遠征,南極探検談義に耽り,ご家族に迷惑をかけたものである.木崎先生は専ら聞き役であったが我々を大きく包み込む度量を持たれていた.アラスカ遠征,ヒマラヤでのライト・エクスぺディション論などが主な話題であったが当時の日本は高度成長時代の前で,自前で海外遠征に出掛けるには資金はもとより外貨の割り当ての獲得が最大の問題になる時代であった.その後の北大山岳部およびその周辺で実現した,62年チャムラン遠征,63年ナラカンカール遠征,65年から始まった一連のネパール・ヒマラヤでの学術調査 ―その成果は二度の秩父宮記念学術賞受賞となったが ―はすべて木崎さんを囲んでの談義に端を発していたと言っても過言ではあるまい.南極観測が6次隊で中断したとき,札幌在住の南極OB達(木崎,楠宏,川口貞男氏ら)で極地談話会が持たれ,低温科学研究所での会合では南極観測再開後の計画などが話題になっていた.山岳部のOB,現役数人が出席を許され,当時村山雅美さんが進めていた南極点旅行が失敗した場合の第二計画の立案などを真面目に検討していたのである.木崎先生はその中心におられ,山岳部関係者のその後の南極観測参加の礎を築いていただいた.

山岳部時代の木崎先生の活躍は数多くあるが,主な山行として19482月のイドンナップ岳冬季初登攀(奥村敬次郎山岳部長以下5名,この山行記録は部報8号で欠落),1951~2年の厳冬期十勝―大雪縦走が揚げられよう.木崎先生は1946年(昭和21年),兵役から復員され予科に入学され,旧制時代の山岳部に入られている.昭和24年に新制北大が発足し,24年からの入学組は新制山岳部に入っている.24年から27年の間は新旧が存在し,山岳部内ではその相互間に不信感があったと言われている.就学年数が2年短いことがその理由であったようだ.この不信感の解消には木崎先生の存在があり,その成果が十勝―大雪縦走計画の成功につながったと聞く.木崎先生の部名「ジミー」は山岳部内外で歳の上下を問わずよく知られているが,敬愛を込めて「ジミー御大」の存在の大きさを改めて想い起こし,ご冥福を祈りたい.(渡辺興亜)

参照3
名誉会員 木崎甲子郎先生を偲ぶ
http://www.geosociety.jp/uploads/fckeditor/NEWS_BN/2022-06.pdf

 日本地質学会名誉会員,琉球大学名誉教授の木崎甲子郎先生(97歳)は2022年2月26日逝去されました.先生は1924年に大分で生まれ,福岡県立戸畑中学校を卒業後,陸軍重砲兵学校に入校し,兵役につきました.復員後,北海道帝国大学予科に編入学し,理学部地質学鉱物学科に進みました.卒論研究では鈴木醇教授の下で日高山脈の岩石学研究に取り組みました.1951年に同学科を卒業し,大学院を経て同教室の助手に採用されました.先生は,日高変成帯中核部を構成するいわゆるミグマタイトを主要なテーマとし,地表調査によるマクロ構造の解析と鏡下での石英などのファブリック解析により,ミグマタイトのドーム状構造の形成を論じました.1957年に「日高変成帯南部,音調津山地のミグマタイトの構造について」で地質学会の研究奨励金(現在の研究奨励賞)を受賞し,さらに「日高造山の意義―造山運動の新しい考え方の提案」(新生代の研究 1959)を発表し,新鮮で卓越した考察を示しました.1960年には「日高変成帯におけるミグマタイトの研究」により理学博士を取得しました.
 先生は,1949年に発足した“日髙研究グループ”の事務局長としても活躍され,1960年代初めには,当時深成岩・変成岩の講座がない中それらを専攻する大学院生らが中心となった研究グループ(プルトニズムグループ)を小林英夫助教授とともに積極的に応援し,グループの継続と発展を支えました.グループのセミナーや飲み会などでは花崗岩,ミグマタイトや変成岩のテクトニクスや岩石組織学,更には変成岩と氷河氷の構造上,組織上の類似性に着目し,構造岩石学と氷河学の比較研究の重要性を国際的な視野で語り,学生たちの興味を大いに駆り立てました.
 学生時代に山岳部で活躍した先生は,1956年から始まった日本の南極観測には第1次隊の準備段階から協力し,「北大極地研究グループ」を組織して犬ぞりの訓練などにあたりました.1959-61年には第4次観測隊員として昭和基地で越冬,その間に周辺露岩の詳細な地質調査を行い,1, 000分の1の地質構造図と地質図を含む「オングル島の地質と構造」(英文)を発表しました.また,未踏であった内陸の山脈(のちに「やまと山脈」と命名)の地質調査を行い,10万分の1地質図を付して報告しました.さらに,昭和基地近傍のハムナ氷瀑で,氷河の変形構造を詳細に調査し,後に「構造氷河学の方法」(地質学雑誌 1964年)として発表しました.
 1965-67年にはオーストラリア南極観測隊に参加して,モーソン基地で越冬中に基地近傍の氷河を観察し,氷河氷の結晶方位測定に取り組みました.その後,メルボルン大学気象学教室に1年間滞在し,氷河氷の変形に関する研究成果をまとめました(J. Glaciology 1969).帰国後,先生の長年にわたる南極大陸への思いと研究活動から「南極大陸の歴史を探る」(岩波新書 1973)を上梓し,IGY以降に得られた知見に基づいて,ゴンドワナランドの中核を占める南極大陸の形成史を生き生きと描きました.
 沖縄が本土復帰した1972年,先生は琉球大学に教養部の教授として招かれました.当時の琉球大学には教育学部と教養部に数人の地学系研究者がいるのみでした.しかし,先生は琉球弧の研究に意欲を燃やし,志を同じくする研究者たちとともに「沖縄地学会」を結成しました.また,生物系研究者とともに国立大学で初の海洋学科を設立するために奔走され,1975年,琉球大学理工学部(後に理学部に改組)に地殻学講座と堆積学講座を含む海洋学科(後に物質地球科学科に改組)が新設されました.
 日本地質学会学術大会での数回の夜間小集会の後に,1976年に先生が中心となって沖縄県立教育研修センターで,最初の「琉球列島の地質学的諸問題」コロキウムを開催しました.そこでは石垣島の詳細な調査を行ったUSGSのH.L.Fosterさんが記念講演をしました.その後,総合研究(A)「琉球弧の構造発達史」(代表者,木崎甲子郎)などにより1976年から1982年までに6巻の「琉球列島の地質学研究」を沖縄地学会から出版し,また1983年には地質学論集第22号「琉球列島の地史」が刊行されました.先生の沖縄での研究の総まとめとして,1985年に出版した「琉球弧の地質誌」(木崎甲子郎編著,沖縄タイムス社)には伊波普猷賞が贈られました.1989年には「沖縄国際マングローブ協会」の初代会長に就任し,国際NGOである「国際マングローブ生態系協会」の事務局が沖縄に設置される礎を築かれました.このように,木崎先生は沖縄の地学を中心とする自然科学研究の発展・普及に大きな貢献をされました.
 また若い時からヒマラヤ山脈の形成に関心を持ち続けていた先生は,50歳を過ぎて初めて現地調査を始め,1980年から文部省海外学術調査「ネパールヒマラヤにおける地殻変動の研究」の代表者として,3期6年にわたるプロジェクトを通じて,大著「上昇するヒマラヤ」(築地書館 1988)をまとめました.この間にも木崎先生は,日本学術会議,国立科学博物館極地研究センター,国立極地研究所で南極観測の企画にあたる専門委員や,国立極地研究所客員教授,第21次南極地域観測隊長(1979-80年)などを務めて日本の南極観測事業の発展に寄与されました.
 琉球大学退職後の1996年には,JICAから派遣されてネパール王国カトマンズのトリブバン(Tribhuvan)大学地質学教室に特任教授として赴任され,御自身で執筆したヒマラヤの地質に関するテキストを使って,2年半にわたって多くの学生を指導しました.
 木崎先生は多忙ななかでも,8冊の著書と5冊の編著書を上梓されました.それらは,南極やヒマラヤ,沖縄の地質研究を一般にわかりやすく解説したものから,時評的な随筆,探検・紀行など,多岐にわたり,先生の幅広い活躍を示しています.ヒマラヤ総研の研究成果を一般向けに解説した「ヒマラヤはどこから来たか」(中公新書 1994)では,先生の卓越したリーダーシップと暖かい人柄によって,地質学,地形学,測地学などの分野の異なる若い研究者をまとめあげてプロジェクトの成功に導いた様子がうかがわれます.
 木崎先生は文筆のみならず,絵画もお得意で,特に退職後は油絵に専念されました.ヒマラヤやチベット,南極や中央アジアの砂漠,さらには偏光顕微鏡下の薄片の美しさも表現しました.毎年のように展覧会や個展で新作を披露し,友人や後輩たちはそれを見にいくことを楽しみとしていました.作品の一部は2冊の画集として出版されています.北大でも琉球大でも,闊達で懐が広く深い木崎先生の周囲にはいつも若い後輩,学生たちが集まっていました.先生は若者たちの話を何時間でも聞きながらアドバイスや励ましの言葉をかけていました.そして,彼らの中から,多くの者が世界に雄飛していきました.
 先生は,鉱山技師であった父親について,各地の炭鉱や鉱山を移り住んだため,小学校を5回,旧制中学を2回も変わりましたが,それを嫌と思うどころか,次の転校先を楽しみにしていたということです.「放浪癖」とも表現されていました.
 沖縄の本土復帰と琉球大赴任から50周年を迎えた年に,永遠の旅に立たれた木崎甲子郎先生のご冥福をお祈りいたします.本稿は在田一則氏,林大五郎氏,松田益義氏,吉田 勝氏の協力を得て記しました.また,写真は伏見碩二氏の撮影です.以上の方々に感謝申し上げます. (白石和行)

 

6)補足

木崎さんの写真アーカイブから

白石和行さんが下記の木崎さんの写真アーカイブを作ってくれたので。その中から2組の写真にまつわる出来事を紹介して、木崎さんを偲びたい。

A)日高の旅

 

日高の旅1)              日高の旅2)

 まず最初は有馬眞さんの写真の日高の旅1)「1972年夏札内川八ノ沢出会い」である。写真の説明によると、「1972、夏。木崎甲子郎先生と日高札内川地質調査のおり八の沢出会いのキャンプ。白石和行、松田益義、伏見さん。木崎先生ご子息と」とあるが、「 ご子息」の「甲ちゃん」が同行していることから分かるように、地質調査というよりも、この山旅は木崎さんが琉球大学に移られる前に行った、長年にわたり精力的に調査された懐かしの日高山脈に別れを告げるセンティメンタル・ジャーニーだった、のではないかと思う。写真はこの山行のベース・キャンプの写真で、おそらく自動シャッターで撮影されたので、メンバー全員が写っているようだ。我々は八ノ沢を登り、八ノ沢カールを経て、日高の旅2)の写真が示す「カムエク頂上で。白石和行さん、松田益代義さんと」との有馬さんの説明のように、カムイエクウチカウシ山(1979m)に登った。この写真はおそらく僕がシャッターを押したのではなかろうか。

 さて、日高の旅2)の写真を撮った直後に、印象的な出来事が起こった。ヒグマの出現である。僕らは九ノ沢に降りるべく北に向かって狭い稜線を辿っていると、ヒグマが僕らに向かって近づいてきた。実は、この日高の旅の2年前に、福岡大学ワンダーフォーゲル同好会の3人が八ノ沢カールでヒグマに殺された(補足資料1)のは知っていたので、気にはしていたのだが、ついに現れたのである。福岡大学の人達を襲ったヒグマは「現場付近に姿を現したところをハンターによって射殺されたが、20発以上の弾丸を受けても倒れなかったと記録されている。クマは4歳の雌と推定され、体重は約130キロだった」(補足資料1)そうだ。そのヒグマは、それほど大きいヒグマとは感じなかったが、僕らに気づき、一瞬立ち止まって、僕らを眺めた。ヒグマと僕らとの距離は30mほどだったであろうか。

 その時、僕はかつて行った犬との実験を思い出した。人が犬をにらめつけると、犬は狂気を感じてか、向かってくるが、にらめつけてから目をそらすと、犬も目をそらしたことだった。そこで、僕らも一斉にヒグマをにらみつけて、数秒後に目をそらすことを一緒にやってみた。そしたら、ヒグマも目をそらし、しかもうまいことに、少しづつ後ずさりしてくれたのだ。数回その動作を繰り返したら、ヒグマとの距離が50mほどに広がり、最後にはヒグマは僕らに背を向けて、狭い稜線を北に向かって、僕らから離れ去って行ってくれたのであった。とにもかくにも、犬との実験が熊にも通じて、ヒグマの襲来を防ぐことができたのは幸運だった。

その印象的な経験から、最近発生した札幌の街中でのヒグマによる被害状況のニュース(補足資料2)のビデオを見ると、被害者が背中を見せていたところを、ヒグマに襲われたことが分かる。ヒグマとの遭遇に関する僕たちの経験からすると、補足資料1で報告されているように、死んだふりをしてもヒグマは襲ってきたそうだから、ヒグマを睨みつけてから目を離す行動は一人では難しいとしても、せめて、ヒグマには背中を見せて、逃げるような恰好をしてはいけない、のではないか。逃げるような弱みを見せると、ヒグマは付け入って、さらに襲ってくる可能性が高いからである。(補足資料3)

 この1972年の夏にヒグマと出会った印象的な出来事は、木崎さんの日高へのセンティメンタル・ジャーニーの懐かしい思い出のひとつである。おそらく、この印象的な旅は木崎さんの最後の日高だったと思うので、はからずも僕は、冒頭に述べた1974年の最初のヒマラヤ1972年の最後の日高の旅両方にお供できた幸運をかみしめている。

補足資料1

ヒグマが大学生5人を襲った…「福岡大ワンゲル部ヒグマ事件」の記憶

2020.09.15

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/75517?imp=0

補足資料2

一撃で肋骨6本、140針 東区ヒグマ襲撃被害の男性が体験した恐怖

2022/04/07 14:52

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/666413?bdad=MTU2MDZfNA--

 補足資料3

 

 一撃で肋骨6本、140針 東区ヒグマ襲撃被害の男性が体験した恐怖
04/07 14:52
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/666413?bdad=MTU2MDZfNA--

ヒグマが出勤途中の男性の背後から駆け寄り、不意打ちで右前足を背中に振り下ろし、男性が地面にたたきつけられるようにうつぶせに倒れると、腕などに何度もかみつく―。昨年6月18日朝、札幌市東区の住宅街で起きたこの場面の動画を見て、衝撃を受けた人は多いのではないでしょうか。

クマの爪がささった背中の傷をガーゼで覆う男性=昨年6月18日(金子文太郎撮影)
東区ヒグマ襲撃(その2) 市民に警告が伝わらなかったワケ
04/14 10:00
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/669046?bdad=MTU3NTZfNA--&bdactcd=MTU3NTZfMjU3MDI2NzY1
 

B)卒寿を祝う会と個展の写真から

木崎さんの卒寿を祝う会は白石さんが中心になって2015621日に東京の私学会館で行われた。卒寿を祝う会(2015.6.21)の写真でもお分かりのように、木崎さんともども奥さまも大変お元気そうで、この会には南極やヒマラヤ関連の人達たちが大勢参加し、盛大な集まりになった。

 

卒寿を祝う会(2015.6.21)         個展(2004.4.21)
 この卒寿を祝う会が閉じるときに、「1965年のヒマラヤ地質氷河調査隊」の50周年記念の会を
半年後に大阪で行うことを木崎さんに伝えたら、即座に元気な声で「俺を呼べ」とのことだった。もともと1965年の隊長は木崎さんのはずだったが、南極などの計画が立ち上がったのだろうか、隊長が酒匂さんに変わったので、木崎さんもその隊には思い入れが深かったのであろう。僕は1963年から1965年まで北極海調査隊に参加していたのでそのあたりの事情に疎いが、北極海調査の後、ヨーロッパ・西アジアを経由して、東回りでネパールまで一人旅をして、渡辺さんたちの調査隊にヒマラヤ山中で合流することができた懐かしい経験をした。
 だが、その会の開催連絡を木崎さんと何回かしているうちに、「前略 中央ネパール地質氷河隊50周年記念会の件、面白い企画ですが、小生残念ながら体調不良にて外出できず、御了承の?を!不悪! 皆さんによろしく」
(下記写真参照)との絵葉書が来たのである。木崎さんの南極の絵葉書に書かれた文字はかすれていて、筆力が弱くなっていたようだ。脚力もかなり衰えていて、奥さんの介添えなしには、外に出られなくなった、とのことであった。今から思えば、卒寿を祝う会(2015.6.21)の頃が木崎さんの元気な姿を見ることができた最後になっていたのかもしれない。そしてやがて、奥さまが述べられていたように「昔の木崎ではありませんので」という境遇になり、ベッド生活になっていったのではなかろうか。


木崎さんからの欠席通知の絵葉書

 そこで、木崎さんの立ち姿を10年程前の個展(2004.4.21)の写真(記4)と比較してみた。卒寿の祝い時の両足はやや湾曲し、体の重心が前方に下がり気味で左足が半歩前に出ているとともに、腰の位置が下がっているような立ち姿なのに対し、個展時の立っている時の両足はまっすぐに伸び、年齢よりも若いように感じさせる、まさに矍鑠たる立ち姿に見えるのだが、どうだろうか。お腹の出具合は両時点とも同じようなので、体重差の影響はあまりなく、卒寿の祝い時にはやや前かがみがちの上体を支えるために左足が前に出ている立ち姿から判断すると、個展時から卒寿の会の時期までの約10年の間に、足の衰えがすでに始っていたのではなかろうか。その視点で写真を探していたら、見つかった。下記の木崎さんの「米寿画集出版記念祝賀会 20111119」の写真である(注)。その祝賀会場でご夫妻が立たれて、左手にマイクを握り挨拶する木崎さんの右手には杖がしっかりと握られているではないか。やはり、米寿の時には木崎さんの足はすでに不自由になっていたのである。

(注)「米寿画集出版記念祝賀会 20111119」の写真

ジミーアルバム
https://photos.google.com/share/AF1QipPDXNp0zOTJx_isbd-ocOB8rWgh_QaaSRwB_-6ZoI8gY3sWmE5ccjRfWD4ylum-uQ?pli=1

 

米寿画集出版記念祝賀会 20111119

 つまり、傘寿から卒寿の間に木崎さんの足の衰えがさらに進行し元気さがまだ残されていたラストチャンスに卒寿の会は開催された可能性がある、と解釈できた。だが、卒寿祝いの会場で木崎さんが杖を使っていたいう記憶はない。不自由な足の姿を悟られないようにした、のかもしれない。だが卒寿の会場では、前述したように「やや前かがみがちの上体を支えるために左足が前に出ている立ち姿から足の衰えがすでに始っていた」ことをうかがわせていたのである。僕もすでに傘寿を過ぎたので、この報告の「1)はじめに」で述べたように、木崎さんなどのお世話になった皆さまが卒寿を超える大往生を遂げられたことにあやかりたいところだが、心臓の冠動脈に9個のステントを埋め込んだ我が身にはそれは到底かなわぬとしても、せめて、足腰の衰えだけには気をつけていきたい。このブログ「AACH備忘録」のテーマが今回は木崎甲子郎さん、前回は安藤久男さんを偲ぶ追悼文となった(注)のは、僕自身が第1章でふれた「80歳の壁」を超えたからなのだろうか。とにかく、「80歳の壁」を書かれた和田秀樹さん曰く、「幸齢者が自由に生きれば日本は活性化する」という心強い指摘も心にとめておきたい。

 (注)木崎甲子郎さんの次には、時をおかずして、大森信さんの追悼文を書くことになった。

AACH備忘録(12)
海幸山幸の大森さんを偲ぶ
https://hyougaosasoi.blogspot.com/ 


7)謝辞にかえて

 木崎さんをはじめご家族の方々や木崎さんを通じてお世話くださった多くの方々に心からの感謝の意を表するとともに、白石さんには、木崎さんの元気さがまだ残されていたラストチャンスに卒寿の会を実現してくれたこと、また琉球新報の訃報欄をチェックしながら木崎さんの安否を気にかけてくれていたこと(補足資料)、さらには木崎さんの下記の写真アーカイブを作ってくれたことにも、重ね重ね、お礼を申し上げる。

 この報告ではヒマラヤを中心にした木崎さんのことなどの思い出が中心になったので、ここではふれることができなかった南極や沖縄などの多方面にわたる木崎さんの諸活動に関しての報告は、できることなら、白石さんをはじめとした関係者の方々に是非ともお願いしたい。

 ところで、木崎さんは初めてのヒマラヤの旅で、「先生呼ばわりはやめてくれ」と僕に通告し、僕の心の中での木崎先生から木崎さんへと変化した呼称の要因は、木崎さんの以後面倒御免の意を示す別れの通達か、おそらく、ひょっとすると「木崎スクール」からの破門通告だったのかもしれない、と冒頭の「はじめに」で述べたが、今となって考えると、第2章の「当時の北大理学部の地質教室」で述べたように、「学び舎を失った我々はヒマラヤの新天地で羽ばたかねばならなくなった」状況を沖縄からつぶさに観ていた木崎さんは、「木崎先生という一種の鳥かご」から独り立ちするように、あたかも「獅子の子落とし」の故事のごとくに、僕を飛び立たせてくれた木崎さん特有の自由教育の発露だったのかもしれない、と思われるのである。そこでもまた、すでに第5章「おわりに」で書いたように「何物にも代えがたい”自由”の意味を身をもって僕に教えてくれたのは他でもない”木崎さん”だった」ことをしみじみと思い出す。第5章の(追悼文)参照3に掲載した白石和行さんの「名誉会員 木崎甲子郎先生を偲ぶ」のなかで、「先生は、鉱山技師であった父親について、各地の炭鉱や鉱山を移り住んだため,小学校を5回、旧制中学を2回も変わりましたが、それを嫌と思うどころか、次の転校先を楽しみにしていたということです。「放浪癖」とも表現されていました」と白石さんの指摘する「放浪癖」はぼくが感じた木崎さんの「自由への憧れ」の原点になっているような気がする。ぼく自身も、1963年11月27日から1966年3月6日までの東回りの地球一周旅行では、北極海調査で得た軍資金(当時の金額で百万円ほどあり、地球一周旅行や卒業までの学費・生活費などを賄うことができた)で、ヨーロッパや西南アジアを自転車等で旅行し、ネパールの地質氷河調査隊に合流した後に帰国し、約2年半にわたる放浪の旅を経験したので、その旅の間に感じた自由さを尊ぶ実体験が上記の ”木崎さんの「自由への憧れ」”に合い通じるのである。

 そして、1990年の琉球大学退官時に刊行した「ネパールの旅ースケッチ集ー」(資料)に添付された「ご挨拶」の中で、「大学のいいところは、自由と寛容の精神が満ち溢れていることで、それに甘えて、ずいぶんと好き勝手なことをさせてもらい、今考えてみると、よくやらせてくれたと思うばかりです」と木崎さんは述べているのだが、まさしくその「自由と寛容の精神」を僕たちに実践的に教えてくれた木崎さんには心から感謝したい。また、木崎さんは琉球大学退官後は、教え子の事務所の一室を借りているという那覇市内のアトリエ(写真1)に通い、ヒマラヤや南極などの油絵の画業に励むようになったのは、初めてのヒマラヤに出発するとき、奥さまから「年をとったら趣味のひとつも持つものよ」と絵具とスケッチブックを持たされたのがことのはじまりと書いている(資料)が、それもまた木崎さんの自由な生き方のひとつを示しているように思われる。その木崎さんから贈っていただいた油絵「ペリチェの朝 2003Jan.」(写真2)を自室に掲げ、懐かしい「ヒマラヤの木崎さんのことなど」を日々偲んでいる。

 
              

写真1 アトリエの木崎さん          写真2 ペリチェの朝 2003Jan.
 

資料
ネパールの旅ースケッチ集ー(1990)木崎甲子郎教授退官記念会,(有)サン印刷,86p.

木崎さんの写真アーカイブ

1)ジミーアルバム  

https://photos.google.com/share/AF1QipPDXNp0zOTJx_isbd-ocOB8rWgh_QaaSRwB_-6ZoI8gY3sWmE5ccjRfWD4ylum-uQ

2)ジミー卒寿の祝い2015.6.21 photo by H.Fushimi

https://photos.google.com/share/AF1QipOlCuZbsSlK5R-za_sVd9CJdMfVW9Et9kV35WTLues_2iTuJWJzwrdHKIXWY58Bdw?pli=1&key=T1R2OC0yOFM0alU1RXlIbjR2TV9DZWg1djlrRmln

3)ジミー卒寿を祝う会2015.6.21 photo by Iwane Miyachi

https://photos.google.com/share/AF1QipNmQtTQ8_D4j3U4L7krymiWF-C6ZhRPgYfKFA4WjNje6UjviT8FXbkB_Dh7s83qSg

4)ジミー傘寿_個展2004.4.21_4.26

https://photos.google.com/share/AF1QipM___oA1z1XX9PE28-fE1YLTEXlvRi1j39DWgwjA01EQv32Wyg-oAOKqEyrdkrOfg?obfsgid=115786369284765082831&email=fushimih5@gmail.com&key=b2tIVTZwNF95Q3hYb2ttRTc5bmxHOElaRDUzVVhR

補足資料
白石さんが木崎さんの訃報記事を知ったのは、下記の白石さんのメイルのように、まさに「
世界を駆け巡った」メイル通信だった。

木崎先生の追悼文集の件
白石和行 <shiraishiyokohama3@gmail.com>
2022/04/16 (土) 9:47
伏見様
ブログを拝読しました。ありがとうございます。
白状しますが、木崎さんの訃報を知ったのは、自分で琉球新報をチェックしていたのではなく、友人に教えてもらったからです。この友人は、吉川謙二といって、アラスカ大の教授をやっている永久凍土の研究者です。ご存じの男かもしれませんね。
琉球大出身で、南極点まで徒歩で行ったり、ヨットで北極目指したりしつつ、学位を北大の環境大学院でとって、アラスカにわたった愉快な男です。
この吉川君は、もちろん木崎さんの信奉者で、南極に行った時には、木崎さんに総隊長になってもらって、パトリオットヒルズまで行ってもらいました。彼は、昨年からずっとアンデスを縦断しながら、凍土のボーリングをして移動しているのですが、あの日、なんとアンデスの山のうえからメールを送ってきて、それに新聞の切り抜きが添付されていたというわけです。多分、沖縄にいる同級生か誰かから知らされたのでしょう。通信技術の進歩に今更ながら、驚かされます。
ついでに言うと、僕がAACHメールに流した記事にすぐに反応した山の会会員は、ネパールで学生と巡検していた吉田勝さんでした。まさに、木崎さんの訃報は世界を駆け巡ったわけです。
このところ、木崎さんの著作を読み直していますが、本当にスケールの大きい、懐が深く広い方だと今更ながら感動しています。
白石和行

FUSHIMI Hiroji
2022/04/16 (土) 10:42
白石大兄ーーー伏見です
<興味ある情報を教えて頂き感謝します>
木崎さんの訃報情報に関しては、渡辺宅で鮒ずしで飲んだ時、琉球新報の訃報欄をチェックしている話をしたので、大兄もそうだったのかと勘違いしました。しかし、吉川謙二さんがアンデスから伝えてくれたとは、それにヒマラヤの吉田さんが絡むとはまさに最先端ネットワーク時代の象徴のようです。しかも吉川さんをネットで見ると、北極大学や火星探査計画もやっているとは、ますます、興味をおぼえる人物です、ネ。さらに、吉川さんの南極行きの総隊長が木崎さんだったとは、面白い。大兄には以上のようなことを、「Mt. Shiraishi」の経緯等もふくめて、是非とも書いていただきたい。それでは。
PS
木崎家の環境が整ったら、送別会のことも忘れないでください。

   20220408記(敬称・職名省略)

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