2021年3月16日火曜日

「ぶらっとヒマラヤ」の書評にかえて

 「ぶらっとヒマラヤ」の書評にかえて
AACH備忘録(7)伊藤秀五郎さんの視点で(1)
藤原章生さんの「ダウラギリ行」の動機と原眞さんの登山論

1)はじめに
“連載「ぶらっとヒマラヤ」が、書き換え、加筆を経てかわいい装丁の本になりました。明日発売です。どうぞよろしく。2月27日、全国書店で発売!”との藤原章生さん自身のチラシ広告的な宣伝文が2月末のfacebookに登場した(写真1)。この本の原題は2020年2月から半年かけて毎日新聞に24回連載された「ぶらっとヒマラヤ ー定年間際の男が山で考えたことー」であるが、さらに著者が「ウェブ連載していたダウラギリ行の連載がおかげさまで、とても好評だったため、毎日新聞夕刊で連載されることになりました」と伝えるように、再掲載されている(た)もので、その主な内容は2019年秋に著者が実施したネパール・ヒマラヤのダウラギリⅠ峰登山を舞台に、「山に登る意味、そして人間を考えます」と著者(写真2)が述べている通りだ。

実をいうと、藤原さんの「ぶらっとヒマラヤ」は新聞記事の掲載が終了した段階ですでに下記のAACH備忘録(4)で取りあげていたが、今回は冒頭に紹介したように、最初に取り上げた新聞記事が毎日新聞出版から本になり、藤原さんからも「お友達に宣伝いただければ幸いです」と頼まれたこともあるとともに、この本の魅力をみなさまに是非ともお伝えしたいと思ったからである。というのは、AACH備忘録(4)のまとめで「藤原さんが書くどの記事を読んでいていつも感心するのは、AACH備忘録(1)(第7章参照)で述べた”Why”の視点が随所に感じられるとともに、「絵はがきにされた少年」でふれられている”inquisitive”な姿勢でたえず人間探求の旅を続けていることです。2020年7月30日のフェースブックで藤原さんは「カメラもメモ帳も持たず、紙袋に最低限のものを入れて、中国か、アフリカあたり。長い旅に出たいなぁ」と表明しているのは、今回の長期連載を終えた安堵感からなのでしょうか?それでは、藤原さんの次なる連載記事の登場をひそかに期待するとともに、この半年近く続いた長期連載記事もいずれ本になるかと思いますので、その時が楽しみです」と述べたところ、まさに本になりましたので、この機会に改めて、著者自身が邁進している彼の人間探求を試みた。

AACH備忘録(4)-藤原章生さんの記事「ぶらっとヒマラヤ」と原真さんの登山論-
https://hyougaosasoi.blogspot.com/2020/07/aach.html


写真1「ぶらっとヒマラヤ」の表紙                       写真2 藤原章生さん(注2)
著者の記事の魅力は、第3章に書いたように、登場人物の人となりを、「なぜ」の視点で人物像を組み立てていく独特の人間探求にあると思われ、各章それぞれに興味あるテーマがちりばめられて興味津々なのだが、最後のまとめの段で、「人間のいじらしさに感動し、人間を心の底からいとおしく思った」著者の屋久島の経験が、「こんなに苦しいのに、大金をはたいて、いい年した男が、なぜヒマラヤなど歩いているんだ」と著者が述べている「ダウラギリ行」の実施になぜ結びつくのか、が十分には理解できなかった。
そこで、この拙稿はAACH「Academic Alpine Club of Hokkaido University(北海道大学学士山岳会)」の方々を主とした対象にしているので、AACH備忘録(7)として、登山論に関係する藤原さんの「屋久島での経験」などと原眞さんの「山へ登ることの意味」、および両者の登山論と関係すると思われる伊藤秀五郎さんの「北の山」にある「登山の動機」をとりあげ、おもに伊藤さんの視点を通して、藤原さんの「ぶらっとヒマラヤ ー定年間際の男が山で考えたことー」の舞台になった「ダウラギリ行」を実施した動機について、第2章の「屋久島での経験」で、なぜ著者の言う「新聞記者を始めて31年目の秋、2カ月もの休暇を初めてとり、200万円もの大金をはたいて、なぜこんな苦しい思いをしているのか」の「ダウラギリ行」を実施したのかを考えた。
というのは、屋久島で「小さな島で人々が日々生きているのか」と感動的な観察をした第3章の著者の視点はまさに人間探求で、人間のいるところ世界中どこでも通じる視点なので、著者が触れている沖永良部島などでも良いわけなのだが、新聞記事とこの本の舞台である「ダウラギリ行」という具体的なダウラギリⅠ峰の登山行為を実施する直接的な要因にはならないのではないかとまず考えた。そして、第4章の原さんが「登山家は、山へ登ることの、自分自身に対する意味を考えない訳にはゆかない時代を迎えている」といみじくも言っていることにも関連するのではないかと思われ、さらにその要因を探るために「精神的な打撃に原因する寥心を慰し充たさんとするこころを癒す一種の精神療養で、特殊な、急激なまたは強烈な精神的打撃に特異づけられる」行為などを指摘する伊藤秀五郎さんの「北の山」の「登山の動機」をこの拙稿ではおもに考察した。

2)藤原さんの「屋久島での経験」
藤原さんが言う「山に登る意味」であるが、「なんでこんなことをしているんだ。こんなに苦しいのに、大金をはたいて、いい年した男が、なぜヒマラヤなど歩いているんだ。その問いの一端は、屋久島の岬で学んだこと(第25章、人は生きている、自分も生きていいんだ)と関係していたのかもしれない。今はそんなふうに思っている」という著者の「ダウラギリ行」の視点を新聞記事と本の最終章で述べているとともに、その視点の前提になる原眞さんの登山論を、新聞記事では屋久島の体験の直前の第23章で、また本では全体構成の中ほど移して(第13章、なぜ山に?なぜ生きる?)考察しているので、その両視点から著者の「山に登る意味、そして人間を考えます」をみていく。
著者は「ぶらっとヒマラヤ」の新聞記事の最終章で、「ダウラギリ行」へといざなう屋久島での経験を下記のように述べている。

ある岬に着いたとき、ポンポン船が沖から屋久島に向かってゆっくり近づいてくるのが遠望できた。おそらくそれは沖永良部島からの定期船だったと思うが、そんな知識はどうでもよかった。ただ、船がこっちにくるなあと思って眺めていたら、突然、私の気持ちが波立った。あの小さな島からこの本土の屋久島へやってくる。でも屋久島の本土は鹿児島で、九州があって、本州があって、日本があって、ユーラシア大陸があって……。
 気持ちは気持ちでそこにあるのに、その気持ちがぐーっと上に上がって、その岬から小さな島を鳥瞰(ちょうかん)しているような感覚をおぼえると同時に、私は、「その船で、小さな島で人々が日々生きているのか」と思ったとたん、突然感動し、「うわっ」と声を上げるほどのおえつを漏らしていた。
 そこに人間が生きている。 後から考えれば、そんな当たり前のことを思って感動した自分が不思議で仕方ないが、気持ちよりも心よりも、考えよりも何よりも早く体が反応していた。 屋久島の岬で私の気持ちはこう思っていた。 「人間が生きている」「あんなに小さな島で人が日々暮らし、日々生きている」。 私は人間のいじらしさに感動し、人間を心の底からいとおしく思った。
山に登らなければ、きっとそんなふうには思えなかったかもしれない。 なんでこんなことをしているんだ。こんなに苦しいのに、大金をはたいて、いい年した男が、なぜヒマラヤなど歩いているんだ。 その問いの一端は、屋久島の岬で学んだことと関係していたのかもしれない。今はそんなふうに思っている。

 そこで、「人間のいじらしさに感動し、人間を心の底からいとおしく思った」著者の屋久島の体験がなぜ「ダウラギリ行」に結びつくのか、もう一つ理解できなかったのである。上記の「その問いの一端は、屋久島の岬で学んだことと関係していた」と「一端」というくくりでその問いの回答をボカしているように思えるのだが、そこをなぜ「ダウラギリ行」になったのかをさらに追求してほしかった。また、本では最後に「ダウラギリを登りながら考えていた問の答えを私は屋久島で得ていたのかもしれない」と結んでいるのだが、この結びにもなぜなのかの疑問符がつくのだ。つまり、著者はなぜ「ダウラギリ行」の要因は自身の人間探求だったと言わずに、新聞記事でも本でも、屋久島の経験だと説明したのだろうか。さらに、友人から「8000、行きませんか」と言われ、「8000?いいね。行きたいね」と場面転換したことから、「これは避けようがないこと。初めから決まっていたことなんだ」と達観しているが、やはりなぜ達観できるのか、それが知りたい。新聞記事の最終回で「登山でなくてもいいのかもしれない。でも一見無意味な行為を人間が続けていくのは、それを試さずにいられないから、という気がする」と著者自身が述べているように、確かに、なにも「ダウラギリ行」でなくとも人間が住む場所なら世界中どこでも良いのではないかと思われるのだが、いや著者はそうならずに、なぜ著者は敢然と「ダウラギリ行」を実行したのだろうか、との疑問を依然として抱えながら、長期連載を終えた著者に次のようなメイルを送った。
FUSHIMI Hiroji 2020/07/11
藤原さまーーー伏見です
 お忙しいところ、興味ある記事を今回もお送りくださり誠にありがとうございました。
 さて、連載記事の最後を「なぜヒマラヤなど歩いているんだ」という「その問いの一端は、屋久島の岬で学んだことと関係していたのかもしれない」と結んでいますが、「稜線から下を見たとき、それまで感じたことのない高度感に魅せられた」14歳の八ケ岳の経験はヒマラヤなどへいざなうことでしょうし、また「小さな島で人々が日々生きているのか」と思った27歳の屋久島での感動は「ネパールのダウラギリⅠ峰を舞台に、山に登る意味、そして人間を考えます」や「そう、私はヒマラヤという特殊な地での私自身の恐怖やその他もろもろの感情、感覚を振り返ることで、人間を知ろうとしているのだ」という視点で、自分自身の人間探求へ向かう道と決して無縁ではない、と理解しました。
 ともあれこれで、半年近く続いた「ぶらっとヒマラヤ ー定年間際の男が山で考えたことー」は終わりましたが、現在も精力的に進めておられる多様な方々のインタビュー記事で、人間探求を進めることができるのは大新聞の毎日記者の役得です、ネ。うらやましい限りです。まずはひとまず、ご苦労さまでした。
 それでは、今後の人間探求にも、ますます期待しています。

3)藤原さんの記事の魅力
藤原さんの記事の魅力は、登場人物の人となりを、「なぜ」の視点で人物像を組み立てていく人間探求にあるようで、彼がfacebookで「元毎日新聞の尊敬する先輩記者、布施広さんが編集長をつとめる「季刊アラブ」誌に拙著「新版 絵はがきにされた少年」について素晴らしい書評を書いて下さいました。ありがとうございました。「登場人物が実在の人物より、その人らしく見えることがある」「描写の才能と執念」とのお言葉、少し気恥ずかしいですがうれしく拝読しました。ここにご紹介します」と述べているように、先輩記者の布施広さんを「その複眼的な知的活動には末恐ろしさを覚えるばかり。優れた後輩をもつ先輩記者もつらいのである」と言わしめている。
また、彼の別のfacebookでは「先日、毎日新聞のOBの方々を前に、オンラインで講演をしたところ、ご著書も多数あるジャーナリスト、堤晢さんに私を紹介するエッセーを書いていただきました。いつも人のことを書いている身としては、やはり書かれのは、しかもよく書かれるのは素直に嬉しいです。ご一読いただければ」とあり、堤哲さんが「藤原さんの過去記事をクリックすると、とんでもない量の署名記事が溢れ出た。取材対象が幅広い。女優で「ねむの木学園」の宮城まり子さんが93歳で亡くなると、その評伝まで書いている(注1)。そのうえ毎週土曜日には「ぶらっとヒマラヤ」をデジタル毎日に連載している。毎回かなりの長文で、すでに20回を超えた。とにかくよく書く。「ぶらっとヒマラヤ」でこう明かしている。《紙の時代には週平均2500字、月に1万字程度だったのが、デジタルだとこの5倍はいけて5万字》Zoom講演の中で、記事を書くスピードに、ついてこう話した。「400字7,8枚は2時間で書きます」。びっくりした。こちらは鉛筆なめなめ(表現が古すぎるか)、その倍は優にかかる。そして、こうもいっている。《テーマや取材対象について読み込む時間が全体の80%で、10%をテーマのさらなる絞り込みや問題提起に充て、実際のインタビューと原稿書きはそれぞれ5%といったあんばいだ》。事前取材に時間をかける。書くのは、ほんのわずかの労力を注ぎ込むだけなのである。

 執筆が5%の2時間とすると、読み込みが80%ならば執筆の16倍、つまり32時間、約1.5日とすると、ほぼ2日で400字7,8枚の記事を書くことになる。まさに縦横無尽の筆力ぶり。大したものだ。ただ、堤哲さんは藤原さんの「記事を書くスピード」を強調する定量的評価に偏りすぎ、藤原さんの個性的な文章内容の特徴については布施広さんのように定性的には論じていないので、多少の不満を感じながら、次のようなメイルを送った。
FUSHIMI Hiroji 2020年6月28日
   堤さんの”「400字7、8枚は2時間で書きます」と藤原章生記者”を拝見しました。
   堤さんは、まず藤原さんの「取材対象が幅広い」ことと「事前取材に時間をかける」ことを紹介していますが、「藤原章生記者」はなぜ、そうなのかに迫っていない、と感じました。堤さんは、藤原さんの「記事を書くスピード」に「びっくりした」と述べているのですが、「元気をもらった」という表現の逸話や、最後の「石川クン」の登場で「藤原章生記者」の人物像の解明からやや離れてしまったのは残念な思いがしました。
  というのは、藤原さんがしばしば述べている「人間を知ろうとしているのだ」という視点が「俺はブレークスルーした。一段上がった」「前よりいい原稿が書けるようになった」「まだやれる。まだ新聞記者をしてもいいんだ。ありがとう、ありがとう、まだやってていいんだ!」という藤原さんの執筆姿勢に結びついているのではないか、と思っているからです。そのことが、「取材対象が幅広い」ことと「事前取材に時間をかける」ことの原点である「なぜ、そうなのか」という「藤原章生記者」の人物像の解明に関係すると思いますので、堤さんには、その視点に触れてほしかったと思いました。

 屋久島で「小さな島で人々が日々生きているのか」と洞察した著者の視点はまさに人間探求で、ぼくの理解では、定年を前にした著者自身の「ダウラギリ行」という登山行為をする直接的な要因にはならないのではないか。そこで、その可能性としては、著者自身が述べている「人間の謎を考える際、格好の取材対象は自分自身だ。自分を掘り起こし、考えてみるのが一番だ」(新聞記事第24章<最終回>突然の不思議な気持ち)との著者の基本姿勢から、定年を前に、著者自身の人間探求を「ダウラギリ行」で行ったのではないか、と解釈できるのではなかろうか。本の第6章「ダウラギリは演歌の響き」中で述べている「行く前から、一切書こうとは思わなかった」のとは反対に「ダウラギリに、書かざるを得ない何かがあったということだ」もまた著者自身の人間探求への思いがそうさせたのではないか。著者は「山登りとは何につけ、自分を知るための行為なのだ」(本の第21章)と明言しており、かつ「変化、つまり加速度を書きたいのだ。・・・人間の一つの代表である私自身の変化を知ることで、人間を知ることができると思うからだ」(本の第19章)と述べていることからも「人間探求」こそ著者の目指す(した)テーマだった。つまり、自身の「人間探求」に邁進している著者は、その舞台として「ぶらっとヒマラヤ ―定年間際の男が山で考えたことー」の「ダウラギリ行」を選んだのであろう。だから、「ダウラギリ行」という行為のなかで著者自身の人間探求を追求していることと同様に、著者が書いてきた多くの人間探求の記事、例えば著者のインタビューなどの記事においても、対象の人物像を明らかにする中で、次の第4章で考察する原眞さんの視点である「登山家は、山へ登ることの、自分自身に対する意味を考えない訳にはゆかない時代を迎えている」と共通する著者自身の人間探求を「ダウラギリ行」で実施したように思われるのである。
 それでは次に、原さんの登山論に移る。

4)原眞さんの「山へ登ることの意味」
4-1)自分と自由
 まず、著者の「ダウラギリ行」に関係してくる原眞さんの登山論に関する著者の考察をみると、新聞記事では「第23章、どうして山に登るのだろう」でまさしく最終省第24章「突然の不思議な気持ち<最終回>㉔14歳の頃と27歳の頃」で屋久島の体験を総括した前段に位置し、原さんの登山論から著者の登山論の原点になる屋久島の体験へとつながっていたのであるが、本では全体構成の中ほどの「第13章、なぜ山に?なぜ生きる?」で原さんの登山論が展開するように、その位置づけが変更されている。この全体構成の変更は、藤原さんが下記の2020年7月11日の返信メイルで、「ぶらっとヒマラヤ」の流れ、趣旨から外れるので、と述べていること関係するようだが、はたして、そうだろうか。「なんでこんなことをしているんだ。こんなに苦しいのに、大金をはたいて、いい年した男が、なぜヒマラヤなど歩いているんだ。その問いの一端は、屋久島の岬で学んだことと関係していたのかもしれない。今はそんなふうに思っている」と著者は総括したが、さらに「屋久島の岬で学んだこと」がなぜ「ヒマラヤなど歩いている」のに結びつくのかを探るには、新聞記事のように、「久島の岬で学んだこと」の前提として、新聞記事では、そのなぜを探る原さんの登山論が重要な位置を占めていたのではなかろうか。この点は、100%の確信があって言う自信はないのだが、“「ぶらっとヒマラヤ」の流れ、趣旨から外れる”からと述べて、原さんの登山論を全体構成の中ほどに移動した著者の考え方にはいまだに納得がいかない。さらに本では、原さんの登山論が、新聞記事にはなかった「登山は哲学なんだよ。人間の謎を探る哲学」と言うメスナーさん(追記参照)の視点を新たに導入して、原さんの登山論へと流れる構成に変わっている。このメスナーさんの視点は著者の「屋久島の岬で学んだこと」に、はからずも共鳴しているようだ。

藤原さんも述べているように、原さんの登山論は「とにかく重い」のであるが、その骨子を藤原さんが考察した文章から箇条書きに下記で整理しておく。

・登山家は、山へ登ることの、自分自身に対する意味を考えない訳にはゆかない時代を迎えている
・山へ登ることの目的と意味を考えようとしない登山家は結局のところ敗北的登山家といってよかろう
・登山における単純な記録主義の時代は去ったと考えてよかろう。
・仕事を捨てられても、登山を捨てることはできない
・人が山に登るのは、生きているという意味を忘れないため
・人間の自由への感覚が、自由をうばい去ろうとする限界情況のなかではじめて目覚める
・自由とは、自分を完全にさらすこと
・自由とは創造、自由探求への道
・人生が生きるに値するのは意志が集中しているときだけだ
・自分の情熱、直感を大事にしろ
・山登り 本性さらす 高みかな

 原さんの視点には「自分と自由」の観点が登山論の中にちりばめられている。そこで藤原さんは「では、私はどうだろう。わが身に起こった出来事、それは生涯でたった2度の出来事だった」と述べ、八ヶ岳と屋久島での体験へと結びついたことから考えると、著者の「ダウラギリ行」はまさしく「ぶらっとヒマラヤ ー定年間際の男が山で考えたことー」であり、原さんの言う「登山家は、山へ登ることの、自分自身に対する意味を考えない訳にはゆかない時代を迎えている」ことを著者自身で実践したのではなかろうか。その視点は、「人間の謎を考える際、格好の取材対象は自分自身だ。自分を掘り起こし、考えてみるのが一番だ」という藤原さん自身の主張につながる。

4-2)原さんの訃報
 2009年3月20日に亡くなった原さんの訃報に接したのは、冬期アンナプルナ・エベレスト両南壁の初登攀を導くとともに、日本山岳協会の会長職も務めた八木原圀明さんと彼の友人たちからの3月30日のメイルで、それを見ると、それらの方々と原さんの「自分と自由」の観点をつらぬいた個性的な人間関係の一端がしのばれる。
(1)Subject: Fw: 原真さん逝去の件
八木原 2009/03/30
各位
ご存知の方もおいでだとは思いますが、念のため。八木原圀明
(2)From: 永田秀樹 To: 八木原 Sent: March 30, 2009
八木原さま
原さんは、19日に普通に就寝して、20日早朝に亡くなっていたそうです。死因は脳血栓で、すぐに荼毘にふされ、遺言で葬儀はしないそうです。先週月曜日に、原さんが連載コラムをもっていた「登山時報」の編集者が打合せの連絡をした時に聞いた情報で、その後、電話をいれても、エリザベス*は出ませんので、私も直接、確認していません。ヤマケイの神長さんも知らず、連絡をとれないそうです。(*写真3;エリザベスは原夫人です)
永田秀樹
(3)Nakashima, Michiro 2009/03/30
八木原圀明さま;
お知らせ有難うございました。
昔から彼の『生き様』には敬意を抱いていましたが、当方は彼から重視して貰えないまま、最近は全く交流が途絶えていましたので、もはや、旧交を温めたくてもそれが出来なくなっってしまったのか、と寂しく思います。それに葬儀もなく、遺族とも連絡不能とは!寂しい。
だがしかし、お休み、と言って床に入ったまま朝起きてこなかった、という最期は、まるで、「願わくは花の下にて吾死なん、春如月の望月の頃。」と言い残して逝った西行法師ですな。羨ましいなあ。私もあやかりたい。
中島道郎


八木原さんからの上記(1)のメイルを受けた時はポカラの国際山岳博物館で学芸員をしていたが、当時はパソコンが不調で、日本語入力ができなかったので、八木原さんには次のメイルを英文で送らざるを得なかった。
(4)伏見 碩二 2009/03/30
Yagihara Hajur-Ji, This is Fushimi expressing my hearty/deep condolence for the late/my senior Mr. Makoto Hara. He was the president of Academic Alpine Club of Hokkaido University in Kansai and I have learned a lot from him. Namaste! from Pokhara.
(5)Ushiki Hisao  2009/04/20
伏見兄、牛木です。
残念なのは、原真さんが3月20日に脳梗塞で急逝したことです。アンチンからその事を聞き、驚きました。名越からも話を聞きました。ダン吉からの連絡では、原さん追悼を在京の連中で計画中とのことです。
(6)伏見 碩二 2009/04/22
名越さま 伏見です。
大兄の慕われていた原さんがお亡くなりになり、落胆の極みです。人生の終焉がいつ起こっても不思議でないことを実感しました。

4-3)原さんとの接点
 藤原さんは、原さんとのそもそもの経緯などについて下記メイルで次のように述べている。

Akio Fujiwara  2020年7月11日
  伏見様 原さんとは私が新聞記者に成り立ての頃、1991年、長野県の大町市に駐在していたときに週一度の連載「終末アルピニズム」を書いていたとき、ロングインタビューをさせてもらったのがおつきあいの始まりです。その後、私はほぼずっと海外でしたが、東京に戻った折は浜名さんとともに飲みに行ったり、いろんなお話を聞かせていただき、私の最初の単著「絵はがきにされた少年」(2005年)と第二作「ガルシア=マルケスに葬られた女」の書評を「アナヴァン」に書いていただきました。あいさつもせぬまま私は2008年にローマ勤務となり、その翌年に亡くなったので驚きましたし、いつか原さんの評伝を書きたいと思っていただけに、とても残念に思いました。原さんの死後、娘の円さんが旅行のついでにローマの我が家を訪ねてくれたこともあったのですが、十分にねぎらうことができなかったと今も少し引っかかっています。
  そんなことで、伏見さんの助言もあり、もう少し原さんのことを書き込みたかったのですが、「ぶらっとヒマラヤ」の流れ、趣旨から外れるので、1回きりの登場となりました。
  今の忙殺から離れたら、原眞伝を書いてみたいという望みがあります。なぜああいう人が出てきたのか、とても興味があります。
そこで、著者が原さんの登山論を考察した記事を見て、次のようなメイルを送った。
FUSHIMI Hiroji 2020/07/11
藤原さまーーー伏見です
原さんが唱える「山登り 本性さらす 高みかな」(限界状況に立たされたとき初めて「ありのままの心」に触れることができる)や<登山家は、山へ登ることの、自分自身に対する意味を考えない訳にはゆかない時代を迎えているのである>の見方は登山プロパーの正論だと思いますが、原さんのような「仕事を捨てられても、登山を捨てることはできない」登山プロから見れば<敗北的登山家>であるぼくにはチンさんがいう「死に近づくのはとても健全」はぼくの理解を越える、やはりプロならではの表現なのでしょうか。
AACH関西支部長をしていた原さんは琵琶湖で行われた月見の会には奥さんと共にキャンピング・カーでよく来られていました。湖岸での焚火を囲んでの談笑では、<敗北的登山家>が多い支部会員には原さんの登山論そのものを展開することはありませんでしたが、しばしば、AACHを創立した“北の山”の伊藤秀五郎さんの思い出を話されていたのは、原さんは伊藤さんと同様に、AACH本流の北大から出て、ともに札医大にいたことや、伊藤さんは戦時中、北大教授を辞し、名古屋の軍需工場へ赴き、中部地域で活躍(中日新聞論説委員や三重県人事委員を歴任)したことも原さんの故郷との接点が深かったことの反映ではないか、と想像しています。


写真3 原眞さんとエリザベス夫人(琵琶湖岸で)       写真4 伊藤秀五郎さん(注2)

登山論に関係すると思われることでは、「メンバーにふさわしい人物かどうかを30分で見極めることができる」と原さんは述べていました。AACHでは稀有なリーダーであった原さんならではの人物評価法だったのではないかと思っていますが、今となっては詳しい内容を知りえないのが残念です。そこで、大兄の「涙」などの関係する記事(新聞記事の第12章、本の第15章「7000mでのよだれ」)を読んだときに、「原真さんは他の多くの(AACHの)人とは違って、涙腺が細いか無いに近い稀有な人だった」とお伝えした次第です。原さんの登山論に迫った今回の記事を拝見し、改めて原さんへの思いを深くしましたので、亡くなられる1年ほど前の琵琶湖で行われたAACH関西支部の月見の会の思い出写真を添付します(写真3)。それでは、次回の大兄自身の登山論にも期待しています。
 

「高所登山を研究し尽くした登山家で医師の原真さん(1936~2009年)が、以前こんなことを書いていた。<山へ登る動機はいろんな心情の複合である。自然愛、好奇心、挑戦など様々な心理が動因となって人は山へ登る。開拓精神などは、以前から、ヒマラヤ登山に関して大いに議論されてきた主題である>」ことを著者は紹介しているが、この原さんの視点はまさに第5-2章の伊藤秀五郎さんの「登山の動機」の視点そのもののように感じられる。以上のように、これまでは藤原さんと原さんの登山論と両者の関係を主に見てきたので、それでは次に、原さんの登山論にも影響を与えたと考えられる伊藤秀五郎さんの「登山の動機」をみていくことにする。

5)伊藤秀五郎さんの「登山の動機」
5-1)北の山
伊藤さん(写真4)の出身である横浜一中(現在の神奈川県立希望ケ丘高等学校)では慶応大学山岳部の三田幸夫さんの後輩で、慶応大学の大島亮吉、槙有恒さんたちとも親しく、大島亮吉の「山‐研究と随想」(1930)には大きな影響を受けたと思われる。伊藤さんの「北の山」の視点は持論である「静観的登山」で、「それは山を遠くから静かに観照するという意味ではなく、困難な登山の中にあって、自己を大自然の中に投入し、渾然と融合することに喜びを見出すという態度」で山に向かうことと言われている。本の出版は1935年という戦前でもあり、伊藤さんにとっては、1935年1月よりペンシルバニア大学大学院留学、2年半の米国滞在ののち、ヨーロッパ回りで帰国の途中、イタリア、スイスを巡遊し、1940年、北大に戻り、北大予科教授となる時期に「登山の動機」を含む「北の山」は刊行された。
南極越冬日記 (1958年)の中野征紀さんは「伊藤秀五郎岳兄の追憶」で次のように述べた。
(https://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/Center/Review/syowa2/kitanoyama.html)
彼の「北の山」、この本は一個人伊藤秀五郎の代表作というよりも、我が国の代表的山の古典の一冊であり、伊藤の叙情文学は大島亮吉や尾崎喜八と並べて、バタくささもなく、ただの心象風景に終ることなく、日本的な雰囲気で気取りがなく、優しく、暖かく、ひたむきな素直さが満ちているように感じられるとも評価されている。

5-2)「登山の動機」の概要
伊藤秀五郎さんが「登山の動機」をまとめるにあたって、「少なくとも私自身の経験においては、山登りの動機と、及びそれとの関係においてその内容本質に対する正しい理解をもつということは、もともとその内容の極めて複雑で、その態度傾向形式等に様様なものが存在する山登りのうえにおいて、山登りそのものを理解するためにも、また私自身山登りを行う上にも、かなり多く役立つところがあったと信ずる。それ故に、私はここに少しく山登りの動機について考察してみようと思う。ただし、私がここで取扱う山登りの対象としての山は、単に氷雪の被われた高山や、最高の技術を必要とする困難な岩山などのみを指すのではなく、より低い平易な山々などに至るまでを含むところの、広い意味においてのそれである。」との視点で、1935年の戦前の登山環境の中で「登山の動機」が示唆する登山論の中心的命題を考察された慧眼に改めて敬意を表しざるを得ない。
(注;以下は項目のみを列挙しているが、それぞれの説明は原本を参照してください。)
1)純粋に生理的なもの
イ 山岳の健康なる空気に対する都会生活者の趣向
ロ 純粋な生理的肉体的な解放運動を欲するもの
1 運動緩慢なるものー漂泊。峠越え、漂泊的山旅等。
2 運動急激なるものー登高。岩登り、スノークラフト等。
ハ 不断の連続的な生活労働による疲労の回復休養。
2)素朴的山岳信仰。
3)文明人の心に滞在する原始への帰趨。
4)孤独を憧れる心。
5)人生回避。
6)精神的な打撃に原因する寥心を慰し充たさんとするこころ。
7)美的感情の充足。
8)未知の地に対する好奇心。
9)冒険心。
10)征服欲。
11)登高欲。
12)崇高の創造。
13)山において経験する危険苦痛歓喜等を一連の情緒のうちに回想して愉しまんとするこころ。
これらの組み合わせによって極めて多種多様な動機が生まれて来るわけである。しかも実際に当たってはかかる心理的な動向ばかりでなく、山岳そのものの種類形態及び季節的条件に支配されるものである。そこから必然的に山登りの複雑性と変異性と多様性とが招来される。

6)まとめ
以上に概括した伊藤さんの「登山の動機」は「組み合わせによって極めて多種多様な動機が生まれて来るわけである」が、前述したように、原さんの言う「登山家は、山へ登ることの、自分自身に対する意味を考えない訳にはゆかない時代を迎えている」ことを藤原さん自身が実践し、そこで著者自身の人間探求を目指したのが「ダウラギリ行」であったとすることが妥当ならば、そしてかつ伊藤秀五郎さんの視点に立つと、藤原さんの「ぶらっとヒマラヤー定年間際の男が山で考えたことー」のメイン・テーマである「ダウラギリ行」を決断した要因は、定年を迎えるという人生のエポック・メーキングな時期に際して、伊藤さんの「登山の動機」が指摘する「精神的な打撃に原因する寥心を慰し充たさんとするこころを癒す一種の精神療養で、特殊な、急激なまたは強烈な精神的打撃に特異づけられる」行為、および「不断の連続的な生活労働による疲労の回復休養と同じ範疇に属するが、近代的ルナパーク(*)や酒場の雰囲気においては到底満足され得ないこころが、山岳に踏み入ることによってはじめて、完全なる休息の状態を経験する」行為であった、と解釈できるのではなかろうか。本の第14章「感情の波立ち、来いな感動」で紹介している大澤真幸さんが言う「誰もやらないだろうっていう、そういう気持ちになれないと仕事ってなかなかできないですね」という発言に著者は感動し、涙を流したエピソードを述べているように、「ダウラギリ行」の前には記事を書くことを考えていなかった著者が、「ぶらっとヒマラヤ」を経験することによって、本の第6章で「ダウラギリに、書かざるを得ない何かがあったということだ」と著者自身に言わしめているように、「ダウラギリ行」で自分自身の人間探求を行う仕事をした、と解釈できる。
この拙稿は、藤原さんと原眞さんの登山論に注目し、両者の登山論と関係すると考えた伊藤秀五郎さんの「北の山」の「登山の動機」の視点を通して、また藤原さんらとのメイル交換の資料などを改めて見返しながら、藤原さんの「ぶらっとヒマラヤ」の「山に登る意味、そして人間を考えます」という趣旨やその第25章「人は生きている、自分も生きていていいんだ」から具体的な行為である「ダウラギリ行」の動機に結びつく要因を考察したが、このまとめの結論には一面的な見方からの偏見によって、別なる解釈を封印している可能性があることは十分に承知しているので、みなさま方からのご指摘をお寄せくださるよう願っている。
*ルナパーク (Luna Park) は遊園地で、「初めてのものは1903年に開園し、現在は南極大陸を除く世界中で営業している」そうである。

7)追記
写真の整理などの余録として
 各種の記事や文章などの活字媒体はもとより写真、特にかつてのスライドや白黒写真などはキーワードなしには検索することができないばかりか、最近のデジカメの写真では年月日は記録されているが、何せ撮影枚数が多いので、撮りっぱなしで貯めておくだけでは宝の持ち腐れになる。
そこで、1)ブログ"氷河へのお誘い"に書いた毎日新聞主催の「びわ湖毎日マラソンと湖陸風」(https://hyougaosasoi.blogspot.com/)を関係者に周知していただいたお礼と、2)「ぶらっとヒマラヤ」に関連した印象記(本拙稿)の予告に加えて、3)浜名純さんや工藤啓治さんたちが参加した「文学賞受賞への道のりと、人間社会の先達、アフリカ」の討論会の感想を伝えた中で、その討論会で工藤さんが、たくさんの良い写真を撮る藤原さんは「カメラマンになったら」と指摘されたのには同感しましたので、写真の整理・管理・保管・検索について尋ねた下記メイルを送った。

お願い 2021/03/05
藤原さまーーー伏見です
1)原稿について
 お忙しいところ、毎日新聞の関係者に周知してくださり、誠にありがとうございました。
2)「ぶらっとヒマラヤ」について
 原眞さんに関連した「なぜ山に?なぜ生きる?」をまず読んで、新聞記事にはなかったメスナーさんが冒頭部分で紹介され、原さんの登山観にうまくつながっているのに感心しました。実は、2010年にポカラの国際山岳博物館で学芸員をしていた時にメスナーさんに偶然お会いし、笑顔を絶やさない落ち着いた振る舞いぶり(添付写真)に接し、無酸素登山のいかつい猛者ではないかとの先入観が吹っ飛びました。原さんの登山観については前にお伝えした伊藤秀五郎さんとの関係でまとめてみたいと思っています。
3)「文学賞受賞への道のりと、人間社会の先達、アフリカ」に関して
 工藤啓治さんの3月3日のメイルで教えられて拝見し、「道のり」部分は時間も十分あり、良く分かりましたが、「アフリカ」についての写真はありましたが、時間が足らなかったような気がします。特に参加者からのコメントが少なく、鉱山の質問があっただけだったのは残念な気がしました。工藤さんが「カメラマンになったら」と指摘されたのには同感です。良い写真をたくさん取られていますが、写真の整理・管理・保管・検索はどのようにしていますか。
以上、とりあえずお伝えしますが、今年の定年以後は何をなされる予定ですか。

上記のメイルの対しては次のような返事が来た。
Fujiwara-aki 2021/03/06
伏見さま、「ぶらっとヒマラヤ」、お友達に宣伝いただければ幸いです。
  写真は基本、どこにあるかは頭の中に入っていますので整理していません。膨大な原稿は検索で探し出します。
  4月末の定年後は、まだ続けてと言うので、非正規社員の立場で、特集ワイド面に頻度を落として、いつでも辞められる形で書いて行きます。どうするかは確定していませんが、年内にも、コロンビアなど南米にしばらく行きそうです。藤原

やはり、「優れた後輩をもつ先輩記者もつらい」と筆力を認められている藤原さんを毎日新聞は放り出さなかったようだ。さすれば、非正規社員の立場ではあるが、原さんの言う「自由とは創造、自由探求への道」と「人間探求」の旅を続けることであろう。

 写真5 Picasa3のメスナーさんの検索画面      写真6 ポカラでお会いしたメスナーさん
また、写真整理に関しては「どこにあるかは頭の中に入っています」というので、びっくりすると同時に、定年を迎えてもなお、たくさんの写真を管理する脳細胞が立派に役目を果たしているのには感心する。ただ、原稿はキーワードになる単語が文章中に散りばめられているので検索可能ですが、写真はそうはいかないので、次なるメイルを送った。

FUSHIMI Hiroji 2021/03/06
藤原さまーーー伏見です
 僕の場合は定年頃の記憶力低下に反比例するようにデジカメのせいで写真が増えてきました。元気な時は野帳に丹念に記録していましたが、年を取ると、写真を撮って記録代わりにする悪い癖が出てきたからです。デジカメ写真は日時データが入っていますので、日付での検索は可能ですが、かつてのカラースライドや白黒写真の検索はお手上げでした。そこで、定年になって、ポカラの国際山岳博物館の学芸員をしている時に、地域と日付で検索することができる4.4万枚ほどの氷河写真の下記データベースを友人(干場悟さん)の協力で作り、誰でも利用できるようにオープンにしました。氷河写真以外の個人的な写真はGoogleフォトやアルバムで整理し、日付で検索しているとともに、さらに人名で検索できるように顔認識機能のあるPicasa3にまとめることもしています。
前便で送りましたメスナーさんの写真5と6はPicasa3のデータベースから検索したものです。

「氷河の世界」の写真ギャラリー(https://glacierworld.net/gallery/)
PS
それでは、「ぶらっとヒマラヤ」の宣伝の一端になるよう、前便でお伝えした「原さんの登山観については伊藤秀五郎さんとの関係でまとめ」て、友人たちに広報したいと思っていますので、しばらくお待ちください。

以上で、ここに、AACH備忘録(7)として原眞さんの考え方に影響を与えたと考えられる伊藤秀五郎さんの視点で、藤原章生さんの「ぶらっとヒマラヤ」の登山論や藤原さんの記事の魅力などをまとめました。はたして、藤原さんへ約束した「ぶらっとヒマラヤ」の宣伝の一端になるかどうかは不確かですが、ご覧ください。ただ、本拙稿の登山論には直接関係しない他の多くの部分にも、例えば第10章の「恐怖は調節できるのか」と関連する第11~12章や第14章の「感情の波立ち」に関する考察など、藤原さんらしいなぜそうなるのかを追求した人間探求の物語が展開されていますので、どうぞお楽しみください。
最後に、本拙稿の表題を「AACH備忘録(7)伊藤秀五郎さんの視点で(1)」としているのは、「AACH備忘録(8)伊藤秀五郎さんの視点で(2)AACHにおける伊藤秀五郎さんの評価―ツル*での出来事―」(*「ツル」とは、AACHの夜の談論風発の場で、その名の由来は酒の千歳鶴から)を次に考えているからである。その中で、伊藤秀五郎さんの評価についてAACH会員間で異なった評価があり、お互いに言いっぱなしになっている現状に“Why”の観点から迫ってみたいと考えている。“Why”の視点があれば、お互いの確執の原因に迫ることができ、解決の糸口を見つけることが可能と考えている。“Why”の潤滑油で、多様な考え方を束ねる共通原因を探り、問題解決の道を報告したのが、下記アドレスの「AACH備忘録(1)-コロナ禍で“Why”を問う-」なので、合わせてご覧ください。

https://hyougaosasoi.blogspot.com/2020/07/aachwhy.html

8)注1

 宮城まり子さんのことは、下記(1)藤原さんのtwitterと(2)毎日新聞の余録でも取り上げられている。
(1)藤原章生 Akio Fujiwara
https://twitter.com/serioakio/status/1367754522441838594
2020年3月5日
宮城まり子さんの評伝の書評を月刊誌「潮」4月号に書きました。宮城さんとは主に私的におつき合いさせていただきました。「おい、この野郎」とか「あたしってバカ?」という口調の支離滅裂な会話がとっても笑える人。3月21日が一周忌。真面目っぽく微笑んだ死に顔も、かわいらしい人でした。
(2)余録
毎日新聞2020年3月24日
https://mainichi.jp/articles/20200324/ddm/001/070/105000c?cx_fm=mailasa&cx_ml=column
「やさしくね、やさしくね、やさしいことはつよいのよ」。宮城まり子(みやぎ・まりこ)さんがよく口にした言葉である。宮城さんと親交のあった小紙の藤原章生(ふじわら・あきお)記者は昨夏のインタビューで自身の奇妙な記憶違いを記している▲障害をもつ子どものために女優の宮城さんが私財を投じた「ねむの木学園」のドキュメンタリー映画についての中学生時代の記憶である。心に残っていたのは霧の森の中、白いドレスの女性が子どもらを従え、歌っている場面だった▲女優のナルシシズムを感じさせる光景だが、後年、関連映画をすべて見て驚いた。そんな場面は存在せず、映像の記憶は自分の偏見が作り出した虚像と分かったのだ。映画の中の宮城さんは、障害をもつ子どもを必死に励ましていた▲人々の間には障害児教育やボランティアの概念もなく、世の仕組みから外れた「善意」がいかがわしく思われた時代だった。福祉や教育を一から勉強し、土地の確保、役所の認可とりつけに奔走(ほんそう)した宮城さんも「売名」の冷笑を浴びた▲世の中ではまだ旧優生保護法で障害者への不妊手術が行われていたころだ。中学生に偽りの記憶をうえつけた世の視線がどうであれ、いつも宮城さんがうれしそうに語ったのは学園の子どもたちが次々に開花させた個性と才能だった▲「ねむの木」の命名は、35年間暮らしを共にして学園理事もつとめた作家の吉行淳之介(よしゆき・じゅんのすけ)という。「やさしいことはつよいのよ」。世を変える個の善意の力を人々の心にしみわたらせ、宮城さんは旅立った。


9)注2
写真2と4はともに下記のグーグルで検索した画像である。
写真2)https://www.google.com/search?q=藤原章生
&client=firefox-b-d&source=lnms&tbm=isch&biw=1008&bih=444&dpr=1.76
写真4)https://www.google.com/search?q=伊藤秀五郎
&tbm=isch&ved=2ahUKEwizloPZuq7vAhULZN4KHaMQAc4Q2-cCegQIABAA&oq=伊藤秀五郎
&gs_lcp=CgNpbWcQAzIECAAQGFDukQVYwJgFYIiwBWgAcAB4AIABcIgBcJIBAzAuMZgBAKABAaoBC2d3cy13aXotaW1nsAEAwAEB&sclient=img&ei=jU9NYPObHovI-QajoYTwDA&bih=444&biw=1008&client=firefox-b-d

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