2016年3月23日水曜日

2016年ネパール通信2   ヒマラヤ地震博物館とヒマラヤ災害情報センター

2016年ネパール通信2


ヒマラヤ地震博物館とヒマラヤ災害情報センター

カトマンズ到着以来ほぼ1カ月になるが、ヒマラヤが見えたのはわずか3月15日と16日の2日だけである。それも、はっきりと見えたのではない。カトマンズ大学(KU)周辺のスモッグの中に、日本隊が初登頂したマナスル峰がうっすらと見えたにすぎない(写真1)。前日の3月14日の午後に1時間ほどの雷雨があり、夕方北からの強風でネパールを覆う大気汚染のスモッグを南に押しやってくれたが、それも不十分だったようだ。カトマンズ盆地の東端の峠にある大学から見ると、盆地内部はあいかわらず厚いスモッグに覆われている。

写真1 大学から見るマナスル連山(2016年3月16日午前9時11分撮影)

去年は雨が多かった。そのため空気中の汚れが落ち、写真1と同じ位置から、ほぼ同じ時期にカトマンズ大学から撮ったマナスル峰が実に良く見えた(写真2)。去年と今年との大きな違いが良く分かるでしょう。ちなみに、大学の宿舎ベランダから日の出前後に毎朝撮っていた写真を調べると、2015年3月10日~4月9日の30日間でヒマラヤが見えた日(3/10-13,3/15,3/17-20,3/28,3/31-4/9)は20日間であった。ヒマラヤが見えた日の割合を展望率と呼ぶことにすると、昨春のヒマラヤ展望率は67%だったのに、今年の2月27日~3月23日の26日間でヒマラヤが見えたのは2日のみだから、去年とほぼ同時期の今春のヒマラヤ展望率はわずか8%で、去年との違いは歴然としている。

写真2 大学から見るマナスル連山(2015年3月10日午前9時39分撮影)

去年はアラビア海からの水蒸気がインド方面にしばしば侵入し、西部ヒマラヤから中部ヒマラヤのネパールまでが雨や雪にみまわれ、大気中の汚れを落とし、ヒマラヤ展望率が高かったが、今年はインド・ヒマラヤ周辺の乾燥状態が続き、大気汚染のスモッグが滞っているため、このスモッグの層のなかにあるカトマンズ盆地などからはヒマラヤが見えない。だが、スモッグの上限高度3000m以上に登れば、ヒマラヤが見えることになる。ちょうど悪天時の太陽も、雲の上に出れば見えるのと似ていようか。

ネパールでも春は作物を植える時期で、春先の雨は“マッカイ(とうもろこし)コ(の)パニ(あめ)”と言われ、歓迎されているが、去年は連日のように午後の雷雨がつづき、地元の人々も困りはて、ヒマラヤの天気の異常さに気付き始めた時に、あの2015年ネパール地震が起こったのである。里の雨は、山の雪であるから、カトマンズ盆地の砂や粘土の湖成堆積物は水分を含み軟弱地盤化し、ランタン地域などのヒマラヤ山地は豪雪にみまわれていたところ、地震の揺れで、カトマンズなどネパール中央部の建物は砂上の楼閣となり多くの人命を奪うことになったことにくわえ、ヒマラヤではランタン村やクンブ氷河のベースキャンプなどで雪崩が発生して大惨事を引き起こしたのである。

この未曾有の経験を学び、後世に引き継ぐために、下記のように、カトマンズにヒマラヤ地震博物館を、またその支部施設としてランタン村にヒマラヤ災害情報センターを作ることが必要ではないかと考え、各方面の方々のお知恵を拝借しているところです。かつてシニアー・ボランティアとしてお世話になったJICAの清水勉所長からは「現在は道路・橋・病院・学校復旧などの緊急支援(Quick Impact Projects)が中心で手いっぱいであるが、支援活動が落ち着いてきたら博物館構想などの中・長期的課題も検討したい」と言われているが、一方カトマンズ大学でお世話になっているリジャン・バクタ・カヤスタさんからは「ネパールの日本留学生会(Japan JSPS Alumni Association, JSPS;Japan Society for the Promotion of Science)の会長をしているので会として支援するし、ランタン村のヒマラヤ災害情報センターには、展示室や集会室のほかに、研究者の宿泊施設もほしい」などと前向きな発言をいただいている。今後は、ネパールにあるいくつかの博物館や研究機関をはじめ、4月29~30日にはマナスル峰登頂60周年記念の会がカトマンズであり、日本やネパールの登山関係者が集まるので、それらの場を通じてヒマラヤ地震博物館構想を広報していきたいと考えている。

ぼくは1974年に山岳博物館構想をいだき、ネパール山岳協会のクマール・カドガ・ビクラム・シャー名誉会長(ビレンドラ元国王のお姉さんの旦那さん)に提言したことがある。その構想は30年後の2004年にやっと実現し、国際山岳博物館としてポカラに設立された。このヒマラヤ地震博物館構想の実現にそんなに長くかかったら、ぼくは優に100才を越えてしまうのであるが、そんなに長く待てない別の事情がある。それは、今も余震が間欠的に起こっていて、3月15日朝3時13分には震度3~4程度の地震を体験した。今年になってからだけでも、1月22日、2月6日、11日、22日、24日と3月15日にマグニチュード4~5程度の地震が6回も起こっている(*)のである。日本同様、プレートの境界に位置するネパールも地震国で、巨大な地震だけでも1833年、1934年と2015年に発生している。そのような巨大地震時にヒマラヤ山脈は大きく上昇すると言われている。従って、インドとアジアの両プレートが衝突し、ヒマラヤ山脈が上昇するかぎり、今後ともネパールは地震と共存していかねばならず、次の大きな地震がいつ起きてもおかしくはない状況である。その意味で、地震博物館構想はJICA流のQuick Impact Projectsのひとつにもなる資格があるであろう。さらに、この構想は自然的な特徴を生かした日本独自の支援になる、と考える。

(*) 地震情報検索[USGS版](世界の地震) http://eq.ideeile.com/u/?area_id=272

PS1 身辺諸事
カトマンズ大学キャンパスのカッコウの初鳴き日は去年とほぼ同じ3月20日(去年は3月18日)だったが、早朝鳴いただけで、日中は鳴き声をちっとも聞かない。カッコウの鳴き声は独特で、どこからでも、遠くからでも聞こえるのだが。去年は朝から夕方までキャンパスの森にいついて鳴いてくれたのだが、今年は早朝にちょっと様子を見に来て、どこかへ行っているようだ。22日などは朝から全然声を全然聞いていない。もし、カッコウが棲めないようなキャンパスの森になってしまったとしたら、現実に進行するヒマラヤを隠してしまうスモッグとともに、ネパール通信1でお伝えしたカトマンズの「黒い(暗い)印象」の材料がまた増えることになってしまう。キャンパスの森で聞こえよがしに早朝から夕方までうるさく鳴くのはカラスであるが、そのカラス王国の隆盛がカッコウを追いやっているのかもしれぬ。

PS2  人脈往来
日本の学生一行と地質巡見に来ていたゴンドワナ大陸研究所の吉田勝さんは、3月6日にカトマンズでセミナーを開催した後、ネパール中央部を南北に現地調査して3月中旬に帰国した。また、北海道大学農学部関係者が行っているカトマンズ盆地の農業調査の一環として山口淳一さんが3月下旬までサクー村周辺でのフィールドワークを行っている。さらに本日3月24日に、1970年前後からネパール中央部マナン地域で民俗調査を行っている古川宇一さんが再びマナン地域に行くためにカトマンズに到着する。

(2016年3月24日早朝、カトマンズ大学にて記す)



2015年ネパール地震の経験から-ヒマラヤ地震博物館構想-
伏見碩二
カトマンズ大学客員教授
1)はじめに
2015年2月24日~6月9日の「ネパール2015年春」計画の主な内容は、1)カトマンズ大学の講義と2)ポカラ国際山岳博物館の展示更新だったが、講義を行っていたところ、4月25日に「2015年ネパール地震」が発生した(写真1)。そのため、大学が休校になったので、カトマンズ盆地をはじめナワコットやポカラ両地域における地震関連の現地調査も行い、住民の自然認識に関する疑問からヒマラヤ地震博物館の必要性を考えた。

写真1 カトマンズ旧王宮の地震前(下)と地震後(上)


写真2 岩屑雪崩で埋まったランタン村とランタンコーラ


2)住民の自然認識に関する3つの疑問
A)3~4月のカトマンズ雷雨・ランタン降雪の異常気象の影響について
3月後半から4月にかけてランタン地域では毎日降雪があり、放牧中のヤクがかなり死ぬ中で、「2015年ネパール地震」が発生、雪崩がランタン村を襲い(写真2)、174名が犠牲になった。住民は異常気象には気づいていたが、雪崩発生の可能性をどの程度認識していたのか?また、カトマンズでは雷雨が続き、カトマンズ盆地のように砂や粘土の湖成堆積物で覆われているところやネパール山間部のように断層活動でできた粘土層地帯では土壌水分量が大きくなり、地表が地震被害を大きくする軟弱地盤化したことに気づいていただろうか?
 
B)1934年と1833年の地震被害の教訓について
「2015年ネパール地震」の81年前の1934年に起こった地震はよく語られるが、さらに101年前の1833年の地震はほとんど知られていない。前者の震源地は東ネパール、後者のそれは中央ネパールである(写真3)。震源の遠い1934年の地震でも被害が出たカトマンズは、震源の近い1833年の被害はさらに大きかっただろう。地震は80年~100年毎に現れると言われているように、これらの地震被害の教訓がなぜ生かされなかったのか?

写真3 ネパールの1833/1934/2015年の震源地分布  


写真4  ヌワコット地域リク川周辺の破壊された民家

C)震度5程度で大災害になったことについて
今回の地震はカトマンズ大学で体験したが、1995年の神戸・淡路大震災時の大津で感じた震度5程度で、日本でならあまり被害が出ないと思われたが、かなりの大災害になった。そこで、カトマンズ盆地内のみならずヌワコット地域(写真4)やカトマンズ~ポカラ間のバス・ルート沿いの被害状況を現地調査した結果、大災害になった原因としては、建物自体のほかに3)と4)で述べる地盤の問題があることが示唆された。

3)JICAの地震セミナー
「2015年ネパール地震」発生から1ヶ月目の5月25日に、JICA主催の「Build Back Better Reconstruction Seminar for  Nepal」が 開かれた(写真5)。タイムリーな企画で、聴衆は4百名ほどに達した。セミナーの主な趣旨は地震後のネパールのより良い復興に向けての研究会だったのだが、報告内容を聞いてみると、日本の地震災害の歴史や耐震家屋の詳細な実験的研究などが中心で、肝心の土台の軟弱地盤に関する研究発表はなかったのである。これでは、“砂上の楼閣”を建てるようなもので、ネパールの地震災害の具体的課題にはたしてどの程度役立ったのであろうか。
  
写真5  JICAにより開催された地震セミナー 


写真6 パタンの無事の寺(AとB)と破壊された寺(C)


4)ヒマラヤ地震博物館の必要性-現地でともに学ぶ-
では、地震災害の具体的な課題解決とは何か?パタンでは、世界遺産の建造物が集中する地域で、破壊された建物と被害を受けなかったものとが共存している(写真6)。またバクタプールでも、世界遺産のストゥーパは破壊されたが、周辺の二重の塔やニャタポラ寺院の五重の塔は無事であった。2)のC)と3)で指摘したように、現地に即した課題解決に必要なことは、地震で破壊された建物と被害が少なかった建物の違いや現地の地盤の特徴との関係を調査し、民家や貴重な文化財(写真7)の保全策を明らかにすることである。さらに、住民の災害意識の向上のためには、2)で述べた疑問を解明するため、住民と研究者が協力し、カトマンズにヒマラヤ地震博物館、ランタン村にヒマラヤ災害情報センターを設立し、現地でともに学ぶことが必要だ、と考える。

写真7 スワヤンブナート寺院の破壊した仏塔


2016年3月1日火曜日

2016年ネパール通信1  カトマンズの第1印象は、黒、だった。



2016年ネパール通信


カトマンズの第1印象は、黒、だった。
2016226日夜9時、クアラルンプールからのエアーアジア機は明かりが乏しい「黒いカトマンズ」に着いた(写真1)。

写真1 カトマンズ空港着陸直前のボーダナート周辺を通る車のライトが流れる。

カトマンズを暗くする物理的要因
カトマンズが、黒く、暗い物理的な原因は、1日に13時間もつづく停電である。カトマンズ盆地内では、場所と日によって停電時間が違うが、宿のある観光の中心地ターメル周辺の31日の停電スケジュールを見ると、午前3時から8時までにくわえて、午前11時から午後7時まで停電だ。つまり、電気がくるのは、午前8時から11時と午後7時から午前3時までの111時間なので、パソコンなどの電気を使う仕事は午前中3時間、夜7時から真夜中までの8時間しかないのである。だから、電気を電池にためる施設がないかぎり、仕事をするには夜の8時間の通電時間にあわせる必要がある。いわば、電気に操られる生活にならされる。まさに、日本ではとっくに忘れてしまった電気のありがたみが分かる生活になる。ネパールの電気のほとんどは水力発電だから、乾期の今は河川水量が少なく、発電量に限りがある。そこで、日本では考えられないような1日に13時間もの停電になるのだが、雨期が来る6月までは、小さくなった氷河からの融氷量が少ないので、河川水量はさらに減るため停電時間のさらなる延長を覚悟しなければならない。そのことが、まず、カトマンズを物理的に暗くする要因である。ヒマラヤを起源とするアジア南部の大河川流域の人々にとって、今世紀後半の重要な環境問題になるであろう。
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/04/blog-post_17.html

カトマンズを暗くする精神的な原因
また、相変わらずの大気・水・ゴミ汚染に苦しむカトマンズの人々を暗くする次のような精神的な原因もあるようだ。
昨年のネパール通信でお伝えしたように、2015425日午前1153分、カトマンズなどのネパール中央部は未曾有の大地震に見舞われた*。それから10カ月たつが、いまだ街には廃墟が散在する(写真2)。地震災害からの復興が、日本の福島などと同様、遅々として進んでいないのである。ヒマラヤをかかえるネパールはインドからの復興支援物資に頼っているが、昨秋の新憲法公布に反対する南部地域の住民にくみするインドが国境を閉鎖したため、石油をはじめとした物資が不足しているのである。最近では国境閉鎖が解かれたとはいえ、未だに長蛇の車の列がガソリン・スタンドに並んでいる(写真3)。ガソリン1リットルが約110円、日本と同じほどである。闇値では、その数倍もする時があるという。日本の平均所得の約10分の1のネパール人が日本と同じガソリン代を払わされている。しかも、必要物資を手に入れるのに延々と待たされる羽目になり、いかに辛抱強いネパール人であっても疲れはて、しかも香港型インフルエンザにかかっている人が多いことも、カトマンズ環境を精神的に暗くしている原因になっているようにみえるのである。
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/04/blog-post_29.html

 写真2 ダルバールスクエアー旧王宮周辺の廃墟。

写真3 バスやトラックなどの車両がガソリンを求めて並ぶ(背景はバクタプールの松並木)。

エアーアジア機の乗り継ぎ便事情
最近では、格安航空としてエアーアジア機は日本各地にも登場している。前便でお伝えした*が、今回搭乗したエアーアジア機のカトマンズ便にもネパール人の若い出稼ぎ労働者がたくさん乗っていた。エアーバスA330型機の300名ほどの乗客を見渡したところ、ネパール人出稼ぎ風の人たちが約9割も占めていた(写真4)。エアーアジア機のネパール便はネパールの出稼ぎ人のための飛行機の感があり、東南アジアをはじめ中東・西欧などへの出稼ぎが多いというのもうなづける。疲れはてた上記の現地住民にくらべて、出稼ぎの若者は一見元気そうには見えるのだが、その現地住民との格差がますます出稼ぎ国家としてのネパールを性格づけていくのだろう。出稼ぎの彼らが仕送りすることが、ネパール経済にとって必要だ、ともいわれる。だから、けっして裕福でないネパール人が寄宿舎学校へ子弟を入学させるほど教育資金を支出するのは、各家庭の将来生計のための出稼ぎ人を養成する投資になっているのかもしれない。
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2016/02/2016.html

 写真4 エアーアジアの飛行機に乗っているネパール人出稼ぎ労働者。

従来の日本からのエアーアジア機ではクアラルンプールでのカトマンズ乗り換え便は数時間から長くとも半日待てば乗れたのであるが、今回はクアラルンプール到着の1時間前にカトマンズ便が出てしまうという日本からの乗り継ぎ客にとっての不親切さ・不便さで、結局次の日まで23時間待たされたのである。そのように、クアラルンプールからカトマンズへの乗り継ぎ便事情が従来より悪くなったことを経験したのであるが、そもそも、エアーアジア機の日本からの便にはネパール人が少ないことが示すように、格安航空エアーアジア社としては東南アジアをはじめ中東・西欧からの乗り継ぎ事情を優遇していること反映していると理解され、現在は日本への依存度はまだ小さいのかもしれない。東アジアの国でネパールへの直行便をもっているのは中国や韓国ぐらいで、日本はかなり前に定期直行便は廃止してしまっている。だが最近、日本にはネパール・レストランなどがたくさんできており、また日本の難民申請者にはかなりのネパール人が(本来の難民かどうか疑問だが)いるともいわれるように、ネパールから日本への出稼ぎ人は決して少なくないので、将来は今回経験した乗り継ぎ便事情の不便さが(期待をこめて言うのであるが)解消されるかもしれない。


以上のような「黒いカトマンズ」の印象をもって今回の旅が始まったのであるが、カトマンズ空港についてみると、荷物受取場はいつも以上に混んでいて、荷物が送られてくるベルト・コンベイヤーの周りは黒山の人だかりで、荷物が見えないほどであった(写真5)。これでは、自分の荷物が安全かどうか、実際に手に取るまで心配の種が尽きず、ネパールへの第1印象をますます暗くするものに他ならない。

 写真5 カトマンズ空港荷物受取場の黒山の乗客。

最後ですが、カトマンズの東の峠ドドキヘルにあるカトマンズ大学のキャンパスでは、昨年はカッコウが朝から夕方まで毎日鳴いてくれていたのである*が、今朝はその歌声もなく、聞こえてくるのはカラスのだみ声的な鳴き音ばかりである。はたして、カッコウさんは今年も来て、鳴いてくれるのだろうか。
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/06/blog-post_8.html

 上記のように、ネパール通信1では、「黒いカトマンズ」に焦点をあたえた感じになってしまいましたが、カトマンズ到着早々の2日間にたくさんの懐かしい下記の友人たち会い、心が明るくなったところで、3日目にカトマンズ大学にもどったのでのであるが、そのことは次から順次お知らせしたいと思っています。


3月27日午前11時 ハクパさん(1070年代の氷河調査隊からの友人で、建設会社のカトマンズ支店長)
3月27日午後4時 ペンバさんとツェリンさん(貞兼さんからの預かり物を届けたランタン村の友人)
3月27日午後6時 小川さん(ネパールJICAの同期生、現在はNGOで村落開発を行う)
3月28日午前9時 ケシャブさんとラメッシュさん(松村さんの支援金を届けた自然史博物館の前・現館長)
3月28日午後1時 リジャンさん(カトマンズ大学の講義に呼んでくれた方、セミナーで地震課題を報告した)

  最後ですが、カトマンズの東の峠ドドキヘルにあるカトマンズ大学のキャンパスでは、昨年はカッコウが朝から夕方まで毎日鳴いてくれていたのである*が、今朝はその歌声もなく、聞こえてくるのはカラスのだみ声的な鳴き音ばかりである。はたして、心を明るくしてくれるカッコウは今年も鳴いてくれるのだろうか。
*http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/06/blog-post_8.html

  それでは、皆さまも、なにとぞご自愛ください。ナマステ!

(2016年3月1日、カトマンズ大学にて記す)