2015年5月28日木曜日

2015年ネパール春調査(9) 2015ネパール地震(4) ヌワコット王宮へ

2015年ネパール春調査(9)

2015ネパール地震(4)

ヌワコット王宮へ



1)はじめに


  名古屋大学名誉教授の樋口敬二先生は、ネパールの氷河調査を行っていた40年ほど前にヌワコットを訪れ、歴史的・文化的に貴重なパゴタ(二重の塔)の絵を描かれている(写真1上)。このヌワコット地域は今回の2015年ネパール地震で大きな被害がでたゴルカ地域とシンドバルチョーク地域の中間にあり、やはりかなりの被害が出ていることが報告されているので、地元の新聞*にも文化財保護の観点から、被害の実態が報告された(写真1下)。その情報を伝えたところ、樋口先生から「更に情報を知りたいと思っています」とのメイルがきたことにくわえて、ヌワコットのあるトリスリ・バザール周辺は、かつてランタン・ヒマールの調査を行った時に何回か通った地域でもあるので、その地域が今回の地震でかなりん被害が出ているとのことから、ぜひとも見ておきたいと思い、5月26日に現地調査を行った。

*Nuwakot palace ravaged
Posted on: 2015-05-10 07:48
http://www.ekantipur.com/2015/05/10/national/nuwakot-palace-ravaged/405049.html

写真1 樋口先生の写真とスケッチ(上)、地震後の新聞の写真(下)。

  5月26日の道順(写真2)は、カトマンズ大学(TU)を朝7時に出発し、まずカトマンズに出て、そこを起点に反時計回りで、往路はシヴァプリ峠をへて、トリスリ川支流のリク川沿いにヌワコットヘ、復路はトリスリ川沿いに下り、グルチからはポカラからの街道沿いにカトマンズへ戻り、カトマンズ大学には夕方7時半にたどり着いた。

   従来はルート図中央に茶色で示されるカカニ峠越え(写真2)の道がヌワコットへの街道であったが、地震後、道路状況が悪くなったため、新しいシヴァプリ峠を越えるルートを取った。しかし、この道もかなりの悪路であった。復路として、距離の短い往路を取らなかったのは道路状況が悪いためで、三角形の二辺を通るような遠距離ではあったが、道が良いため、ポカラ街道を走ってきた。やはり、前半の悪路がたたり、ヌワコット王宮からの帰路、トリスリ川沿いの街道にでたとたんにパンクし、タイヤ交換をするはめになった。そのパンクしたタイヤであるが、ポカラ街道にでると、パンク修理の掘っ立て小屋が並んでおり、150ルピー(180円ほど)で簡単に直してくれた。時計・靴・傘や服などをはじめとしたネパールの修理文化には今さらながら脱帽、恐れ入りました。

写真2 水色のルートのようにカトマンズから反時計回りでヌワコット巡りをした(赤の矢印は、カトマンズ盆地の大気汚染状態を観察した地点と方向;写真16参照)。

2) カトマンズからヌワコット


写真3 地震で壊れたバクタプール~カトマンズ・ハイウェイ(コテショワール付近)。

  バクタプール~カトマンズ間の日本が援助したハイウェイは立派なものであるが、カトマンズ空港に近いコテショワール付近で、地震によって落差1m以上の陥没した所ができており、「注意」の看板がたくさん立っている(写真3)。

  リング・ロードを離れ、シヴァプリ峠への登りにかかるトッカ地区には大規模な住宅開発が行われ、高層アパート群(写真4左上)がある。遠くからではアパートそのものの被害状況は不明だが、その周辺地域の道路沿いの比較的新しい建物(写真4右上)や伝統的な日干し煉瓦の民家はかなりの被害が出ている(写真4)。

写真4 カトマンズ郊外の新興住宅地と破壊された周辺の旧式住宅。

写真5 シヴァプリ峠の崖崩れ道、自動車事故、破壊された旧式住宅。

  シヴァプリ峠への道沿いには崖崩れ箇所が多く、道幅の狭いところで交通事故が発生した(写真5上)。峠の道沿いの民家も、日干し煉瓦や石積みの壁の建物は著しく崩れていた(写真5下)。

写真6 リク川周辺のレストランで昼食。

  道路状況の悪い、曲がりくねったシヴァプリ峠からの道がトリスリ川支流のリク川(Likhu Khola)に到達したドバン・パティで、美味しい豆の炒め物、ゆで卵と小魚の唐揚げで昼食(写真6上)をとる。このレストランの中壁にも大きな亀裂ができていた(写真6左下)。そして、衛生的とは言えないトイレ(写真6右下)で用を足す。

写真7 リク川周辺の破壊された住宅(1)。

  リク川周辺のドバン・パティからディクレ・バザールまでの河川堆積物上に建てられた石積み民家は軒並みに倒壊し、石壁が激しく損壊したため、壁の石が積み重なり、元の家の形を想像することもできない石の墓標のようになっていた(写真7)。これまでネパールで見てきた被害地域でも最も地震の影響が著しく現れている地域だ。河川堆積物は固まっていない砂や礫で構成されているので、雨が多かった4月の天候では河川堆積物中の水分が増え、軟弱地盤になったため、4月25日の地震で激しく揺れたことであろう。かろうじて残っている家屋も、壁や窓が崩壊し、何と言ったらよいのか、とにかく、めちゃくちゃ、だ(写真7.8)。その荒廃さにまったく言葉もでず、ただ唖然とするばかりであった。

写真8 リク川周辺の破壊された住宅(2)。

  ただ救いは子供たちであった。水浴びする楽しそうな声を聞くと、地震のすさまじい状況を一瞬忘れさせてくれた(写真9左上)。だが、大人たちといえば、かろうじて残された家影や休み場の木陰で、今も続く余震に怯えながら、ひながお互いに慰めあうことしかできないのであろう(写真9右上と下)。

写真9 リク川周辺の被災住民。

写真10 リク川周辺の破壊された住宅(3)と崖崩れ修理の道路工事。

  リク川のディクレ・バザール周辺の集落に入ると、道の両側の家々は軒並み大きな被害を受けていた。もしかりに、午後の積雲の発達とともに起こるであろうかなりの地上風が吹き、埃や塵が舞えば、あたかも黒澤明監督の「用心棒」の荒ぶれた街角風景のようだ(写真10上、11上)。ある家など、骨組みがむき出しで、骸骨の家を見るようだった(写真10左下)。現在も、崖崩れ箇所の補修工事が続き(写真10右下)、道路が開通するまでの1j時間ほど、待たなければならなかった(写真10右下)。リク川流域から本流のトリスリ川沿いにでたところのバッタールの集落も大きな被害を受けており、やっと倒壊家屋の修復工事が始まったところだった(写真11下)。

写真11 リク川周辺の破壊された住宅(4)。

3) ヌワコットで


写真12 ヌワコット王宮の破壊状況(1)。

  カトマンズ大学を出て6時間半かかって、ようやくヌワコット遺跡にたどり着くことができた。さっそく、樋口先生の絵の写真を手がかりに、スケッチをされた場所を特定し、ほぼ同じアングルで写真を撮っていると、地元の女性2人がにこやかな笑みを浮かべて通り過ぎていった(写真12上)。道中出会った水浴びする子供たちの楽しげな声とともに、笑みを浮かべる女性たちを見て、地震による心の悲壮感が一瞬救われる気がしたものだが、現実は依然として厳しく、ヌワコット遺跡の復興は今やっと手についたところ(写真12下)で、老人たちは休み場に座り、変わりはてた風景を眺めるばかりである(写真12左下)。樋口先生が描いた背景の建物(マッラ・ガンダル;往時の軍人の宿舎)は上の部分の損壊が激しいためか、修復のために3階以上が取り払われ、2階建てになっていた。

  ヌワコット遺跡周辺の民家に立ち寄ると、住民が樋口先生の絵の写真を手に取り、描かれた建物を指さしなから地震前の当時を語ってくれるのであった(写真13左上)。ヌワコット遺跡から少し離れて見ると、樋口先生が描かれたパゴタ(二重の塔)の西側の大きな建物、これがヌワコット王宮(サッタレ・ダルバール)で、心なしか西の方向に傾いているように見える(写真13右上)のだ。大きな揺れが起これば、パゴタ(写真13左下)などがさらなる被害を受けるとともに、かつてゴルカの王様が女王たちと過ごしたというサッタレ・ダルバール王宮の建物は北西側のトリスリ川の谷に崩れ落ちる可能性がある(写真13右下)。このヌワコット王宮(サッタレ・ダルバール)の建物はネパールで人気があり、車などの装飾としても描かれている(写真13-2)。

写真13 ヌワコット王宮の破壊状況(2)。

写真13-2 大学にきたトラックに描かれたヌワコット王宮(サッタレ・ダルバール)の建物。

 

4) ヌワコットからカトマンズへ


写真14 ヌワコット周辺の赤土と破壊された旧式住宅。

  ヌワコット周辺は広大な赤土(ラテライト)地帯で、土は粘土質なので、水気を含めば軟弱地盤になる。地震が起こった4月25日は乾季ではあったが、今年は雨が多かったため土は水を多分に含み、地震で揺れやすかったのであろう。トリスリ川沿いの赤土地帯でも旧式の民家は著しい損壊状況を示していた(写真14下)。

  このヌワコットの旅では、深刻な地震被害の現場を見てきたが、トリスリ川沿いに下ると、ボートで川下り(ラフティング)するネパール人一行を目にすることができた(写真15左上)。川岸では地元の子供たちと犬までもが一行を歓迎しているのをみると、彼らにも少しづつではあるが、心の余裕ができてきたのかもしれない。トリスリ川は川幅100m以上の泥の大河で、その上に架けられた長い吊り橋を女性が一人、悠然と渡っていた(写真15右上)。トリスリ川沿いに下る道が、ポカラからの街道に合流するガルチには、ポカラを象徴する熱帯的な朱色の火炎樹の花が咲き始めていた(写真15下)。

写真15 トリスリ川と火炎樹。

5) カトマンズの大気汚染


  写真2の赤の矢印が示すように、今回の旅ではカトマンズ盆地を3方向から眺めることができた。まずは、シヴァプリ峠南側からは盆地上数百mにわたり、大気汚染のスモッグの層が覆っていることがはっきりと分かる(写真16上)。カトマンズ大学からバクタプールやカトマンズ盆地を見通せるサンガからは早朝であるにも関わらずすでに盆地はスモッグに覆われ(写真16左下)、またカトマンズ盆地の西の峠であるチャンドラガリでは、帰りの夕方ではあったが、乳白色の巨大なスモッグがカトマンズ盆地全体を覆っていた(写真16右下)。カトマンズの大気汚染問題は言われて久しいが、一向に改善の兆しが見えない。

写真16 3方向から見るカトマンズ盆地の大気汚染。

6) 氷河湖決壊洪水など


  1970年代にクンブ地域での氷河調査を助けてくれたハクパ・ギャルブさんから、5月25日夜9時半頃、イムジャ氷河北西のローツェ氷河から氷河湖決壊洪水が発生した(*)との電話連絡がきた。小規模な洪水で、被害はなく、チュクン周辺の川が増水した程度だったそうだ。

(*)小森次郎さんからの情報で次のカトマンズの新聞リパブリカに載っていることを知りました。
http://www.myrepublica.com/society/item/21661-experts-puzzled-by-water-overflow-in-everest-area.html

  ローツェ氷河の末端モレーン(氷河堆積物)は侵食によってすでに大方崩れ去っており、問題になっているイムジャ氷河などのように、末端モレーンが自然のダムになって、その上流側に大きな氷河湖をつくる心配はないので、洪水が起こったとすれば、その上流のデブリ(岩屑)に覆われた化石氷体部分にできた池が崩壊して、出水したものであろう。

  今回の地震でクンブ地域の実家を壊されたハクパ・ギャルブさんたちは、ネパールの将来を考えて、多くの方に地震情報を発信しつづけてくれていますので、思い悩んでいる彼と彼の友人たちに、少し楽観的すぎるかもしれませんが、下記のようなメイルを送りましたので、紹介します。

伏見 碩二   2015/05/20 
Dir Sir,
As you know, Japan is a disaster country. We have frequent earthquakes which cause sometimes the Tsunami, a huge wave, and we had a nuclear power plant accident at the time of the earthquake and Tsunami four years ago. Even a volcanic activity is also related to an earthquake. We, Japanese, have to live with these four major disasters; earthquake, Tsunami, volcano and nuclear power plant.
Here in Nepal, you don't have Tsunami, volcano and nuclear power plant, but you have only one disaster, an earthquake. I am hoping and I am sure that your Nepalese people face against the only one disaster and make an earthquake disaster reconstruction how longer it is required.
"Good Luck and Namaskar" to you all from Hiroji Fushimi

  すると、(実は後から知ったのですが、東ネパールのクンブ地域は「2015年ネパール地震」の4月25日の本震よりも5月12日の余震による被害の方が大きく、クンデ村のハクパさんの実家も壊滅してしまったという。)その彼から、次のような返事がきました。

Sherpa Lhakpa   2015/05/20  
Excellent analysis Professor Fushimi Hiroji
Thanks
LG Sherpa

  最後に、ランタン村の雪崩災害の原因については、大阪市大のランタン・リ登山隊が、ランタン・リ山頂の崩壊による雪崩発生を現地で目撃しています。また、ランタン村上流のキャンジン・ゴンパ周辺も雪崩の被害が報告されていますが、これはランタン・リルン周辺を起源とする別の雪崩と思われます。いずれにしても、エベレストBC周辺でも雪崩災害がありましたように、今年3月~4月のネパールの天候が不順で、ヒマラヤ山地がかなりの降・積雪に見舞われたところ、4月25日の2015年ネパール地震がきっかけで、傾斜が急な多雪地域で雪崩が発生したものと解釈できます。

2015年5月18日月曜日

2015年ネパール春調査(8) 2015ネパール地震(3) ポカラからカトマンズにもどりて

2015年ネパール春調査(8)

2015ネパール地震(3)

ポカラからカトマンズにもどりて


ポカラからカトマンズへ

  カトマンズの代表的な木の花を紫色のジャカランダ(写真1)とすると、ポカラは朱色の火炎樹(写真2)だろう。火炎樹はマレーシアなどの赤道に近い地域の花で、ポカラはカトマンズよりも600mほども低く、より暖かく、熱帯的な気候なので、火炎樹に適しているのであろう。両都市の女性たちが着るサリーの色にも両者の色が反映しているような印象がある。火炎樹が咲きはじめたポカラを後に、5月14日、カトマンズまでの約200キロの道中(写真3)をふたたびバスで復習した。ヒマラヤ山脈のアンナプルナとマナスルを水源とするマルシャンディ川とガネッシュとランタンを水源とするトリスリ川の合流地点、道中のほぼ中間地点であるムグリンまでは地震による家屋倒壊などはほとんど見られないが、ムグリン以降は、カトマンズに近づくにつれて被害家屋が多くなり(写真4)、テント暮らしの人たちが増えてくる。

  往路で見たマルシャンディ川は氷河起源をしめすグレーシャーミルクの乳白色をしていたが、復路に見ると、トリスリ川同様の泥色の川(写真5)になっていた。上流で大規模な土砂崩れなどの自然破壊が起こっているのかもしれい。また、中国が上流で建設している大規模なダム建設の人為的影響もある可能性がある。ムグリン近くの日本の援助でできた既存のダムでは発電のための取水をするので、マルシャンディ川の一部が涸れ川になるが、今回のマルシャンディ川は涸れることなく、大量の泥水を流していた。今年は降水量が多く、豊水年になっているためなのだろうか。降水量が多いことはヒマラヤの降雪量も増えていることを示し、そのことが今回のエベレスト・ベース・キャンプやランタン地域などでの雪崩災害とも結びついている。

  カトマンズにもどり、定宿のターメル地域に行くと、バザールの家々は比較的新しいため倒壊被害は免れたが、壁などのひび割れなどがあり、観光客相手の店が半分以上も閉まっている。馴染みの日本料理店も当分は閉店休業だという。今回は既に泊まっていた2軒のホテルが建物の被害が大きいため閉まっており、その近くの日本人が設計したという地震被害がない3番目のホテルに泊まることができた。耐震設計で建設されたかどうかで明らかな違いが出ている。そのためもあり、ホテル代が当初の900から2番目の1200、そして今回3番目の2000ルピーへとしだいに高くなったが、それもいたしかたない。

 写真1 カトマンズのジャカランダ。

写真2 ポカラの火炎樹。

写真3 GPS軌跡の青い線がポカラからカトマンズへのバス・ルート(2015.05.14)。*貞兼綾子さんからの指摘で元図のSindhupalchowkの位置を修正し、Dhadingの地域名を加えた。

写真4 被害家屋が多く、テント暮らしの人たちが増えてくる。

写真5 右側のトリスリ川同様の泥色のマルシャンディ川が左側から合流するムグリン。

カトマンズにもどり

新興住宅開発地域
  2005年9月25~26日にカトマンズで国際地滑りシンポジウムが開かれた時、カトマンズ近郊の新興住宅開発地域で地滑りが発生*したので、エクスカーションにくわわり、地すべり地域の危険な住宅開発を実感したが、その地滑り地域が今回の地震でどんな影響受けたのか、カトマンズにもどった翌日に調査に出かけた。カトマンズの西のソエンブナート寺院近くのその住宅開発地域は平坦な台地(状のテラス)下の斜面にあるのだが、10年前に田園地帯だったその地域は都市化が急速に進み、かつての面影がなくなったため、すぐには目指す住宅開発地域に着くことができなかった。最初は、テラスの上に行く道に入ってしまったので、テラスの上から展望し、住宅開発地域への道をやっと確認することができたほど、都市景観が変わってしまっていた。
Housing Site and Landslide in Kathmandu
http://glacierworld.weebly.com/1housing-site-and-landslide-in-kathmandu.html

  住宅開発地域に入り、西端の地滑り地点に近づくと、地中に幅50cmほどのコンクリートの堤防状の構築物が5列、20m間隔でつくられており(写真6)、近くでボーリング作業が行われていた。聞くと、堤防状の構築物は深さ6m、底部の幅は3mあるとのことで、この構築物によって地滑りをくい止めることができたそうだ。そこで住宅開発を推進するため、ボーリングで地下水を探していたところ、地下230mのカトマンズの湖底堆積物底部から飲料水に適した地下水が出てきたとのことである。

  カトマンズの湖底堆積物は砂や粘土のため水をふくむと軟弱地盤になり、地震で大きくの揺れる。10年前に建てた家でも塀や壁のひび割れや部分的な倒壊が起こっていた。家の人たちは、余震が続き、とうてい家には住めないので、戸外でテント生活をしている(写真7)、と語っていた。10年前に較べて、現在のところ住宅個数はあまり増えていないが、今後は住宅開発が進むことであろう。その際、地滑りを止めたという堤防状の構築物が地下水を貯めるダムのようになって、砂や粘土の堆積物の軟弱地盤化を引き起こす可能性が考えられるので、カトマンズでは軟弱地盤対策なしに住宅開発がすすむと、さらなる地震での被害は免れえないであろう。今回の地震が土壌水分量の少ない乾季の4月に起こったことは不幸中の幸いで、もし6月から9月の雨季に起こっていたら、土壌水分量の増加による軟弱地盤化で家屋の倒壊はさらに増えたことであろう。

写真6 地すべり防止のためコンクリートの堤防状の構築物(右奥にボーリング場がある)。

写真7 新興住宅開発地域のテント生活(背景にスワヤンブナート寺院の丘が見える)。

スワヤンブナート寺院と自然史博物館
  カトマンズ西の丘にあるソエンブー寺院はポピュラーな観光地の1つである。仏教寺院とヒンズー教寺院などが共存する多神教の聖地になっていると思われるが、なかでもその中心に鎮座するのがラマ教の仏塔である。これらの貴重な寺院が大きな被害受けたため、現在その片付けや部分的な修復が行わている。そこで、観光客が入ることが禁止されているが、幸い門番がポカラの人だったので、ポカラのよもやま話をするうちに、入ることを許してくれた。ソエンブー寺院の破壊の様(写真8)を見て、チベット高原のギャンツェの白居寺(パンコル・チョエデ)寺院を思い出した。毛沢東一派が仕掛けた文化大革命で紅衛兵によって寺院などがめちゃくちゃに破壊されていた。まさに、巨大な人災そのものであった。ソエンブー寺院の破壊された仏塔にX字型の亀裂(写真8)ができているが、これは岩石などの圧縮実験で上下方向から強い応力がはたらく時の特徴で、地震の際に仏塔が大きく揺れ、上下方向に圧縮応力がはたらいたことを示している。このような亀裂の特徴は1995年の阪神・淡路大震災の時に神戸で被災した建物でも観察された(付録の写真16)。

  この丘の上の寺院群からはカトマンズの街が一望できるが、カトマンズのかつての伝統・文化的な風景は見る影もなく崩れ、ランドマークだったビムセン・タワーも消え(*)、ところどころに、大規模なテント村(写真9)が散在している。あと半月もすれば、4ヶ月もつづく雨期になるが、それまでに家が修復できないと、テント暮らしはますますきびしくなることであろう。すでにこちらでは、6月の梅雨の花、アジサイが咲き始めている(写真10)。
(*)2015年ネパール地震(2)ポカラ紀行(写真速報)
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/05/2015-2015.html

  スワヤンブナート寺院の南側にはトリブバン大学付属自然史博物館がある。京都大学に留学したケシャブ・シュレスタさん(写真11)は当博物館の館長だった方で、荒廃した環境を取り戻すため、環境教育と緑化活動を進めるNGO組織「ネパール環境教育開発センター」(略称セニード)を設立したので、私たちもその活動を支援してきている。今回は自然史博物館の現状を見るために行ったところ、博物館は閉鎖され、玄関と前庭周辺にはテントが張ってあり、避難民が滞在していた。玄関前にいた方にケシャブさんのことを尋ねると、電話してくれ、3日前にカナダから戻ってきたばかりのケシャブさんとの再会を果たすことができた。話は地震被害の暗いものが多かったが、最後に「博物館敷地の環境公園だけは地震の影響もなく順調に育っている」と初めて笑みを浮かべて語ってくれた。

写真8 スワヤンブナート寺院の破壊した仏塔(X字型の亀裂は神戸の地震でも見られた)。

写真9 カトマンズからビムセン・タワーは消え、大規模なテント村が出現。

写真10 カトマンズ大学ではアジサイがすでに咲き始めている。

写真11 自然史博物館前のケシャブ・シュレスタさん。

付録(今後の予定をふくむ)
  新興住宅開発地域からソエンブー寺院へのリングロード周辺には急速な発展を象徴的にしめす大きなビルが建てられたが、淡路・阪神大震災の際神戸で見たのと同じように、いくつかの建物は完全に根元から崩れていた(写真12)。それにしても、神戸と同じ規模の家屋の破壊が起こったのに、なぜ神戸のような大火災による2次的な大被害が起こらなかったのであろう。木の家と土やレンガの建物の違いなのだろうか。2015年ネパール地震(2)ポカラ紀行(写真速報)の写真26(*)を見ると、かなりの材木の残骸があるので、火災が起きてもおかしくはない。火を使う時間からすれば、神戸が朝6時前、カトマンズが昼12時前で、カトマンズの方が火を使う可能性が神戸よりも大きかったのにも関わらず、カトマンズでは大火災が起こらなかった。日本が学ぶべき点であろう。すでにその破壊の現場には、鉄くずなどの金目の物を探す人々の姿があり(写真13)、荒廃から立ち上がる第1歩はこうした人たちによってはじめられている。
(*)2015年ネパール春調査(7)2015年ネパール地震(2)ポカラ紀行(写真速報)
写真26 バクタプールの破壊された民家を通り抜ける地元の人たち
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015/05/2015-2015.html

  カトマンズ大学への途中で、バクタプールのリジャンさんの家を訪れると、家の前で、地震が来ないことを祈る祭り(チャマ・プザ)が開かれていた。祭りの中央にはチュラという乾燥した(アルファー米のような)お米を山盛りにし、豆や野菜などで飾りつけた様式(写真14)を見ると、豊作祈願の意味もふくまれているのだろうか。ただ、祭りの最中に空が暗くなり、雷雨にともない直径5mmほどのヒョウも激しく降りはじめた。祭りは中断され、人々は心配そうに空を見上げていた(写真15)。私たちはその時点でバクタプールを離れ、カトマンズ大学に戻ったが、後でリジャンさんに聞くと、その後雨も上がり、祭りは続き、とどこおりなく終了したとのことである。祭りのご利益で大規模地震が来ないことを期待するばかりである。

  今回の地震で今後の予定にもいくつか変更がでてきた。まずは、当初予定していたカトマンズのヒマラヤ研究機関(ICIMOD)とのヒマラヤ写真データベースの英語版作成の共同作業については、ICIMOD自身がこの地震調査で忙しくなったため当分延期せざるをえない。また、ネパールの詩人で、日本文学の紹介者であったチェトラ・プラタップ・アディカリさん(*1)の1周忌の法事もこの大災害によって延期されることになった。さらに、カトマンズ大学は1ヶ月間の休校に入ったため、講義はなくなり、留学生たちは帰国しはじめている。講義はなくなったとはいえ、講義のホームページ(*2)の最終的なまとめをするとともに、今春のネパール調査の報告のなかで、今回の地震情報もできるだけ取り入れて、学生および関係者が今後も利用できるようにしていきたいと考えている。そのため、静かになったカトマンズ大学のキャンパスで最終的なまとめの作業を行ったうえで、予定通り610日に帰国するつもりでいる。


  最後になるが、私はこれまでネパールで3回の災害を体験している。1回目はクンブ地域で1977年9月3日のミンボー谷の氷河湖決壊洪水(*3)、2回目は2012年5月5日のポカラのセティ川洪水(*4)、そして3度目が2015年4月25日、つまり今回の地震である。まさしく、2度あることは3度ある、の例えのようになったが、気になるのは発生頻度が短くなってきているようなのだ。このことは、ネパールで体験する災害が3度で終わらずに、また近々、4度目が起こるやもしれないことを示すのだろうか。それにしても、ヒマラヤ関連の調査をする者とって、クンブ地域のイムジャ氷河湖近くのディンボチェ村の危機感を訴える住民が私たちのところに来て2009年4月に語った次の言葉(*5)を忘れてはならない。「去年は氷河湖調査隊が7隊も来た。調査隊は危険だとは言うが、何が、どのように危険なのかは言ってくれない。危険という言葉が独り歩きしているので、学校も発電所も作ることができないで困っている。もう、調査隊はたくさんだ。」
(*1)ネパール2014春調査報告 11 お世話になった人々
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2014/06/2014-11-6-6-2014-2014-april-01-is-april.html
http://glacierworld.weebly.com/2014241802614912493124971254012523355192661911.html
(*2)Kathmandu University Lecture-Environmental Changes of the Nepal Himalaya-
http://environmentalchangesofthenepalhimalaya.weebly.com/
(*3)Glacier Lake Outburst Flood (GLOF)
http://glacierworld.weebly.com/2glacier-lake-outburst-flood.html
(*4)セティ川洪水
http://glacierworld.weebly.com/5124751248612451240292794627700.html
(*5)イムジャ氷河湖関連報告
    http://glacierworld.weebly.com/612452125121247212515277032782728246.html

写真12 完全に根元から崩れた建物(スワヤンブナート寺院近くのリングロード沿線で)

写真13 建物が崩壊した現場では、人々が鉄くずなどの金目の物を探していた。

写真14 地震が来ないことを祈るバクタプールの祭り(チャマ・プザ)。

写真15 チャマ・プザの最中雷雨となり、天を仰いで心配する参加者たち。

写真16 1995年の阪神・淡路大震災の時に神戸の被災した建物で観察されたX字型の亀裂。

(休校になり静かになったカトマンズ大学で、いぜんとして鳴いてくれているカッコウーの歌声を聞きながら記す)

2015年5月7日木曜日

2015年ネパール春調査(7)  2015ネパール地震(2)  ポカラ紀行

2015年ネパール春調査(7)

2015年ネパール地震(2)

ポカラ紀行


   20年前の神戸を思い出すようなカトマンズ周辺の地震被害の状況を見たうえで、ポカラで長年世話になっている国際山岳博物館などの人たちに聞いても、「ポカラはなんともなかった」と言うのである。カトマンズや周辺のバクタプール、パタンでも、古い家が、特に歴史的建造物がのきなみ倒壊し、著しい被害がでているのに、「ポカラのオールド・バザールの伝統的な古い家並みも大丈夫」と言っている。

   今回の地震の震源地(震央)は当初ラムジュン(Lamjung)と言われた(*)。ラムジュンはポカラから50キロほどのすぐ東隣りである(写真1)。震源地から200キロほども離れて遠いカトマンズ周辺が大災害になっているのに、より近いポカラがなんともなかったとは、これはどうしてなのだろう。バスのルートはカトマンズからほぼ西200キロのポカラに近づくにつれて、震源地といわれていたラムジュン近くを通るので、車窓から見る被災地の状況変化に注目した。


(*)おそらく、アメリカ地質調査所(USGS)の「M7.8 - 34km ESE of Lamjung, Nepal」
http://earthquake.usgs.gov/earthquakes/eventpage/us20002926#general_summary
あたりから、ラムジュン震源地(震央)説が広まったのではなかろうか。

写真1 GPS軌跡の青い線がカトマンズからポカラへのバス・ルート(2015.05.03)。*貞兼綾子さんからの指摘で元図のSindhupalchowkの位置を修正し、Dhadingの地域名を加えました。

写真2 カトマンズのランドマーク、ビムセン・タワーが消えた(右上;今回の地震で根元から倒壊したビムセン・タワー)。

   カトマンズのランドマークの1つであるビムセン・タワー(ダラハラ)が倒れ、ランドマークが消えてしまった(写真2)。かつて1934年の地震の時にもビムセン・タワーは中程で倒れている(写真3の右上)ので、今回は81年ぶりということになる。よく言われることであるが、大地震は80~100年毎に(忘れた頃に)やってくるそうだが、その地震発生の確率が正しいとすれば、カトマンズ周辺の大災害を見るにつけ、その対策・対応に手抜かりがあったということになるであろうか。バスでポカラに向かう時には、カトマンズの中央郵便局前の十字路を競技場方向に曲がる際、白い優雅な姿を見せてくれていた(写真3)のだが、無残にも根元付近から折れてしまったのである。1934年の時の写真では、中程で折れていたので、今回の方が折れ方がより激しいようだ(写真2と3の右上)。


写真3 3年前のカトマンズのランドマークと1934年の地震で倒壊したビムセン・タワー(右上)。

写真4 カトマンズ郊外の街道筋の古い民家の被害(後ろの新しい家は被害がなさそうに見える)。

   カトマンズから西に、ポカラに向かう街道筋の古いレンガづくりの民家はのきなみ大きな被害をうけている(写真4)が、比較的新しい家は被害を免れているとはいえ、地盤が軟弱で滑りやすい場所では、新しい家でも大きく傾いている(写真5)。かつて調査したこの街道筋近くの新興住宅地*は、はたしてどうなっているだろうか。ポカラから戻ったら再調査したい。

*Housing Site and Landslide in Kathmandu
http://glacierworld.weebly.com/1housing-site-and-landslide-in-kathmandu.html

写真5 カトマンズ郊外の傾いた新しい民家(手前の鉄筋の家は被害がなさそうに見える)。

   カトマンズ盆地の西の峠を越えて、トリスリ川の渓谷に下る街道から北にガネッシュ・ヒマールが眺められ、その手前に、今回の地震で大きな災害をこうむったゴルカ北東のダーディン地域が垣間見える(写真6)。遠くから見ても、森林に覆われた山肌には、ところどころ地すべりで削られた斜面が現れており、この地域で被災された住民がヘリコプターでカトマンズ大学病院へ運ばれていた(*1)。この地域の災害状況はこの報告の最後に付録のなかで紹介している各種新聞や雑誌(*2)でも取りあげられている。

(*1)2015年ネパール春調査(6) カトマンズ大学にて(3) ネパール地震(1)
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015_04_01_archive.html
(*2)How 'Crisis Mapping' Is Shaping Disaster Relief in Nepal
http://news.nationalgeographic.com/2015/05/150501-nepal-crisis-mapping-disaster-relief-earthquake/

写真6 被害の大きかったガネッシュ・ヒマール南部のダーディン地域周辺

写真7 救援物資を運ぶトラック隊

   カトマンズからポカラへの街道は、トリスリ川とマルシャンディ川が合流するムグリンから南下すると、ネパール南部からインドへ通じる大動脈なので、普段は通行量が多いが、普段より車が少ないのは地震の影響と思われる。ただ、救援物資運搬中の表示シート(写真7)や赤い十字のマークを貼ったトラックがなパール南部地域からカトマンズに向かっていた。トリスり川沿いの集落では、比較的新しい民家でも大きな災害を受けているのが車窓から見てとれる(写真8)。

写真8 トリスリ川沿いの大きく破壊した民家

   トリスリ川沿いの道がムグリンでネパール南部やインド方面への街道と別れ、マルシャンディ川沿いに進むと、南からヒマルチュリ、ピーク29、そして8千m峰のマナスル、いわゆるマナスル三山が現れる(写真9)。マナスルとピーク29の手前直下には2008年以来調査しているツラギ氷河湖があり、そのため分岐地点のドゥムレからラムジュン地域を通り、マルシャディ川を北上するツラギ氷河湖へのラムジュン地域の道は記憶に焼きついているが、今回の地震の震源地がこの地域と報道されたのでなおのこと気になってしょうがなかった。

写真9 ドゥムレ周辺から眺めたマナスル三山(左の円内の左がマナスル、右がピーク29; 右の円内がヒマルチュリ)

   ラムジュン地域が今回の地震の震源地(震央)と言われているのに、ムグリンからドゥムレのラクジュン地域に向かうにつれて、地震被害を受けた民家は見られなくなった。震源地に近づいているのに被害がほとんど見えてこないのが解せなかった。そんなことがありうるのだろうか。

写真10 ドゥムレ周辺で被害のないスレート屋根の民家

   ドゥムレに向かうにつれ、スレートの石を張りつめた重量感のある民家も被害を受けてはいないのに驚いた。というのは、20年前の神戸・淡路大震災では、灘の酒蔵などの重たい瓦屋根の建物が軒並み倒され、変動地形の大家、藤田和夫先生をお見舞いに行ったら、やはり瓦屋根の邸宅が倒壊していた。石や瓦の屋根は重たい(慣性が大きい)ので、大きくは揺れにくいが、地面と密着した土台は地震に追従して揺れるので、家がひしゃげてしまって、倒壊しやすくなると言われている。ドゥムレ周辺のスレート屋根の民家が被害を受けなかったということは、震源地と言われたラムジュン近くの地震の揺れは、そもそも大きくはなかったことを示している、と解釈できる。

写真11 神戸・淡路大震災で倒壊した瓦屋根の邸宅の前に立たれる藤田和夫先生

写真12 ドゥムレ周辺で被害のないトタン屋根民家

  ドゥムレ周辺の民家にはトタン屋根が見られた(写真12)。トタンが導入される前はスレート屋根だったと思われるが、トタンのほうがスレートの石よりも軽いので、地震に対しては安全性が高いのは確かだ。カトマンズ大学の宿舎に泊まっている職員や学生が、トタン屋根の食堂で夜を過ごしていた*ように、トタン屋根は地震対策の1つになると感じた。トタンは錆びると汚い感じがするので、ラムジュン・ヒマールのふもとの民家を見たとき(写真13)も景観的に問題があると思ったものだが、生きるか死ぬかの地震災害を考えたら、まずは景観のことなど言っていられないだろう。

*2015年ネパール春調査(6) カトマンズ大学にて(3) ネパール地震(1)
http://hyougaosasoi.blogspot.jp/2015_04_01_archive.html

写真13 ラムジュン地域のトタン屋根の民家

   ただし、トタン屋根の集落で景観問題も解決したのがクンブ地域の村(写真14)である。水色や緑のペンキを塗り、錆止めし、村全体が統一されている。没個性的な感じがしなくもないが、とにかく安全性とサビの問題を解決した点は良し、としたい。


写真14 クンブ地域クンデの新しいトタン屋根民家の集落(この地域の一部の新しい家屋も今回の地震で倒壊し、被害者も出ている)。

   ポカラに近くなると、相変わらずの新築ラッシュであった(写真15)。各柱部分には8本ほどの鉄棒を立てセメントで固めたネパール式の鉄筋建築である。このような鉄筋建築は、よほど地盤が悪くない限り、今回の地震では被害を受けてはいなかった。建築中の床や屋根部分を支えている竹の棒があっち向いたりこっち向いたりで不安定な感じがするのだが、これでもそれなりの経験に裏打ちされたネパールの工法なのであろう。ただ、ネパール式の鉄筋建築は地震に対して効果があったと思われるが、建築ラッシュで大量の砂・砂利を河川から取ってくることから、かつての日本で議論されたような環境問題になることには留意したほうが良い。

写真15 ポカラで建築中のネパール式鉄筋の民家

写真16 ポカラのオールド・バザールのスレート屋根の伝統的民家

   それでは最後に、ポカラのオールド・バザールの伝統的な民家を見てみたい。1つはスレートを使った重たい屋根(写真16)で、先にも述べたように、地震の揺れに対しては弱い弱点を持つものだが、今回の地震でも被害がなかったようだ。ポカラの震度が小さかった証であろう。またもう1つは、ポカラの伝統的な民家の中でも最大の建物ではなかろうか(写真17)。レンガ造りで、屋根にはトタンが敷いてある。トタンは新しい用材なので、かつてはスレート屋根であったと思われるが、今回のポカラの震度の小さかったことに加えて、屋根がトタンで軽かったため、被害をまぬがれたものと思われる。また特に、トタンのサビの茶色が壁のレンガ色にマッチしている、といえなくもない。ネパールのレンガを使った伝統的な民家であれば、たとえトタンが錆びていても、地震対策の点や景観的にも、それほど悪くないというのが今回のポカラ紀行の結論の1つである。

写真17 ポカラのオールド・バザールのトタン屋根の伝統的民家

  ポカラには、3時半の予定が2時半に到着した。着いてすぐ、友人に迎えに来てくれるよう電話したのだが、1時間も早く着いてしまったので、友人はびっくりしていた。バスの到着は遅くなることはあっても、早くなることはないからである。地震の被害が少ないため道路状況も良かったし、車の量も地震の影響で比較的少なかったので、私たちのバスはスムースに走れたのであろう。途中で眺めたマナスル三山周辺の雲はポカラに着いた夕方にはほとんどなくなり、雪をいただいた神々の座は夕日に赤く染まり、雲ひとつない天空に満月が輝いていた(写真18)。

写真18 夕日のマナスル三山と左上の満月(合成写真)

ポカラ紀行のまとめ


  5月3日のカトマンズからポカラへのバス・ルートはほぼ西に向かって200キロ、ポカラに近づくにつれて、震源地といわれていたラムジュン近くを通るので、車窓から見る被災地の状況変化に注目したところ、下記の点が印象深く心に残った 


1)カトマンズからムグリン周辺までは家屋などへの地震被害が多く見られたが、ラムジュン周辺のドゥムレからポカラに近づくにつれて、家屋などへの地震被害は少なくなった。
2)したがって、当初報道されたラムジュン震央説は再考を要すると思われる。
3)地震の規模を示すマグニチュードは当初の7.9→7.8→7.6に、また震央はラムジュンから5月5日の新聞ではゴルカ地域のバルパクに修正されているように、正確な情報を確立する必要がある。
4)家屋の具体的な地震対策としては、軽いトタン屋根が現実的で、壁材がレンガなら、景観的にはトタンの鉄サビもそれほど気にはならないが、さらにクンブ地域の例のように、ペンキで屋根の色を統一している集落も参考にはなる。
5)ネパール式の鉄筋建築は地震に対して効果があったと思われるが、建築ラッシュで大量の砂・砂利を河川から取ってくることから、かつての日本で議論されたような環境問題になる可能性がある。

   以上のように総じて言えば、震源地といわれていたラムジュン地域のすぐ西隣りのポカラの家々はカトマンズ周辺のような大きな被害もなく、学校もカトマンズのように半月以上も休校することもなく、通常通りの学校・市民生活が営まれているのである。ポカラでは、カトマンズのように余震を恐れて戸外でテント生活をすることは、ない。カトマンズ周辺のような大被害見舞われたところだけの狭い視点でなく、たとえばポカラ・カトマンズ間200キロ規模またはそれ以上のスケールでの鳥瞰図的視点から見た地域的特徴も、今回の2015年ネパール地震の正しい実態を明らかにするうえで必要になる、と考える。
   
  最後に蛇足かもしれないが、地震の影響で観光客が少なくなり、ホテルや土産物店などの観光産業に影響が出ているとともに、また展示更新を現在行っている国際山岳博物館への見学者も減っているとのことであった。

付録


1)地震情報

   高知県立大学の大村 誠さんから教えていただいたのが、国土地理院による2015ネパール地震の解析結果(写真19)で、内容は下記の通りである。


【地殻変動の特徴】
・地震に伴い10cm以上の地殻変動が見られる領域は、カトマンズ北方を中心として、東西160km程度、南北120km程度の範囲に広がっています。変動域の南部は隆起、北部は沈降しています。
・カトマンズの北方から約30km東方にかけての領域が最も地殻変動が大きく、最大で1.2m以上変位したことがわかりました。地震に伴い大きく隆起したと考えられます。
・観測された地殻変動の特徴から、北北東傾斜の断層による逆断層滑りが生じたとみられます。
【断層モデルの推定結果】
・カトマンズの北東20-30kmの領域の直下に、最大4m超の滑りが推定されました。
・やや右横ずれ成分を含む逆断層滑りが推定されました。この結果は、地震波の分析とも整合しています。
なお、今回の結果は速報であり、今後より詳細な分析等により、今後内容が更新されることがあります。

   国土地理院による2015ネパール地震の解析結果によると、震源地(震央)はポカラに近いラムジュン、地震規模を示すマグニチュードが7.8(当初のネパールの報道では7.9)で、余震の震源地域全体が逆断層滑りを起こしている、とのことである。つまり、正断層のように断層面の上側の地盤が滑り落ちるのではなく、断層面の上側の地盤がせり上がるような動きを起こしている、と報告している。このことは、この地域全体に圧縮応力が働いた結果、断層面の上側の地盤がせり上がる「逆断層滑りが生じ」たものと解釈できようが、「変動域の南部は隆起、北部は沈降」したとはどういうことであろうか。逆断層滑りで南部が隆起するのは理解できるが、同じメカニズムで北部が何故沈降するのかが分からない。それとも北部は正断層のメカニズムで断層面の上側の地盤が滑り落ちたのなら、沈降したことが理解できるのである、が。

写真19 国土地理院による合成開口レーダー(SAR)の解析結果に地名などを加えた図

   5月5日のネパールの新聞(The Himalayan Times)によれば、震源地は当初発表のラムジュンではなく、ゴルカ地域のバルパックで、マグニチュードは7.6とさらに低く見積もらている(写真20)。震源地がゴルカ地域ならば、写真19の余震地域のほぼ中央に位置するので、4月25日午前11時56分の本震の震源地からほぼ四方にその影響が余震の震源地となって現れたものと解釈できるし、またゴルカ地域のすぐ北側のシンドパルチョークに著しい被害が出ていることも、かつ湖底堆積物で軟弱地盤のカトマンズ周辺で被害大きく、ラムジュンに近いポカラで被害少ない地域的特徴を理解することができるのである。
   国土地理院による解析結果では、震源地をラムジュンとしているために、なぜ、震源地に近いポカラで被害が少なく、シンドパルチョークやカトマンズなどで被害大きいのか、が理解できなかったが、2015ネパール地震のマグニチュードが当初の7.9→7.8→7.6と変わってきているように、正しい震源地についても新たな情報があきらかになれば、今回の地震の地域的特徴がより明らかになるものと思われる。

写真20 The Himalayan Timesの新たな震源地ゴルカ地域のバルパックを示す図 (Page 3 ; 2015.05.05)

写真21 震源地ゴルカ地域のバルパックの災害状況(The Himalayan Times ; 2015.05.04)

   最近の地元の新聞では、被害の大きかったシンドパルチョーク地域とともに、新たな震源地として報道されたゴルカ地域のバルパックの取材記事が多くなっている(写真21)。その例は日本の新聞にも見られ(写真22)、”ネパール地震:震源地・バルパク 標高2000メートル「ツナミのよう」 道なき道、物資背負い”などとの見出しで大きく報道されている。記事には、”鳥のさえずりが響く中、「ツナミにやられたようだ」と村人が言った”と記しているが、山国ネパールの村人が「津波」を知っているかどうかはともかく、今回の2015年ネパール地震でも、被害をセンセーショナルに報道するあまり、当初の震源地ラムジュンに近いポカラで被害少なかったことなども、地震の正確な実態をつかむために必要なことであるがセンセーショナルな報道の陰に隠れてしまっているのは残念と言わざるをえない。

写真22 震源地ゴルカ地域のバルパックの災害状況(毎日新聞 ; 2015.05.06)

2)カトマンズ周辺の被害状況

   それでは最後に、文化的建造物が多く、世界遺産にも登録されているカトマンズ周辺の被害状況を報告する。

写真23 バクタプールの破壊された歴史的建造物の片付け作業

   バクタプールの伝統的文化施設はかつてドイツの支援もあり、また保存のために一人1500ルピーの入場料をとって、維持管理してきたのであるが、今回の2015年ネパール地震で多くの世界遺産に被害が出てしまった(写真23)。80年ほど前のかつての1934年代地震から考えると、今回のような大地震がいつあってもおかしくはない状況にあっただけに、被害軽減と災害防止のための手立てが十分だったのかどうか、悔やまれる。

写真24 パタンの破壊された歴史的建造物の片付け作業と見守る観光客

   パタンのマンガル・バザール周辺の歴史的建造物群もかなりの被害が出ており(写真24)、早急な修復作業が必要になっている。

写真25 カトマンズの破壊された歴史的建造物前を通過する地元の人たち

   軟弱地盤である湖成堆積物の上に建つカトマンズのダルバール・スクエアーの旧王宮建物群にはかなりの被害が出ている(写真25)。

写真26 バクタプールの破壊された民家を通り抜ける地元の人たち

   バクタプールの古い民家の被害も大きく、崩れた建材で通路がふさがれている状況を見て、20年前の阪神淡路大震災の神戸の街を思い出した。