2016年ネパール通信2
ヒマラヤ地震博物館とヒマラヤ災害情報センター
カトマンズ到着以来ほぼ1カ月になるが、ヒマラヤが見えたのはわずか3月15日と16日の2日だけである。それも、はっきりと見えたのではない。カトマンズ大学(KU)周辺のスモッグの中に、日本隊が初登頂したマナスル峰がうっすらと見えたにすぎない(写真1)。前日の3月14日の午後に1時間ほどの雷雨があり、夕方北からの強風でネパールを覆う大気汚染のスモッグを南に押しやってくれたが、それも不十分だったようだ。カトマンズ盆地の東端の峠にある大学から見ると、盆地内部はあいかわらず厚いスモッグに覆われている。写真1 大学から見るマナスル連山(2016年3月16日午前9時11分撮影)
去年は雨が多かった。そのため空気中の汚れが落ち、写真1と同じ位置から、ほぼ同じ時期にカトマンズ大学から撮ったマナスル峰が実に良く見えた(写真2)。去年と今年との大きな違いが良く分かるでしょう。ちなみに、大学の宿舎ベランダから日の出前後に毎朝撮っていた写真を調べると、2015年3月10日~4月9日の30日間でヒマラヤが見えた日(3/10-13,3/15,3/17-20,3/28,3/31-4/9)は20日間であった。ヒマラヤが見えた日の割合を展望率と呼ぶことにすると、昨春のヒマラヤ展望率は67%だったのに、今年の2月27日~3月23日の26日間でヒマラヤが見えたのは2日のみだから、去年とほぼ同時期の今春のヒマラヤ展望率はわずか8%で、去年との違いは歴然としている。
写真2 大学から見るマナスル連山(2015年3月10日午前9時39分撮影)
去年はアラビア海からの水蒸気がインド方面にしばしば侵入し、西部ヒマラヤから中部ヒマラヤのネパールまでが雨や雪にみまわれ、大気中の汚れを落とし、ヒマラヤ展望率が高かったが、今年はインド・ヒマラヤ周辺の乾燥状態が続き、大気汚染のスモッグが滞っているため、このスモッグの層のなかにあるカトマンズ盆地などからはヒマラヤが見えない。だが、スモッグの上限高度3000m以上に登れば、ヒマラヤが見えることになる。ちょうど悪天時の太陽も、雲の上に出れば見えるのと似ていようか。
ネパールでも春は作物を植える時期で、春先の雨は“マッカイ(とうもろこし)コ(の)パニ(あめ)”と言われ、歓迎されているが、去年は連日のように午後の雷雨がつづき、地元の人々も困りはて、ヒマラヤの天気の異常さに気付き始めた時に、あの2015年ネパール地震が起こったのである。里の雨は、山の雪であるから、カトマンズ盆地の砂や粘土の湖成堆積物は水分を含み軟弱地盤化し、ランタン地域などのヒマラヤ山地は豪雪にみまわれていたところ、地震の揺れで、カトマンズなどネパール中央部の建物は砂上の楼閣となり多くの人命を奪うことになったことにくわえ、ヒマラヤではランタン村やクンブ氷河のベースキャンプなどで雪崩が発生して大惨事を引き起こしたのである。
この未曾有の経験を学び、後世に引き継ぐために、下記のように、カトマンズにヒマラヤ地震博物館を、またその支部施設としてランタン村にヒマラヤ災害情報センターを作ることが必要ではないかと考え、各方面の方々のお知恵を拝借しているところです。かつてシニアー・ボランティアとしてお世話になったJICAの清水勉所長からは「現在は道路・橋・病院・学校復旧などの緊急支援(Quick Impact Projects)が中心で手いっぱいであるが、支援活動が落ち着いてきたら博物館構想などの中・長期的課題も検討したい」と言われているが、一方カトマンズ大学でお世話になっているリジャン・バクタ・カヤスタさんからは「ネパールの日本留学生会(Japan JSPS Alumni Association, JSPS;Japan Society for the Promotion of Science)の会長をしているので会として支援するし、ランタン村のヒマラヤ災害情報センターには、展示室や集会室のほかに、研究者の宿泊施設もほしい」などと前向きな発言をいただいている。今後は、ネパールにあるいくつかの博物館や研究機関をはじめ、4月29~30日にはマナスル峰登頂60周年記念の会がカトマンズであり、日本やネパールの登山関係者が集まるので、それらの場を通じてヒマラヤ地震博物館構想を広報していきたいと考えている。
ぼくは1974年に山岳博物館構想をいだき、ネパール山岳協会のクマール・カドガ・ビクラム・シャー名誉会長(ビレンドラ元国王のお姉さんの旦那さん)に提言したことがある。その構想は30年後の2004年にやっと実現し、国際山岳博物館としてポカラに設立された。このヒマラヤ地震博物館構想の実現にそんなに長くかかったら、ぼくは優に100才を越えてしまうのであるが、そんなに長く待てない別の事情がある。それは、今も余震が間欠的に起こっていて、3月15日朝3時13分には震度3~4程度の地震を体験した。今年になってからだけでも、1月22日、2月6日、11日、22日、24日と3月15日にマグニチュード4~5程度の地震が6回も起こっている(*)のである。日本同様、プレートの境界に位置するネパールも地震国で、巨大な地震だけでも1833年、1934年と2015年に発生している。そのような巨大地震時にヒマラヤ山脈は大きく上昇すると言われている。従って、インドとアジアの両プレートが衝突し、ヒマラヤ山脈が上昇するかぎり、今後ともネパールは地震と共存していかねばならず、次の大きな地震がいつ起きてもおかしくはない状況である。その意味で、地震博物館構想はJICA流のQuick Impact Projectsのひとつにもなる資格があるであろう。さらに、この構想は自然的な特徴を生かした日本独自の支援になる、と考える。
(*) 地震情報検索[USGS版](世界の地震) http://eq.ideeile.com/u/?area_id=272
PS1 身辺諸事
カトマンズ大学キャンパスのカッコウの初鳴き日は去年とほぼ同じ3月20日(去年は3月18日)だったが、早朝鳴いただけで、日中は鳴き声をちっとも聞かない。カッコウの鳴き声は独特で、どこからでも、遠くからでも聞こえるのだが。去年は朝から夕方までキャンパスの森にいついて鳴いてくれたのだが、今年は早朝にちょっと様子を見に来て、どこかへ行っているようだ。22日などは朝から全然声を全然聞いていない。もし、カッコウが棲めないようなキャンパスの森になってしまったとしたら、現実に進行するヒマラヤを隠してしまうスモッグとともに、ネパール通信1でお伝えしたカトマンズの「黒い(暗い)印象」の材料がまた増えることになってしまう。キャンパスの森で聞こえよがしに早朝から夕方までうるさく鳴くのはカラスであるが、そのカラス王国の隆盛がカッコウを追いやっているのかもしれぬ。
PS2 人脈往来
日本の学生一行と地質巡見に来ていたゴンドワナ大陸研究所の吉田勝さんは、3月6日にカトマンズでセミナーを開催した後、ネパール中央部を南北に現地調査して3月中旬に帰国した。また、北海道大学農学部関係者が行っているカトマンズ盆地の農業調査の一環として山口淳一さんが3月下旬までサクー村周辺でのフィールドワークを行っている。さらに本日3月24日に、1970年前後からネパール中央部マナン地域で民俗調査を行っている古川宇一さんが再びマナン地域に行くためにカトマンズに到着する。
(2016年3月24日早朝、カトマンズ大学にて記す)
記
2015年ネパール地震の経験から-ヒマラヤ地震博物館構想-
伏見碩二
カトマンズ大学客員教授
1)はじめに2015年2月24日~6月9日の「ネパール2015年春」計画の主な内容は、1)カトマンズ大学の講義と2)ポカラ国際山岳博物館の展示更新だったが、講義を行っていたところ、4月25日に「2015年ネパール地震」が発生した(写真1)。そのため、大学が休校になったので、カトマンズ盆地をはじめナワコットやポカラ両地域における地震関連の現地調査も行い、住民の自然認識に関する疑問からヒマラヤ地震博物館の必要性を考えた。
写真1 カトマンズ旧王宮の地震前(下)と地震後(上)
写真2 岩屑雪崩で埋まったランタン村とランタンコーラ
2)住民の自然認識に関する3つの疑問
A)3~4月のカトマンズ雷雨・ランタン降雪の異常気象の影響について
3月後半から4月にかけてランタン地域では毎日降雪があり、放牧中のヤクがかなり死ぬ中で、「2015年ネパール地震」が発生、雪崩がランタン村を襲い(写真2)、174名が犠牲になった。住民は異常気象には気づいていたが、雪崩発生の可能性をどの程度認識していたのか?また、カトマンズでは雷雨が続き、カトマンズ盆地のように砂や粘土の湖成堆積物で覆われているところやネパール山間部のように断層活動でできた粘土層地帯では土壌水分量が大きくなり、地表が地震被害を大きくする軟弱地盤化したことに気づいていただろうか?
B)1934年と1833年の地震被害の教訓について
「2015年ネパール地震」の81年前の1934年に起こった地震はよく語られるが、さらに101年前の1833年の地震はほとんど知られていない。前者の震源地は東ネパール、後者のそれは中央ネパールである(写真3)。震源の遠い1934年の地震でも被害が出たカトマンズは、震源の近い1833年の被害はさらに大きかっただろう。地震は80年~100年毎に現れると言われているように、これらの地震被害の教訓がなぜ生かされなかったのか?
C)震度5程度で大災害になったことについて
今回の地震はカトマンズ大学で体験したが、1995年の神戸・淡路大震災時の大津で感じた震度5程度で、日本でならあまり被害が出ないと思われたが、かなりの大災害になった。そこで、カトマンズ盆地内のみならずヌワコット地域(写真4)やカトマンズ~ポカラ間のバス・ルート沿いの被害状況を現地調査した結果、大災害になった原因としては、建物自体のほかに3)と4)で述べる地盤の問題があることが示唆された。
3)JICAの地震セミナー
「2015年ネパール地震」発生から1ヶ月目の5月25日に、JICA主催の「Build Back Better Reconstruction Seminar for Nepal」が 開かれた(写真5)。タイムリーな企画で、聴衆は4百名ほどに達した。セミナーの主な趣旨は地震後のネパールのより良い復興に向けての研究会だったのだが、報告内容を聞いてみると、日本の地震災害の歴史や耐震家屋の詳細な実験的研究などが中心で、肝心の土台の軟弱地盤に関する研究発表はなかったのである。これでは、“砂上の楼閣”を建てるようなもので、ネパールの地震災害の具体的課題にはたしてどの程度役立ったのであろうか。
写真5 JICAにより開催された地震セミナー
写真6 パタンの無事の寺(AとB)と破壊された寺(C)
4)ヒマラヤ地震博物館の必要性-現地でともに学ぶ-
では、地震災害の具体的な課題解決とは何か?パタンでは、世界遺産の建造物が集中する地域で、破壊された建物と被害を受けなかったものとが共存している(写真6)。またバクタプールでも、世界遺産のストゥーパは破壊されたが、周辺の二重の塔やニャタポラ寺院の五重の塔は無事であった。2)のC)と3)で指摘したように、現地に即した課題解決に必要なことは、地震で破壊された建物と被害が少なかった建物の違いや現地の地盤の特徴との関係を調査し、民家や貴重な文化財(写真7)の保全策を明らかにすることである。さらに、住民の災害意識の向上のためには、2)で述べた疑問を解明するため、住民と研究者が協力し、カトマンズにヒマラヤ地震博物館、ランタン村にヒマラヤ災害情報センターを設立し、現地でともに学ぶことが必要だ、と考える。
写真7 スワヤンブナート寺院の破壊した仏塔