2025年3月1日土曜日

佐伯富男さんの実践的会話術

佐伯富男さんの実践的会話術(注)

1)    はじめに
 「マッタ マッタ ズィス ピスコ パニ ボイル アフター チャウチャウ ミックス ボイル ベター」。
 これが、1970年春の三浦雄一郎氏のエベレスト・スキー探検隊で、エベレスト村長役の佐伯さん(写真1の左)がネパール人コックと交わした日本語・英語・ネパール語交じりの会話である。意味は、「待った、待った、この高圧釜に水をわかし、あとで乾うどんを入れて煮ると良いのだ」(資料1;254ページ)とのことである。佐伯さんは上半身を前かがみにして、体をゆすりながら、相手の目をやや上目遣いに見やりながら話す。すると、ネパール人コックが「リョウカイ リョウカイ」と日本語風の口調でうなずく。動詞が会話の最後に来るなどの文法が似ているネパール人には佐伯さんの実践的会話術が分かりやすかったのかもしれぬ。現在では日本以上に英語が普及しているシェルパ社会だが、1970年当時の佐伯さんは「英語を話せるのは少数だけだし、日本語と英語を並べたてるだけのことである」(資料2;275ページ)と語っているのだが、多国籍の単語と身振り手振りのジェスチャーを駆使する個性的な佐伯さんの会話術が生まれたのは、次のような経歴に見られる多彩な体験と無縁ではあるまい。
(注)
 これは、「サケ・サーブの実践的会話術」(資料2)の改訂版で、北大山岳部100年通史に掲載予定のコラム「人物論」に投稿した「佐伯富男の会話術」の原稿に加筆した。なお、これまでの回想録およびメモワールとしてブログで報告した方々は次の通りである。
五百澤智也さん
https://glacierworld.net/travel/recollection/momoyama-tomoya/
井上治郎さん
https://glacierworld.net/travel/recollection/inoue-jirou/
宮地隆二さん
https://glacierworld.net/travel/recollection/miyaji-ryuji/
樋口明生さん
https://glacierworld.net/travel/recollection/higuchi-akio/
渡辺真之さん
https://glacierworld.net/travel/recollection/watanabe-masayuki/
瀬古勝基さん
https://glacierworld.net/travel/recollection/seko-katuki/
米道裕彌さん
https://glacierworld.net/travel/recollection/yonemichi-yuya/
小須田達治さん
https://glacierworld.net/travel/recollection/memorundam-kosuda-tatsuji/
ネパール・ヒマラヤ氷河調査隊(GEN)50周年の思い出 ―そうか、あれからもう、半世紀たつのか!―
https://glacierworld.net/travel/recollection/memory-of-gen-01/
安藤さんの事業集大成は「国際山岳博物館」
https://glacierworld.net/travel/aach-memorandum/aach10-andoh/
藤原章生さんと原真さん
https://glacierworld.net/travel/aach-memorandum/aach-memorandum04/
ヒマラヤの木崎さんのことなどー思いつくままにー
https://glacierworld.net/travel/aach-memorandum/aach-kizaki/
木崎さんの思い出;二題
https://glacierworld.net/travel/aach-memorandum/aach-momorundam-13/
海幸山幸の大森さんを偲ぶ
https://glacierworld.net/travel/aach-memorandum/aach-momorundam-12/
ポカラよ、また
https://glacierworld.net/travel/nepal-travel/nepal2014/nepal2014_10pokhara2/
資料1
エベレスト村長日記
佐伯富男さん著
あかね書房版
1972年6月15日
資料2
サケ・サーブの実践的会話術
芦峅の自然児・トンコー佐伯富男追悼集―
講談社出版サービスセンター
1995年4月20日

   
写真1 (左)スキー隊のベースキャンプの佐伯富男さん(中央手前)と三浦雄一郎氏(中央奥)
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写真1 (右)シェルパの人たちが遭難したクンブ氷河のアイスフォール
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2) 経歴など
 1929年1月25日生まれの佐伯さんは1953年に北海道大学農学部林学科を卒業し、1956年の南極観測隊第1次越冬隊員になった。また、1965年の北大パタゴニア調査隊に参加し、1967年には文部省登山研修所に勤務する。そして、1969~70年のエベレスト・スキー探検隊に加わり、1971年には台湾の玉山登山隊長、1972年の通産省インドネシア地下資源調査団副団長、そして1972〜79年にわたるアラスカ少年少女探検学校の副校長を務めた。1982年にはカナダのエルズミア島での氷河のボーリング調査を行うとともに、立山のライチョウの冬の生態観察の調査隊長や富山雷鳥研究会長として尽力した後、立山専業ガイドとなり、立山連峰の自然保護に邁進する。その功績が認められて、1981年に環境庁自然公園功労賞、1985年の野生鳥類保護功労賞、1990年には勲五等瑞宝章を受賞した佐伯さんは1990年6月11日に永眠する。享年61歳!
 以上のような、数々のエクスペディションと自然保護活動に加えて、8年間にもおよぶアラスカ少年少女探検学校のなどの経験によって、佐伯富男さんの会話術は磨かれてきた、と思われる。なにせ、1982年のカナダのエルズミア島での氷河のボーリング調査の時には、佐伯さんは日本語で、カナダ人の案内役は英語で話し合っても、お互いに意思が通じ合っていたそうだ(資料2;247ページ)。驚くべき実践的会話術と言わねばなるまい。佐伯さんは「トンコ」の愛称で親しまれていたが、ネパール人には「佐伯(サエキ)」が発音しにくいとみえて、「サエキ」が「サケ」になり、スキー隊のシェルパの人たちからは親しみもこめて、名実ともに「サケ(酒)・サーブ(旦那)」と呼ばれていた。「スキー隊の中では最年長とはいうものの、酒を飲ませれば、一番若い男」(資料1の151ページ)と記されているとともに、どのように計算したのかは聞かなかったが、四畳半の部屋一杯ほどの酒を飲んだと語っていたように、佐伯さんの人生には酒がつきものであったようだ。
 だからと言うわけでもないが、スキー隊のエベレスト村長の佐伯さんの居場所には、日本の三大新聞社であるスキー隊を支援していた読売新聞社やエベレスト登山隊の毎日新聞社、さらには原真さんのマカルー峰学術遠征隊を後援していた朝日新聞社の記者までもが日夜たむろし、情報交換をしていたのも佐伯さんの人徳によって築かれてきた日本の山での人間関係がなせる業であったことは間違いない。思い返せば、日本の山岳活動の歴史から見ても、1970年はエベレスト峰登山隊とスキー隊にマカルー峰登山隊の3隊が接近した地域で活動するという稀有な年であったと思う。
 スキー隊のシェルパ6人が危険なアイスフォール(写真1の右)で亡くなった時は、心配してベース・キャンプに上って来た家族たちを佐伯さんの実践的会話術でなだめてくれていた献身的な姿は忘れがたい。さらに、佐伯さんから言いづかって、村長さんお手製の餃子を担いでアイスフォールをこわごわと往復してキャンプ1(写真2の左)まで届けて、喜ばれたことも忘れがたい。その時のことを、佐伯さんは「ダンボール一杯のぎょうざがアイスフォールを超えてキャンプをリレーされていった。そして夜の無線で『ぎょうざありがとう』との連絡があった」(資料1;303ページ)と記している。佐伯さんの顔には笑みがこぼれていたことであろう。

 
写真2 (左) キャンプ1と背景はプモリ峰(7165m)
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写真2 (右) ナムチェバザールで出会ったヒラリーさん一家(左は筆者)
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3) 回想
 振り返ってみると、スキー隊の輸送係が報道班とともに日本を出発した1970年2月22日は佐伯さんの実父の葬式だったが、「故郷へ帰っても父親は生き返ることもないと考え、電報で深く詫びて、予定通り出発することにした」(資料1;165ページ)と記しているように、佐伯さんのスキー隊にかける思いを感じるのだが、そこには「考えてみれば私は親不孝の連続だったかもしれない」とも述べており、佐伯さんの複雑な心境がうかがわれる。
 スキー隊の映画班の隊員が、汚いズボンをはいたキッチン・ボーイを引きずり出し、殴った事件(資料1;301ページ)が起こった時のことだ。シェルパ族では殴られるのは罪人だけ、その他は両親に殴られる時だけだ。すべての隊員の中で殴っていいのは佐伯さんだけである、とキッチン・ボーイは語っていた。その際、佐伯さんは「現地の人にはどんなことがあっても手を出すものではなく、何とかだましながら、ユーモアとともにその世界に飛び込んで人々を使うことこそ肝心なのではないだろうか」と述べている。
 スキー隊のキャラバン途中のナムチェ・バザールでは、クンデ村の病院へ向かうエベレスト初登頂者のヒラリーさん一家(写真2の右)に偶然お目にかかることができ、クンブ地域に学校や病院、はては飛行場などの建設計画に携わっていたエベレスト登頂後の援助活動の内容を教えていただいた。帰国後、ヒラリーさんの住所が分からなかったので、Sir Edmund Hillary, New Zealandの宛名のみで、前述の写真を添えた礼状を出したら、しばらくして、そのヒラリーさんから返事をいただき、感激したのも懐かしい思い出になっている。
 個人的なことだが、1970年春のエベレスト・スキー探検隊終了後、現地に1年ほど残り、氷河調査を続けた際、隊の余った食料を佐伯さんから分けていただいたことにはまず感謝を申し上げたい。また、1974~2009年には、芦峅寺の「佐伯富男の店」に北大山の会関西支部のスペースを作っていただき、スキーの会などで会員の親睦をはかる機会を与えてくれたことにも大いに敬意を表する。
 三浦雄一郎氏は佐伯さんについて、「ぼくのエベレストのスキー滑降では、べースキャンプの村長をやってもらった。俺は日本のシェルパだと言いながらネパールのシェルパ達と、相変わらず酒をくみ交わしながら、すっかりシェルパの仲間、親玉になってしまっていた。ぼく達が、子供達を集めて探検ごっこをやろう、と計画したとき、まっさきにトンコを村長にお願いした。アラスカやカナダまで行ったりした。…そしてキャンプのタキ火をかこんでの山の話、世界の話を子供だけじゃない大人までもが引きこまれて、夢のような別世界、大自然の驚異の世界を聞きながら時を忘れる。トンコこそ自然の語り部、二十世紀の最後の山男なのだ」(資料2;196ページ)と述べている。
 佐伯富男さんの長男、高男氏は「芦峅小学校とクムジュンスクールを友好姉妹校にしようという話が、父を中心に進められた。お互いに山岳ガイド村としての共通性があり、エベレストと立山を結び、子供たちに大きな夢を与えようと思っていました。私は父のかわりにクムジュンを訪れ、エベレストが見える丘に石でケルンを建て、父の骨を納めてきました。父は芦峅とクムジュンとで、ずっと見守ってくれていると思います」(資料2;359ページ)と、さらに、佐伯高男氏は「1990年6月11日夕方、父は前日からの意識が戻らぬまま、私たち家族、友人らに見守られながら息を引き取りました。・・・2年前に父は半年余り入院する闘病生活を送り、大好きな酒やタバコをやめた。芦峅一の酒飲みの父がウーロン茶しか飲まない。いつも口ぐせに、『酒飲めんようになったら、おら終わりよ』といっていた父がその後バッタリやめた。できればもう一度、おいしい酒を飲ませてやりたかった」と記している。
 富山雷鳥研究会長や立山の自然を守る会の理事であった佐伯さんは死の1年前に「これからの余生を地形の変化に富み、季節の移り変わりに敏感な立山の美しい自然を守り、訪れる登山者の良き相談相手になって過ごそうと思っています。1989年6月吉日」(資料2;283ページ)と書き記しています。はたして、立山の自然保護に尽くしてきた佐伯さんがライチョウと対面した時、どのような実践的会話術を使うのだろうか、と想像したくもなる。「シェルパ族では殴られるのは罪人だけ、その他は両親と佐伯さんだけである」(資料2;277ページ)とキッチン・ボーイが語っていたように、佐伯さんはシェルパの人たちの家族の一員として暖かく迎え入れられ、彼らの心の中で「サケ・サーブ」として語りつがれていくことであろう。

4) 追記
 「立山の山岳ガイドの佐伯富男さんの追悼文を500字程度でまとめてください」とチャットGPTとマイクロソフトに尋ねたら、下記の回答があったので、参考のために記しておく。
 A)のチャットGPTの回答は全般的な印象として、文章としては纏まっているのだが、聞こえの良さそうな言葉を駆使して、「立山の山岳ガイド」全員の誰にも当てはまりそうな内容だと感じた。つまり、佐伯さんの具体的なエピソードにふれていないので、個性的な佐伯さんの人物像が感じられないのである。一方、B)のマイクロソフトの回答は佐伯さんのユニークな人柄がしのばれる回答になっていると感じた。と言うのは、資料の佐伯富男追悼集「芦倉の自然児・トンコ」を提示して、具体的なキーワードである北海道大学農学部卒業、南極1次越冬隊、剱沢小屋、「トンコ」の愛称、剱岳での捜索活動などをあげて佐伯さんの個性的な人物像を明らかにしているからである。

A)    チャットGPTの回答(https://chatgpt.com/)
佐伯富男氏を偲んで
 立山の厳しくも美しい自然を愛し、その魅力を多くの人々に伝え続けた山岳ガイド・佐伯富男氏がご逝去されました。佐伯氏は長年にわたり、登山者の安全を第一に考えながら、立山の山々を案内し、多くの人々にその素晴らしさを体験させてくださいました。
 四季折々に変化する立山の姿を熟知し、時には厳しい自然のなかで登山者を守り抜く姿勢は、多くの登山愛好家や後進のガイドたちに大きな影響を与えました。彼の的確な判断と豊富な経験に支えられ、多くの登山者が安心して山を楽しむことができたことは言うまでもありません。
 また、佐伯氏は単なるガイドにとどまらず、立山の自然保護にも尽力されました。山の美しさを次世代へと引き継ぐため、環境保全の重要性を説き続けたその姿勢は、今後も私たちの心に深く刻まれることでしょう。
 その温かな笑顔と確かな足取りを忘れることはありません。佐伯富男氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
B)    マイクロソフトの回答(https://gemini.google.com/app)
 佐伯富男さんは、立山の山岳ガイドとして多くの登山者に愛され、その生涯を山と共に過ごしました。彼は北海道大学農学部を卒業し、南極1次越冬隊の一員としても活躍しました(1)。その後、立山の剱沢小屋の小屋主として、多くの登山者を安全に導きました。
 佐伯さんは「トンコ」の愛称で親しまれ、その人柄は多くの人々に愛されました。彼の話には常に説得力があり、山の知識と経験に裏打ちされたものでした(1)。彼は自らを飾ることなく、常に謙虚でありながらも多弁で、その言葉には深い洞察がありました。
 彼の南極での経験や、剱岳での捜索活動など、多くの困難を乗り越えてきた彼の姿は、多くの人々に勇気と希望を与えました(1)。彼の死は多くの人々にとって大きな損失であり、その存在は今もなお多くの人々の心に残っています。
 佐伯富男さんの追悼文を通じて、彼の偉大な功績と人柄を改めて思い起こし、その遺志を継いでいくことが、私たちにとっての使命であると感じます。彼の魂が安らかに眠ることを心より祈ります。
資料(1) 佐伯富男追悼集「芦倉の自然児・トンコ」 

 「マイクロソフトの質問にたいする回答は、参考文献を調べて具体的な発想に重きをおくもので他の生成AIにはみられなかった」(資料3)、また「マイクロソフトは参考文献を表示していることで信頼感を高めているので、サイエンス関連の報告に利用できるのではないか」(資料4)との印象を今回のチャットGPTとマイクロソフトの回答内容の違いでも感じることができた。
資料3
生成AIの特徴と問題点
https://glacierworld.net/travel/aach-memorandum/aach-memorundam16/
資料4
生成AIの特徴と問題点(2)-「池上彰とは何者か」本人がチャットGPTに聞いてみた-
https://glacierworld.net/home/issue-of-chatgpt2-ikegami/