回想記
琵琶湖の雪(1)
はじめに
雪どけ水を集めた小川のせせらぎのほとりでは、いかにも雪からでてきたかのような顔をしたフキノトウのかぐわしい薫りがみち、あざやかな金色のフクジュソウが咲きはじめる。そして雪原にあらわれた大地がしだいにひろがると、雪は山地へとひきさがり(図1)、そのあとを新緑がおおう。
図1 菜の花畑と比良山
図1 菜の花畑と比良山
長い冬をこらえた雪国の人々にとっては、とりわけ、春のくるのがまちどおしい。日本は雪のおおい国である。 北半球で積雪が1mをこえる地域は、渡辺興亜氏1)によると日本のほかに、北アメリカ大陸西岸と東岸、グリーンランド南部、スカンジナビア、アルプス、ソ連のウラルとカムチャッカ、それにヒマラヤなど中央アジアの一部である。私たちの国では、日本海側が多雪地域だ。
シベリアやモンゴルなどの凍った大地をふきぬけてくる北西の季節風は、対馬暖流によって温められた日本海をわたるうちに水蒸気をふくむ。そして、温められた空気は上昇し、雪雲ができる。この過程は気象衛星「ひまわり」の画像でおなじみである。日本海からおしよせる雪雲は、日本の脊梁山脈でせきとめられ、日本海側一帯に雪をふらす。そのなかでも、北陸地方はとくに雪がおおい。北陸地方の平野部の都市でさえも、積雪の深さ(積雪深)が3mにたっするのもまれではない。
日本人が暮らしているなかで最大の積雪深にみまわれる地域は、北陸地方の山間部だ。ちなみに、武田栄夫氏2)は、「伊吹山頂では、1927(昭和2)年2月14日に、積雪が実に1,182㎝になった。これは、世界の山岳で確認された最深の記録となっている」と伊吹山の世界記録についてのべているが、琵琶湖の東にそびえる伊吹山の積雪深記録については、風が強いために、雪が吹きとばされ、地形的に吹きだまる影響が加わるので、必ずしも降ってきた雪によるもともとの積雪深を示さない場合がある。かつて私たちは、北アルプスの剣沢で、20mをこえる積雪のボーリングをおこなった。雪をためる地形と雪をはこぶ強い風があれば、かなりの雪がたまるのである(伊吹山頂の高橋式積雪深計は雪がたまりやすい窪地に設置されていたのである)。
しかし、その伊吹山測候所が観測した最大積雪深記録は大雪の証拠3)になる。じじつ、1927年に滋賀県で積雪深が1mをこえたところは、余呉町中河内の286㎝、木之本町の168㎝、今津町の101㎝となっており、1918年以来の記録をこえた。その年は北陸地方を中心とした大雪で、積雪深は新潟県の赤倉で405㎝、高田で372㎝、そして福井県は100年来の大雪4)と報告された。
冬の日本海側に雪をふらせる北西の季節風は、脊梁山脈をこえると、乾いた風となって太平洋側にふきおろす。関東平野の“からっ風”や濃尾平野の“伊吹おろし”などがそれにあたる。太平洋側の冬は、日本海側と対照的だ。冷たく乾いた季節風が、晴れあがった青空のひろがる村や町をふきすさぶ。
日本の冬にあらわれるこのような気候的な地域性は、ほかのどの季節よりもはっきりする。つまり、冬に雪や雨がふる日本海側気候区と、降水がほとんどない太平洋側気候区だ。
琵琶湖集水域は、まさに日本海側気候区と太平洋側気候区の境界に位置する。しかも、日本における両気候区の境界線は脊梁山脈とほぼ一致するが、ここではその境界が琵琶湖のうえを横ぎる。そこで、琵琶湖集水域では、冬に特徴的な日本海側気候が北部に、また太平洋側気候が南部にあらわれる。中島暢太郎氏5)らは次のようにのべている。「滋賀県南部の大津などでは最多雨月が6月(梅雨)におこり、第2の極大が9月(台風)におこっている。一方、北部山岳地域の余呉町中之郷などでは、梅雨、台風および冬季の3つの降雨ピークがあるが、ここでは年変化の振幅は非常に小さく、年中多雨となっている」。彦根地方気象台のまとめた年平均降水量分布をみると、北部の山間部で3,000㎜ともっともおおく、南部の平野部は1,600㎜の比較的乾燥した地域になる。(図2)
図2 琵琶湖集水域の年・月降水量分布
琵琶湖集水域は両気候区の境界地帯となり、年々の気候条件を反映して境界地帯の位置が変化するので、降雪の分布や積雪量の変動が大きくあらわれる。このような地域は、鈴木秀夫氏6)の分類による準裏日本気候区に相当する注1。
図3は、琵琶湖集水域の積雪地域が、北陸地方からつづく積雪分布の南限にあたることを示す。つまり、積雪分布からみると、北陸地方を中心とする日本海側気候区の周辺部に、琵琶湖集水域があるとみなせる。
図3 琵琶湖周辺の冬のランドサット画像と日本の豪雪地帯分布
琵琶湖集水域の積雪現象には、北海道や東北などの寒冷地と異なり、冬でも降水・降雪・融雪・流出の諸過程が併行してすすむ。だから、日本の積雪からみると、琵琶湖の雪はいわば暖地の積雪だ。琵琶湖集水域の雪は冬でもとけて、湖をうるおす。琵琶湖の雪は、水を多量にふくむので重い。滋賀県の人がよぶ「湖北(滋賀県北東部)しぐれ」の重い雪は、琵琶湖の水資源だけでなく、近江の人びとの暮らしにも大きな影響をあたえる。冬でも融雪流出があることが、渇水期の淀川流域の水資源に貢献する。
この報告「琵琶湖の雪(1)」では、琵琶湖の雪を暖地の積雪として、その地域的な分布(空間的構造)と時間的な変動(時間的構造)積雪構造としてとらえ、琵琶湖の雪からみた暖地の積雪特性をまとめる。
それではまず、近江の人たちの暮らしとの関連をふまえ、琵琶湖の雪、つまり琵琶湖集水域の積雪の一般的特性についてのべる。
A. 暖地積雪
ら旋をえがきながら、つぎつぎと舞いおちてくる六華の雪をながめていると、いつのまにか自分の体が大空にひきあげられるように感じる。
「雪は天から送られた手紙7)」といったのは中谷宇吉郎氏だ。彼はまず、自然の雪の結晶形を分類し、実験によってほとんどの結晶形をつくりだし、1つひとつの雪の結晶ができるときの気温と水蒸気量を明らかにした。たとえば、よくみられる樹枝状や六角板状の結晶は-15℃前後の気温条件で形成されるが、樹枝状のほうが水蒸気の供給量がおおいときの結晶形である。また、中央部の六角板結晶のまわりに樹枝状結晶が成長していることもある。この場合は、中心にある六角板結晶が上空の水蒸気のすくない状態の気層でまず形成され、六角板結晶が落下してくるうちに、地表に近い水蒸気を多量に含んだ気層にはいり、六角板結晶のまわりに樹枝状結晶が成長したことを示す。つまり、結晶形をみるとその時の気象状態を推定できるので、中谷宇吉郎氏の「雪の手紙」となる。
琵琶湖の雪には樹枝状結晶がおおい。樹枝状結晶といっても、たくさんの結晶がより集まったボタン雪が一般的だ。そして、樹枝状結晶の表面を虫メガネなどでよくみると、小さなこぶがたくさんついている。雲は零度以下の気温のときにも過冷却状態の小さな水滴となる場合がおおいので、この小さなこぶは、上空でできた雪がそのような状態の雲の中を落下するときに、過冷却水滴が雪の結晶面に凍りついたものだ。
琵琶湖集水域南部でよく経験するように、地表付近の気温が零度以上のときにふる雪は、すでにとけかけていて、教科書などにみられる典型的な樹枝状結晶のようなとげとげしさはなく、丸みをおびる。琵琶湖の雪は、北海道などの乾き雪と異なり、冬でもぬれ雪なので、いわば「水雪」の感じがする。
北海道の雪のように、冬のほとんどの期間、積雪の温度(雪温)が零度以下で、水をふくまない乾いた積雪にたいして、琵琶湖の積雪は冬でも雪温が零度の場合がおおく、水をふくんで重い。このような積雪を、中島暢太郎氏と渡辺興亜氏はそれぞれ「暖地性積雪」、「暖候地積雪」とよんだ。これが、この報告でいう暖地積雪である。とくに琵琶湖集水域の南部では、冬でも降雪・降水・融解・流出の諸現象がひんぱんにおこる。そのような積雪現象の変化のはげしい地域を、樋口敬二氏は、「ときどき雪国」注2)と称した。新幹線や名神高速自動車道などで間欠的におこる交通障害は、典型的な「ときどき雪国」現象である。その時の降雪は「ゲリラ雪」とも呼ばれている。(図4)
図4 「ゲリラ(吹)雪に注意」の看板がかかる名神高速道路(彦根付近)
北海道の乾いた積雪がちょっとした風でも舞いあがりやすいのと対照的に、琵琶湖の暖地積雪は人や家などに重くまとわりつくのできらわれるが、降雪直後の陽ざしをあびた寒ツバキの赤い花から融雪水がこぼれおちるのも、暖地積雪ならではの風情といえる。
B. 豪雪・廃村・過疎
1983~'84年の冬ははやくきた。晩秋の寒気団の南下にともない、すでに10月23日には、伊吹山や比良山などの山々に例年よりも9日はやい初雪がおとずれた。11月ともなると、比叡山にも降雪があり、新雪が紅葉をおおった。
琵琶湖集水域北部のなかでもとくに、滋賀県最北部の余呉町から福井県今庄町に通じる北国街道ぞいの中河内周辺は、北陸地方からつづく豪雪地帯といえよう。
膳所藩の儒官、寒川辰清は中河内について次のようにしるしている。「近江國の北極にある村也。此村より越前の國界まで一里有なり8)」。「北極」とは最北の意味だが、それにしてもこの簡素な書きかたのなかに、越前(福井県)にほどちかい中河内の北陸的な光景がうかぶ。木之本からの北国街道が中河内へとこえる雪の椿坂峠は、越藩史略によると、江戸時代初めの1628年に、「八百人余」が雪崩で死亡したと報告されている日本最大の雪崩災害地である。
かつての中河内は北国街道の宿場として栄え、多くの伝馬が常備され、本陣・旅館・商店などが軒をならべていたという。しかし、3度にわたる大火で昔の面影はすっかりなくなり、いまでは、いかにも急ごしらえを感じさせるブロック家屋などのたたずまいとなってしまい、宿場としての町並をすっかり失ってしまった。
北国街道の県境が栃ノ木峠である。この峠の名前は県境にそびえる樹齢数百年とおぼしき栃(トチ)の大木からきている。「越前路、六道あり。虎杖(イタドリ)越・庄野嶺越・倉坂越・沓掛越・大浦越・七里半越なり8)」。越前路のひとつ、「虎杖越」が北国街道にあたる。「虎杖」とは栃ノ木峠に近い今庄町板取である。「虎杖越。所謂、北陸道、東近江路といふもの是也。官路なり。中河内村より、越前の國虎杖村に出るの路なり。木本村より、中河内村に至って五里、中河内より国界に至りて一里半、国界より越前の国虎杖村へ一里半、虎杖村より今庄に至りて二里ある也8)」と記されている。
冬ともなると、北国街道ぞいの村々は数mもの積雪におおわれる。1963(昭和38)年1月の中河内村の積雪深は3.6mに達した。1963年は、西高東低の冬型気圧配置が長いあいだつづき、大寒波が襲来したので、北陸地方を中心に東北地方から九州にわたるひろい範囲が大雪にみまわれた。これが、いわゆる三八(サンパチ)豪雪である。日本海岸ぞいの各地では、鉄道・道路・家屋・通信網などが大被害をうけた。滋賀県内でも、余呉町の中河内・椿坂や伊吹町の甲津原・吉槻などをはじめ、10以上の村が長いあいだ孤立した。また、1981年の中河内の積雪深は実に6mをこえたのである。寒川辰清の江戸時代はもとより現在においても、この豪雪地帯の村人の苦労がしのばれる。中河内で北国街道をはなれ高時川(丹生川)ぞいにくだる道は、半明(村)の新しくたてられた炭焼き小屋をすぎると、でこぼこの砂利道となり、峡谷左岸をすすむ。高時川上流の中河内には舗装された北国街道がはしり、また高時川下流域の菅並周辺ではひろい谷間に河岸段丘が発達するので、ともに交通の便がいいが、半明から菅並までのあたりは地形・道路が悪いため、高時川流域では最上流部よりもちかづきがたい地域となっている。
図5 滋賀県北部の廃村(針川にて)
半明から下流に約3㎞、高時川支流の針川との出合でやや谷がひらけると、そこに晩秋のススキに深くおおわれた廃村があった。(図5)くずれ落ちたカヤぶきの屋根とはがれた土壁。14家族がすんでいたとのことである。そこに残された雨露のかかる古新聞は、離村の悲しみを象徴するかのようだった。
半明の新しい炭焼き小屋は、山林に依存する生活がいぜんとしてつづいていることを示してはいるが、この四半世紀のあいだの燃料変化──とりわけプロパンガスの普及──にともなって、木炭製造などの自然と共存する山村の生活が苦しくなった。一方、琵琶湖集水域北部にも都市化・工業化の波がおしよせ、自動車道の開通とともに、山村から湖岸近くの工場などへの通勤が可能となる。現在では、中河内からもおおくの人が木之本や長浜あたりまでもかよう。
道路が整備され、都市への通勤・通学がはじまると、出稼ぎにともなって都市への人口移動がしだいにおこり、山村などの過疎化が進行する。その影響をつよくうけるもののひとつが学校である。中河内小学校の児童数は、「4年生以上が6人、3年後には児童がゼロとなって廃校の運命にある」(中日新聞、1982年5月31日)と報道され注3)。
北国街道ぞいの宿場として栄えた中河内は製炭業中心の村となったが注4)、今のような過疎化がすすむと、これから先はどのように変わってゆくのか。子供のすくない村はさびしさがただよう。すでに10年以上も前から、この豪雪地帯の積雪観測をたんねんにつづけてこられた中河内小学校の谷口孝敏先生たちの苦労も、ほかの学校へと移ることで中断するのだろうか。
高時川上流の人びとの生活にそのような変化がすすんでいるところへ、豪雪がおいうちをかけたと思う。1969年にまず奥川並、つづいて翌年に針川、さらに翌々年に尾羽梨の人たちがつぎつぎと集団移住していったという。高時川最上流部よりもちかづきがたいこれら下流の地域に、まず廃村化がはじまったのは、道路事情によるところもすくなくないであろう。
いまでも冬になると、針川のすぐ下流の余呉町鷲見・田戸・小原の3区には、道路除雪が順調にいかないときがおおいので、郵便物がとどかない。そこで考えだされたのが冬の郵便物集配請負人制度である。「中之郷郵便局員が菅並まで運んだ3地区の郵便物を、同地区の請負人が受け継ぐ。時には2m近い雪壁の間に続く道で、小牛大のイノシシと鉢合わせ。思わず雪壁をよじ登って命びろいした」(京都新聞、1982年2月4日)。都市の、いわゆる便利な生活となんと違っていることだろう。奥川並、針川、尾羽梨につづいて、鷲見・田戸・小原の人たちも集団移住の意向をかためている9)、とのことだ。
琵琶湖集水域北部の豪雪・廃村・過疎は、北陸地方と共通した日本海側の自然・社会現象のようにみえる。
日本の山村からの人口流出はすでに戦前にもみられたが、昭和30年代後半からの人口流出はとくに山間部に過疎地域をひろげていった。いわゆる高度経済成長期に都市化・工業化がすすんだのと裏腹に進行したこの過疎化・廃村化について、藤田佳久氏は次のようにのべる。「人口の地すべり的流出が進行し、三八豪雪がそれをさらに加速すると、山村問題が地域問題として認識されるようになった。それを受けて1965年に山村振興法が、1970年に過疎法が施行され、莫大な投資が行われた。その結果、山村の景観は一変し、幹線道路や支線道路、林道の整備がすすんだ。役場などのセンター施設の新装建築、小中学校の統合校舎や公民館の建設、さらに一般民家の改築もすすんだ。しかし、学校統合の結果、廃校となった地区から長年の地域社会の核を奪い、既存の生活圏の枠組崩壊や人口流出を促した10)」。
晩秋の針川の廃村には、ナダレ防止用にのこされてきたといわれるブナ林が黄色に輝いていた。だがいまは、その美しいブナ林をみまもってきた村人たちはもういない。そして、この豪雪・廃村・過疎地帯にもちあがってきたのは、ダム建設の話だった。
C. 雪国の家
1983年10月の伊吹山の初雪で、湖北の人たちは例年のように、雪囲いなどの冬をむかえる準備に忙しい。そして、11月と12月の寒波で湖北の山々はふたたび白銀に輝いた。こうした何回かの冬の徴候のあと、大寒波をともなう冬将軍がどっとおしよせる。この厳冬への変化は急で、大きい。
図6 雪止瓦の民家(彦根周辺にて)
雪囲いのできた家の屋根をみると、雪止め用のでっぱりのついた瓦が使われていたり、丸太やムシロが固定されている。(図6)これは、雪が滑り落ち、軒さきが破損するのを防いでいるものだ。積雪量の多い湖北では、「雪止め瓦」が2~3列にもならべられている場合もある。今西錦司氏は、東海道線ぞいの雪止め瓦の分布について、「東は木曽川付近ではじめて現れる。その出現率は垂井-関ケ原間60%、関ケ原-柏原間の分水嶺付近で74%の最高率を示し、それより柏原-近江長岡間の63%・・・・・・ついに守山以西にはほとんどこれを見ることができなかったのである。このように東海道線を通じて、その分布範囲が関ケ原、柏原、近江長岡付近を中心とした地域に限られているのも、一方では東海道線における積雪の分布状態と密接な関係にあることを示すものにほかならない11)」とのべている。大津駅周辺の家にもわずかながら、軒さきから4~5枚めの瓦にこの雪止め瓦が使用されているのも、「ときどき雪国」のそなえなのだろう。
図7 カヤぶき屋根の民家(高島市の安曇川上流にて)
湖北の伝統的な民家の特徴は、太い柱が用いられ、急な傾斜をもつカヤぶき屋根となっていることだ(図7)。杉本尚次氏は、「湖北の家は伊香型と名づけられたもので、ほとんど妻入である。屋根は草葺入母屋で勾配の強いものが多い。広間の部分のみが奥の畳敷の床より低くなっていて落間(ニュウジ)とよばれている。いわゆる地床住居である。この構造は“炉の火持ちがよい”といわれ、冬季は地温で保温上便利である。このような間取りが湖北の伊香郡を中心に分布することは、一つには裏日本からこれに隣接する湖北地方にかけての積雪地域に適応した型とも考えられる12)」、とのべた。さらに彼は、湖北の居住様式の特徴として、採光用の「明り窓」、風呂桶の横を開いて中に入り、木製の蓋を被る「蒸風呂」などをあげている。
だが、抗しがたい都市化の進行とともに、湖北の伝統的な生活様式も変化する。たとえば、すでにのべたように高時川の針川などでは廃村化という急激な変化がおこり、また姉川上流の甲津原や知内川上流の国境などではスキー場をもつ民宿村があらわれた。この四半世紀の急速な社会・自然環境の変化は、これまでの地域にねざした伝統的な生活様式をけしてゆく新しい波にみえる。これらの炭焼き村に伝わっていた「山講(やまこう)」などのしきたりはきえていくのだろうか。
だが冬ともなれば、湖北の村里はふたたび深い雪にうもれる。新しい波の影響がいかに大きくとも、湖北の村人と雪との結びつきがきえることはない。重い屋根雪にたえるには太い柱が、また雪おろしの労力をはぶくためには急傾斜の屋根が必要だ。琵琶湖のぬれ雪の密度は0.4~0.5gr/㎝3程度なので、1mの積雪は降水量でいうと400~500㎜ほどになる。これが屋根のうえにそっくりのると、1㎡あたりの重量は400~500㎏にもなり、軽自動車1台分、またはおすもうさん4人程度の重さに相当する。だから、大雪のときには、各家ともたくさんの自動車とおすもうさんをのせているようなものだ。
最近では、伝統的なカヤぶき屋根はトタン屋根にかわったとはいえ、いぜんとして伊香型の急な屋根のスタイルを保っている。新しい波にもまれながらも、伝統的な知恵がいきている。「里人の話だと、カヤぶきの屋根は雪が積もりだすと適度に落としてくれるが、トタン屋根は滑りがよすぎて家が埋まってしまう」(朝日新聞、1981年1月8日)。そのような利点をもつカヤぶき家屋だが、カヤ場の維持や屋根のふきかえが大変で、「カヤ屋根は煙をたえず通して乾燥させないとすぐ腐ってしまう。けど今どき、イロリの時代じゃないしねぇ」(朝日新聞、1981年1月8日)と報道されたように、カヤぶき屋根はすくなくなってしまった。 ドイツ人の建築家、ブルーノ・タウトがたたえた富山・岐阜県境の豪雪地帯の白川村などにみられる合掌造りのように、伊香型家屋は福井県などの多雪地域の民家様式と共通性をもち、これも雪国の生活がうんだ知恵の結晶といえるのではあるまいか。
D. 雪害と雪利
伊吹や鈴鹿山地などの積雪調査をおえ、川ぞいにくだる道が最後の谷の曲がりをすぎると、そこに広大な平野がひらける。はるかかなたにかすむ比良山地などの雪山をいただいた琵琶湖のひろがりをみると、湖を中心とした湖国の自然のまとまりを実感する。分水嶺にはっした水をとおして、自然も人もおたがいに結ばれて、湖とつながる(図8)。湖国は、また山国でもある。
図8 琵琶湖と比良山
図8 琵琶湖と比良山
寒川辰清は、「琵琶湖八景あり。呼んで近江八景といふ。何人の名づけしことをしらず」とのべ、琵琶湖八景のひとつをうたった「雪はるる比良の高根の夕暮は花の盛りに過る比かな」(近衛政家)を紹介している8)。いわゆる「比良暮雪」だ。白銀の山々は夏山とは違った自然の厳しさを示すが、雪化粧の言葉があるように、とくに朝日と夕日に赤くそまる雪山は山の美しさを象徴的にあらわす。琵琶湖にその姿をうつす雪の比良山地などをながめていると、まとまりのある自然のおちつきにやすらぎをおぼえるとともに歴史への想いにかられる。
陰暦の11月は「霜月」だが、「雪見月」ともよばれる。雪見灯ろうをたて、雪見酒をたしなみながら、雪景色を鑑賞する俳人たちなどの姿がしのばれる。「はつゆきや幸い庵にまかりある」(芭蕉)。このように、雪の美しさをたたえる人たちがいる一方、雪を白魔とみる俳人もいた。小林一茶である。彼は「霜降月(霜月)のはじめより白いものがちらちらすれば、悪いものが降る、寒いものが降ると口々にののしりて、はつ雪をいまいましくといふ哉・・・・・・昼も灯にて糸とり、縄ない、老たるは日夜榾火にかぢりつく」、「雪ちるやおどけも言えぬ信濃空」や「これがまあ終の栖(すみか)か雪五尺」となげく。大雪による白魔は雪地獄ともなる。雪国の生活にとって、「雪害」は農業・林業をはじめとし、道路・建築などにも大きな影響をあたえる。
江戸時代の越後の商人・鈴木牧之は、「暖国の雪一尺以下ならば山川村里たちどころに銀世界をなし、雪の飄々翩々(ひょうひょうへんへん)たるを観て花に諭え玉に比べ、勝望美景を愛し、酒食音律の楽を添え、画に写し詞をつらねて、称翫(しようがん)するは和漢古今の通例なれども、是雪の浅き国の楽み也。我越後のごとく年毎に幾丈の雪を視ば、何の楽き事あらん。雪の為に力を尽し財を費し千辛万苦する事、下に説く所を視ておもいはかるべし13)」と、雪浅き国と雪深い国の人たちの雪にたいする考え方の違いを記している。
ところで、鈴木牧之が苦労をつづった時代に、チョンマゲをゆって刀をさした大名が、虫メガネをつかい、雪の結晶を調べていた。下総国(茨城県)古河の殿様、土井利位(としつら)である。彼は雪の結晶形に関する研究を「雪華図説14)」として、19世紀はじめに刊行した。しかも、土井利位の雪の図は、「ゆきわ」としてしられる家紋や着物の絵柄にまで使われている。
土井利位は雪の利点・効用についてつぎのことをのべた14)。1)「空気をきれいにし、山に積って川を養うこと」。これは雨と同様の効果だ。2)「冷凍用に貴重であるとともに、医療に必要なもので、雪でこすると凍傷がなおること」。当時は、雪は冷源として貴重だった。そして現在では、雪でこすって凍傷をいやしたことがある人はすくないかもしれない。3)「田畑の作物をやわらかくつつみ、寒さで、いためられぬようにするとともに、寒さが地中に入るのをふせぐ」。雪は寒気を伝えにくい性質があるので、作物の保護と地面の凍結(凍上)防止に役だつことをのべたものである。だから、関東地方では「麦の雪は麦俵」16)といって、降雪を歓迎するそうだ。雪洞で寝たことのある人なら、外気温が零下20℃程度となっても、積雪の中はせいぜい零下数度にしか冷えないことをしっているだろう。4)「よく輝いて冬の日を明るくし、気持をさわやかにするとともに、学者は自然科学をまなび、詩人は山川の美景をたたえることができる」。これなどは、雪浅き国の人としての彼の気持ちがよくでている。
土井利位がのべている、5)「1尺以上の積雪は豊年となること」は、広くいい伝えられている。たとえば、大田忠久氏は岡山県の「雪は豊年の花」、「雪にがしん(ききん)はない」とのべ、積雪が多いと山地が水を吸収し、かんがい用水が豊富になるとともに、越冬中の害虫が凍死したからだ17)、と説明している。しかし、これには異論もある。加納一郎氏は北海道の石狩平野で稲の収量と積雪量の変動を検討し、豊作は雪がおおい年にもすくない年にもあらわれるので、このいい伝えが石狩平野ではあたらないことを示した19)。また、市川健夫氏は、適当な積雪は凍上・旱ばつ防止に役だつから太平洋側では「大雪は豊年の兆」だが、日本海側では「三朔日(さんついたち)(3月1日)雪あれば凶作」といって、大雪の年は陽気が遅れるため不作となる16)、とのべている。このように、積雪量と作物の収量との関係は、地域によっても雪の量によってもことなる。中河内では、あとでのべる春先の「あか(紅)雪19)」を豊年の兆として喜ぶとのことだ。
日本人と雪氷とのかかわりは古く、なかでも氷室(ひむろ)の記述が各地にのこる。寒川辰清は氷室について次のように記した。「氷室の始は、仁徳天皇62年5月、額田大中彦皇子、闘鶏(つけ)という所に猟し玉ひて、山に登り野中を見やり玉ひしかば、菴を作りたる所あり。土を一丈余り堀て、草を其上に葺く、茅萱などを厚取舗て、氷を置たるに、こほりで如何やふなる大旱にも解ず。是を取て熱月に用いるとなん8)」。との日本書紀から転載されたと思われる公事根源の記述を紹介し、滋賀県の氷室について「今其所在は、遺址つまびらかならずといえども、誠に此地のやうす、太甚山中にして寒気つよく、氷をたくはふべき地なり。定めて上龍華か途中かにありし成りべし。好事の者もなき故に、自ら古跡も云傅ものなし。千年の後は、いよいよ故蹟の一・二のこりしも、皆となへ失なうべし。是臣が深憂とする所なり8)」とのべている。つまり寒川辰清は、乾いた草などで氷を保存した氷室が大津市北部の和迩川流域にあったことを推定している。奈良県の笠置山地にある闘鶏の氷室のことは樋口敬二氏によって紹介された。それによると、氷室の氷は池氷で、池に張る氷の薄い年は気候不順だとし、農産物の豊凶を占うため、毎年正月元旦に氷の状況が奏上されたので、これらの資料を解析すれば、当時の気候変動をしることができる20)、とのべられている。
以上のように、雪に関連する現象においても、ほかの自然現象と同じように、利・害の両面がある。最近では、「利雪の時代」という言葉が使われはじめたように、雪を有効に利用しようとする積極的な動きがあらわれた。対馬勝年氏は、雪の冷熱を利用した温度差発電・都市冷房・食糧貯蔵などを提唱している21)。これなどは現代の氷室といえる。山形県では克雪技術研究協議会が「克雪」という雑誌を発行し、新潟県十日町市は「克雪都市」宣言をおこなっているのも、そのような時代の変化を反映するものと思う。
琵琶湖集水域の暖地積雪は年によっては豪雪となり、人びとの生活に交通・通信・家屋倒壊などの被害をあたえる。琵琶湖集水域は日本海側気候区の周辺部にあり、冬の季節風の影響をまともにうける湖国の人びとにとって、暖地積雪との生活は宿命的でさえある。湖北の民家のように、そこには雪国のうんだ伝統的な生活様式があったが、この四半世紀の急激な都市化・工業化とともに、琵琶湖集水域の豪雪地帯の山村も急速に変化し、過疎・廃村化が進行している。だが、これまでの雪害に泣いてきた受身の立場から転じて、一部には山村の新しい生活基盤をつくる民宿村などへの動向があらわれた。「利雪の時代」をむかえて、雪害を最小限にくいとめ、さらに雪利を最大限にひきだすためにも、琵琶湖集水域の暖地積雪の特性を明らかにする必要がある。
謝辞
この報告をまとめるにあたって、名古屋大学・水圏科学研究所の樋口研究室と滋賀県土木部道路課が収集した資料を利用させていただいた。ここに、これらの長期的かつ広域的にわたる貴重な観測に従事してこられた方がた、また現地調査にあたり便宜をはかっていただくとともに有益なお話しをきかせてくださった伊吹町甲津原の草野丈正氏、余呉町中河内の前崎みよ氏、マキノ町在原の上田文吾氏をはじめとする地元の方がた、そして今津町箱館山の観測に便宜をはかっていただいた箱館山スキー場と滋賀県生活環境部消防防災課の方がたに深く感謝する。
─── 注 ───
1) 鈴木秀夫氏(1966)の日本の気候区分はわかりよいものだが、裏日本気候区と表日本気候区という日本の気候区分の用語は、「表」に対する「裏」といういわば「表」からの主観的な見方があると思うので感心しない。文部省はすでに教育・報道機関にたいして、裏日本を日本海側または日本海沿岸、表日本を太平洋側または太平洋沿岸とするように通達しているが、今のところ学会ではこれらの裏日本気候と表日本気候の用語がいぜんとして使用されているようだ。
関口武氏(1959、日本の気候区分・東京教育大学地理学研究報告、3、65-78)が示すように、表日本気候区の北陸地方と、表日本気候区の東海地方および瀬戸内気候区とそれぞれの漸移気候区としての伊賀地方としてのべることもできたが、日本の積雪現象の地域特性からみても、とくに南北方向の違いの大きい琵琶湖集水域の気候区分をのべる場合、どうしても広域的な気候区分からみることが必要なので、できれば「裏」「表」の用語にかわって、「日本海側気候区」と「太平洋側気候区」のような地理的により客観的な用語が学会でも定着しないものだろうか。
2) 樋口敬二(1978)
雪国文明論.“第3回雪国問題研究会速記係”、1~36、国土庁地方振興局、東京.
樋口敬二氏は、雪国を寒冷型雪国と温暖型雪国にまず区分し、温暖型雪国より南に位置し、雪国になったりならなかったりするところを「ときどき雪国」と分類した。「東海道新幹線が冬に遅れるのは、関ヶ原付近の雪のためである。とくに、琵琶湖東岸の、普通は雪が降らない所に降ると影響が大きい。このように、年によって雪国になったり、ならなかったりする地域には、独特の雪問題があり、対策も普通の雪国とは違ったものが必要である。そんな地域のことを、「ときどき雪国」とよんで、注意を喚起したのである。[樋口敬二(1984)「ときどき雪国」宣言.朝日新聞、3月7日夕刊]。
3) 中河内小学校の6年生3人が卒業すると、1984年度から、児童が1人となるので、その存廃について協議してきた余呉町は存続することに決定した。この結果、全国でも珍しい、児童1人の小学校ができることになった(京都新聞、1984年2月9日)。
4) 1892年の長浜-敦賀間の北陸線開通で、北国街道とともに栄えてきた中河内はさびれ、1894年につづく1895年の大火で、多くの人が村をはなれたという。のこった人たちは製炭業に従事することになり、木炭質の品質改良につとめたので、「中河内炭」の名声はひろくみとめられ、販路が拡張し、東京・名古屋までも進出した(参考文献:伊藤唯真・柿原正明(1960)
北国街道筋村落の習俗と生活
─── 滋賀県伊香郡余呉村を中心とした歴史地理的調査とその考察───.東山高校研究紀要、7、43-127)。
引用文献
1) 渡辺興亜(1980) 地球上の積雪地域. 月刊地球、海洋出版、2、3、189ー200.
2) 武田栄夫(1980) 近江気象歳時記. 近江文化叢書5、219pp. サンブライト出版、京都.
3) 彦根地方気象台(1966) 雪害編. “滋賀県災害史”(滋賀県総務部消防防災課編)、109ー129.
4) 高橋浩一郎監修(1983) 日本気象総覧(下巻). 1060pp. 東洋経済新報社、東京
5) 中島暢太郎・後町幸雄・井上治郎(1977) 琵琶湖周辺の気象(1). 京大防災研究所年報、20、Bー2、553ー569.
6) 鈴木秀夫(1966) 日本の気候と気候区. “世界地理第2巻、日本”(石田・矢沢・入江共編)、41~62、古今書院、東京.
7) 中谷宇吉郎(1938) 雪. 161pp. 岩波新書、東京.
8) 寒川辰清(1735) 近江国興地志略(第1巻). 大日本地誌大系(蘆田伊人編集、1977)、39、406pp. 雄山閣、東京.
9) 石川正知・小林博・高橋昌明・畑中誠治・平田守衛(1979) 滋賀県. “日本地名大辞典”、25、1246pp. 角川書店、東京.
10) 藤田佳久(1981) 日本の山村. 271pp. 地人書房、京都
11) 今西錦司(1940) 積雪雑記. “山岳省察”、弘文堂、(山と探検、1970、34ー36、文芸春秋、東京.
12) 杉本尚次(1969) 近畿地方の民家. 269pp. 明玄書房、東京.
13) 鈴木牧之(1835) 北越雪譜. 宮栄二・井上慶隆・高橋実校註、1975、350pp.野島出版、三条.
14) 土井利位(1832) 雪華図説. “雪華図説覆刻版”、1968、17pp. 築地書館、東京
15) 中谷宇吉郎(1941) 「雪華図説」の研究. “第3、冬の華”、285ー320、甲鳥書林、東京
16) 市川健夫(1980) 雪国文化誌.NHKブックス、361、266pp. 日本放送出版協会、東京.
17) 太田忠久(1983) 暖冬につのる悲しさ. 朝日新聞(1983年2月19日)夕刊、4.
18) 加納一郎(1947) 雪の世界. 155pp. (財)子供の国、札幌.
19) 彦根地方気象台編(1911) 中河内ノ紅雪. 滋賀県気象界、59.
20) 樋口敬二(1982) 氷河への旅. 265pp. 新潮社、東京.
21) 対馬勝年(1983) 雪氷の有効利用. 京大防災研究所・水資源研究センター研究集会にて口頭発表.
付記
回想記「琵琶湖の雪(1)」は下記報告の一部分である。
記
琵琶湖の雪-暖地積雪の構造-.1983.琵琶湖研究所所報.2.79-117.
記
琵琶湖の雪-暖地積雪の構造-.1983.琵琶湖研究所所報.2.79-117.